子母沢寛 父子鷹 下巻 目 次  風かおる  遠雷  遊山無尽  爽秋  切見世  固唾  御用達  天の理法  新栗  慾の顔  鯛  塵芥  付懸け  宅番  羅紗羽織  知行所  山茶花  木曽路  御願塚  御紋服  御肴  白い椿  侍の最後  気合  木綿一反  他行留  雲雀  御見舞  死場所  庭作り  甲州神座山  垢離場  足懸り  青柿  新堀端  仲之町  味噌汁  我儘  町の師匠  馬方蕎麦屋  栄枯  気絶  江戸人  騒乱の世に [#改ページ]   風かおる  今夜はさわやかないゝ風がある。昼の間に仕立屋の弁治が、何処からか、珍らしい籠枕《かごまくら》が到来したというので置いて行った。小吉は縁へ出てそれをして団扇を使いながら星空を見ている。もっと真ん中へ出れば、風もよく来るのに、隅っこへ寄っているのは麟太郎が縫物をしているお信と向い合いに行燈を真ん中にして、きっちり坐って本を見ているから、何んとなく悪いような気がするからだ。 「御免下さいまし」  人が訪ねて来た。聞馴れない声だ。小吉はすぐに出て行った。玄関は暗い。が、五人いる。小吉も立ったまゝで、無言でじっと見詰めていた。 「中組八番の火消人足伝次郎と申します」  流石の小吉もびっくりした。と同時に、奥の居間にいる麟太郎の方へ首を曲げて見てから、小さな声で 「せがれが学問をしている。こんなところでごた/\云われては大層迷惑。用があったら、おれが方からすぐにも出向いて行くから、帰れ」 「へ?」 「帰らなけれあ斬っ払うぞ」 「へえ。実は」 「実はも屁もない、帰れ」  と少し怒鳴りつけてから急に 「只今、すぐに参ります。仕度をする間少々お待ちをいたゞこう」  そういって、奥へ引返して来て 「お信、妙見の講の事で、ちょいと出て来る。袴を」 「はい」  麻の白地に着かえて袴をはくと、例によって池田鬼神丸をすっとさして出て行って終った。麟太郎は、本から眼をはなし、お信を仰ぐように見て、にこりと笑った。小吉がこれを見たら、こ奴め、知りやがったかと、頭をかいて笑ったろう。  暗い中を、小吉が先きで、うしろへ何れも紺の香のぷん/\するまだ一度も袖を通さない中組八番の役付の絆纏姿で、無言で入江町の角、大横川の岸まで静かに歩いて来た。小吉は不意に立停って 「何用で来た」  といった。 「へえ」 「闇討なら、人数が足りなかろう」 「と、と、飛んでもござんせん、勝様、闇討どころかお詫に参ったのでございます」 「何んの詫だ」 「へえ」  と伝次郎は、地べたへ坐って終った。四人もつゞいて坐った。 「頭を丸めてめえるべきが本当でごぜえますが、それじゃあ気障だ、見せつけだと、お気持を損じましてはと思いやして、髷をつけたままで出ましてございます」  伝次郎は地べたへ顔をすりつけるようにした。 「これなるは組の役付人足一同でございますが、勝様、重々これ迄の不重宝、どのようなお仕置も仰せに従いますでござんす」 「何にをいっている」  と小吉は笑声で 「仕置どころかおれはお前らなんぞ愚にもつかねえ人足風情を何んとも思ってやしねえ。思ったらお前の首なんざあ、とっくの昔、胴へくっついちゃあいねえんだ。おれがせがれの急所へ、お前の犬が咬みついて飛んだ災難だったが、犬はおれが斬った。元々おれがせがれは可哀そうに何処までも運悪く生れついている奴だ。まあ/\それでいゝ。世上の噂じゃあ、お前の方がおれをどうとかするという事だが、止めたのか」 「へえ、まことに申訳ないことを致し乍らそれを逆恨みなど、勝様、文盲の人足でごぜえます。御勘弁を願います」 「それはともかくお前、評判が悪いな。|がえん《ヽヽヽ》破落戸《ごろつき》、天下の町火消がそんな事じゃあ仕方があるまい」 「へえ」 「それに、北組十二番とも不仲だというが、纏持の松五郎は、せがれがお前の犬にやられた時によく面倒を見てくれた。おれも恩は返さなくてはならない。お前、あの組とやるなら、おれが出て行くがいゝか」 「あれもわたしの組が悪い事、改めて詫に参るつもりでござんす」 「ほう、お前のところはまた、急に神妙な事になったではねえか。おれは臆病だから薄気味が悪いねえ」 「しかし深川にいて勝様というお方がどれ程のお侍かも知らず、横車を押していたなどは、全く、わたし共は馬鹿でございました」 「そうかねえ」 「お坊ちゃまへ、わたしの犬が咬みました事はどのようにでもしてお詫を申しますが」 「はっ/\。そ奴あ遅かったわ。せがれはもう達者で、このおやじの行状を、ちらり/\と睨んでいるよ。余計な事をされては却って迷惑千万だ」 「へえ」 「が、おれが方はいゝから、松五郎とは仲よくする事だな、あれは立派な男だよ。それにしてもお前ら山之|宿《しゆく》の佐野槌へ、ずいぶん早く駈けつけたが、あれ程早業が出来るというに火事というといつも/\出遅れで大火にする、いけねえな」 「へえ。実はあの時は|を組《ヽヽ》の頭取助五郎という者の祝事がありまして参って居りましたところ、喧嘩の対手は勝小吉ときき、よし、それならおれ達に呉れろと」 「おれが貰われたかえ」 「それが大変な間違いでごぜえました」  すうーっと風が流れて来た。川の匂をはらんで心なしか冷やりとする。 「いゝ風だ」  と小吉は 「話はわかった。お前らがおれを殺さねえというなら、今夜から枕を高くねむれるから、帰るよ」 「あ、か、勝様、勝様」 「噂は悪いが、逢って話せばお前も案外いゝ奴らしい。その中、松五郎共々ゆっくり話すとしよう」 「そ、それにつきまして」 「先ず松五郎と相談を定めてから来い。あ奴はおれがところのお信にも信用があって、話はよく通るからね」  小吉はもうどん/\行って終った。  お信は玄関へ出ていて 「何にをいって参りました」  と小さな声でいう。 「いゝ奴よ。あれで坊主になって来やがったり、指を詰めでもして気障な真似で来やがったら一ひねりしてやるところだが、そんな事もせず、ずばりと素直に出て来て詫びるところが気に入ったよ。これで界隈も静かになり、いゝ事だ」 「さようでございますねえ。安心いたしました」 「山之宿で、おれが田舎ッぺえらしい用心棒の侍達を斬払ってやったのに、あ奴ら余っ程肝をつぶした様子だ。間合《まあい》がとんとうまく行って見事に斬れたからねえ。人を斬らずに心を斬る、こう心掛けて居りますといつか男谷の精一郎がいったが、あの時は何にを云ってやがると思ったけど、本当だねえ。精一郎は偉い奴よ。剣術もあ奴が出て面目を一新するね」  伝次郎達が、後を追って来て、それから少しの間、往来に立っていたが、やがて帰って行く様子であった。小吉はにこっとした。  次の朝早く松五郎が来た。 「不浄が聞えるなどと叱られねえようにお坊ちゃまのお出かけをちゃんと見定めて参りましたよ」  と笑う。 「ゆうべ伝次郎が行ったのか」 「参りました。どうしても勝様にお前達同様お目をかけて可愛がっていたゞきたい、お前からも頼んでくれろと申しました」 「馬鹿をいうな。お前同様な奴らに、朝となく夜となく出入をされて堪るか。それではおれがお信や麟太郎の前で年中ちっちゃくなっていなくてはならない。が、あ奴もいゝ奴だなあ」 「江戸っ子にもこんな野郎が居るのかと見るからに虫唾の走る気障な野郎でござんしたが、がらりと人が変りましたね。わたしもびっくり致しやした。人間なんて一晩とも云われないものでござんすねえ」 「そうだとも、善人も悪党も紙一枚よ」 「全くです。あんな組頭なら、緑町の火事の消口なんざあ、黙ってこっちが手をひいてもいゝんです」 「そうしてやれ。消口なんざあどっちがとったって火事さい消えれあそれでいゝものだ」  松五郎が帰った後で、お信は 「今のあなたは、山之宿のお女郎屋などで、お刀を抜いて喧嘩をなさるようなお方とは見えませんでしたよ」  と笑った。小吉は頭をかいて 「お前はそういうがね、お前はあんな嫌やな人間の顔というを見た事がねえから、そんな事をいうのだ。人間にはな、何んの恨みもつらみもないに、ちらっと見ただけで腹の底までむか/\とこみ上げて来るような嫌やな奴がいるものだ。後になって考げえると、どうしてあの時に、あんなに腹を立てて無法をしたのかと思う事があるが、佐野槌で二階から投げ落してやった銭座役人などは本当にこの類《たぐい》よ。あの往来でぶっ倒れていた姿なんぞ、今、思い出しても、おれはまだ腹が立って来る」  庭へ向って、如何にもむか/\するというような顔つきでぺっ/\と唾を吐いた。 「よくあるなあ、あゝいう奴は」 「それはあなたの我儘なお心ではござりますまいか。広いこの世の中にはいろ/\なお顔のお人がござりましょう。もう、そういうものにはお構いなさらぬがお宜しゅうございます。先日麟太郎もあなたと同じような事を申しました」 「何、麟太郎が。な、な、何んといったえ」 「滝川先生の多羅尾様の御門番の顔がどうも気に喰わぬ、いつか喧嘩をしてやると」 「えッ? ほ、ほ、ほんとうか、それは」 「よく/\叱っては置きましたが、困った事でござります。これから世の中へ出て行く者が、今からあのように人にわけへだてをつけて見るはよろしくないかと思います」 「そ、そ、そうとも、そ奴はほんとにいけねえ」  と小吉は眉を寄せ、考え込んで終った。 「そればかりでは御座いませぬ。いつも滝川先生へ威張り散らす殿様の多羅尾七郎三郎様は赤禿だが、一度、思い切りあれをぶって見たいものだなどと申しました」 「こ、こ、困った奴だ。こら、お信、子が教えはお前《めえ》が勤めだ、しっかりしなくてはいけねえ」 「はい。わたくしも一生懸命、気はつけますが、あなたも、顔つきが気に喰わないからなどと、御勝手を仰せになり、二階から人様を投げ落すなどという事はお止めなされて下さいまし」 「わ、わ、わかったよ、わかったよ。が、麟太郎はよく/\叱って置け」 「はい」  小吉は出しぬけに庭へ下りて行った。てれ臭そうな顔をして、一度、お信の方をふり返った。  切戸から岡野の屋敷へ入って行く。岡野の庭はひどい荒れ方だが、何んといっても広いし、草木も多い。居なくなった江雪の好みでいろ/\な薄《すゝき》を植えてあるが、糸すゝきがよく延びて、これが風にそよ/\とゆれる。元々先々代の拵えた屋敷で、石の配置もいゝ。  用人部屋で、平川右金吾が、机へ肱をついて片手に団扇をもったまゝうつら/\と居ねむりをしている。机にも膝の横にも、いろ/\な帳面が置いてあって、途中の紙を折畳んだのもあり、開いて伏せてあるのもあり、大袈裟にいうと、一寸、帳面に埋もれているという感じだ。小吉は立ったまゝで 「おい、右金吾。まだ女郎の夢でも見てるのか」 「はっ」  右金吾がびっくりして眼をさました。暫くまじ/\と小吉を見て 「いや、どうにも斯うにも、こんな乱脈はありませんな」 「そうよ。逢対の時の差替の刀もねえという貧乏だ。帳面がしっかりしてる訳はあるまい」 「それにしてもひどすぎる。この帳面を調べるとどうしても五千両の金がある筈だが」 「べら棒奴、それあ借金だ。お前、金の勘定も出来ねえか」  右金吾はにや/\笑って 「先生、これでもわたしは元は酒問屋の伜だ。剣術に凝って家業をしないものだから、おやじが武家の株を買ってくれて態よく追払われましてね、先ずはこんな事になったが、帳合の事はよくわかるんですよ」 「そうか。お前酒屋の伜か。先代は酒乱、江雪と今の殿様が女道楽の競べっこをしている中にこんな有様だ。帳合なんぞ無駄な事だ。もう止せ。それにしても岡野にはいゝ用人が出来た」 「冗談ではありませんよ。わたしはこんな事をしているよりも、喧嘩でもして遊んで歩いている方が余っ程楽しい」 「馬鹿奴、喧嘩なんぞどうするんだ。あ奴を一度やる度《たんび》にがくん/\と人間が馬鹿になる。お前、そんな事をぬかすと、おれがところのお信に叱られるぞ」  小吉はにや/\して 「おれもたった今叱られて来たところだ」  と額を叩いた。 「しかしこゝの殿様は癖が悪い。奥様《おまえさま》がおっしゃった。近頃、ほら、屋敷の角を曲ったところに米屋がありましょう。あすこの娘を毎晩屋敷へ引張り込んで来て大酒をあおる。夜が明ける迄もやる。その酒代も莫大につもる。それから御隠居の江雪様からも金の無心の使が来ましたよ」 「何、江雪が?」 「それに殿様がさっきわたしを呼びつけましてね。お前はとてもこの屋敷には勤まるまい、暇を貰ったらどうだと怖い顔で云いましたよ」   遠雷  小吉は嫌やな顔をしたがそのまゝ奥へ入って行く。孫一郎は、眼《め》やにをつけて薄ぼけたような顔でぼんやり庭へ向って坐っていた。若いのに、肩が落ちて力もなくがったりしたうしろ姿を見ると、小吉はむか/\ッとして、張り飛ばしてやりたいような気持がしたが、やっとそれを呑込んだ。 「殿様、お暑う」  といった。 「おう、勝さん。いゝところへ来てくれた。わたしは今、剣術をやろうかと考えていた」 「それあ結構だ。あなたに仮りにもそんな気が出るとは、これあこの屋敷にも花が咲く。早速男谷が道場へ行きやんしょう」 「いや、毎日あすこ迄出て行くは大層だ。勝さん、おのしに教えて貰えぬか」 「わたしで良ければお対手はするが、知ってられる通り喧嘩剣術だよ」 「何んでも結構、わたしはぽん/\と対手をなぐりつけただけでもいくらかこちらのからだが、さっぱりするだろうと思ってね」 「ふッ/\/\ふ。それあそうだろう」 「道具はある筈だから早速お願いしましょうか」 「よろしい。が、伺うがね。あなたは用人の平川へ暇をとったらいゝだろうと申したそうだね」 「いゝや」  孫一郎は頻りに首をふって 「そんな事は云わぬよ」 「そうか。それならそれでいゝがね、今も用人部屋へ寄って見たが、あれはなか/\よくやっているよ」 「しかし、あれは、前の岩瀬がように金の工面はつくだろうか」 「つけろというならつけもしようが、お屋敷でこの上の借金は自滅の元だ」 「借金はしたくないが、どうにも速急の金が要るのでね」  晴れた夏空の遠くで、どろ/\と大きく雷が鳴った。小吉は腰を浮かせて 「夏らしく気持のいゝ遠雷だ。ひょっとすると夕立にでもなるかも知れない。さ、思い立ったが吉日、一本、稽古をしよう」 「そうか」 「木刀は型がはずれてぶたれても、ぶっても、からだにこたえて面白いが、殿様に打殺されても困るから、面籠手なし、竹刀でやりやんしょう」 「よろしい」  埃だらけになっている稽古道具を持出して来て、胴をつける孫一郎の不態《ぶざま》な手つきを見て、小吉は何んだか、涙が出て来るような気持がする。 「こ、こ、これでも御旗本の武家か」  せめて胴を上下につけなかったのが見つけものだ。  庭へ降りた。間合をとって向い合う。いつの間にか平川が縁の端近くへ来て、きちんと坐って見ている。  遠雷が頻りだ。 「やッ」  小吉が気合をかける度に、孫一郎は、びくッ/\として、身をひいた。 「どこからでも精一ぱいに打込んで来なくては稽古にならん。来なければ行くぞ」 「いや、わたしが行く。やッ」  孫一郎は時々調子ッぱずれの声をかけるが一歩も出ない。小吉は、とう/\ 「やッ」  と行った。金の立派な鳩酸漿《はとほおずき》の大きな定紋のついた桶側胴へ、物の見事に、とーんと入った。  入ったと思ったら、同時に孫一郎は、一間もぶっ飛んでそのまゝ打ち倒れて気絶して終った。 「おい、いけねえね、気絶かえ」  小吉はへら/\笑って 「平川、水を持って来て介抱してやれ」 「はい」  平川はあわてて飛廻って、やっと孫一郎を蘇生させた。 「どうだ、剣術は面白い、さっぱりしたでしょう」 「勝さん、無茶だ」  と孫一郎は頬をふくらまして 「おのしは剣術遣いだ、それがわたしを打《ぶ》つ事はないだろう」  孫一郎は平川を見て 「用人、床をのべさせよ。わしはねる」  やがて臥て終った孫一郎の枕元で小吉は笑い乍ら団扇で静かに風を送ってやっている中に、果して空に黒い雲が出て、忽ちざあーっと物凄い夕立になった。  孫一郎は、さっきから一と口もきかない。 「殿様、平川は剣術遣いだ。明日からあれを対手になさるがいゝね」 「もう剣術をやらない」 「それではいけねえよ。御隠居が時は、あれでも時々庭で剣術をやったのを、御存知だろう。時には大勢剣術遣いを招いて、木刀の型遣いなどを真面目に見ていたものだ。先々々代様迄は柳営《おしろ》でも幅の利いた御家柄が、このまゝくすぶっては勿体ないではないか」  と小吉は膝を寄せて 「第一御先祖へ申訳がない。麹町の御本家様も大層御心配と承っているが」 「ふん、御本家が?」  と孫一郎は白い眼を見せた。  そして如何にもいま/\しいという表情で 「たった三百両の借用方を、にべもなく断るような本家が何んだ。三千石岡部出羽守というは血も涙もないとよく、父上も云っていた」 「いやあ」  と小吉は 「御隠居があの乱行では三百両はおろか、百両、五十両も貸して下さらぬが当たり前だ。かつて御番入の話がほゞ定りかけた時も、御隠居は、得体の知れない女と舟遊びに出ていてこれを失敗《しくじ》った。御本家も無理はないのではないかねえ。が、殿様、用人からきいたが、御隠居が無心の状をよこされたとか」 「うむ」  孫一郎はむく/\と起上った。そして、首をふり胴をさすって 「剣術というものは、骨にこたえるものだね」  と苦笑しながら 「隠居が五両どうしてもよこせ。寄こさなければ、浪人共を差向けるといって来た」 「浪人共を?」 「命知らず共が大勢いるという」 「御隠居は浪人を養って謀反でもお起しなさるつもりかな。とにかく五人や八人の浪人なら平川一人で沢山、百人と来たら一声かければ、わたしが飛んで来る」 「しかし」 「そうですよ。そのしかしさ。御隠居が困っているなら投《ほう》って置く訳には行かない」 「それに」 「はっ/\/\。いろ/\な女共からの無心もあってねえ。そこで、金を借りたい、平川では金は出来なかろう、あれを追払って前の岩瀬権右衛門がような後は野となり山となっても、とにかく急場の金を拵えて持って来る|まかない《ヽヽヽヽ》用人を入れようという。え、もし、そうなんだろうねえ」  孫一郎は黙って終った。 「安心しなさい」  と小吉は 「本当に要る金なら、平川右金吾も確かに作る」  といった。 「そうか」  と孫一郎は半信半疑の顔つきで 「差当って二十両欲しい」 「ほう——。よしその金は作らせる。が、殿様、あんた明日から剣術の稽古をしなさるか。剣術というものは不思議なものだ、稽古をしていれば金の運がついて廻る」  小吉は一寸眉を寄せていたがすぐにへら/\笑い乍らいった。  孫一郎はからだを乗出すようにした。小吉は馬鹿奴ッというように、ちょっとそっぽを向いてから、わっはっ/\と大笑した。 「論より証拠、この勝を御覧な。ぶら/\遊んでいて、別に首が廻らぬ程の借銭《しやくせん》も出来ない。剣術のおかげだよ」 「やる。必ずやるから、おのし平川に二十両拵えさして下され」 「承知した」  小吉が家へ帰って来てお信の顔を見るとすぐ云った。 「岡野孫一郎というのは、あれあ本物の馬鹿だねえ」 「奥様《おまえさま》がお気の毒でございます。そうおっしゃらず御面倒を見てお上げなさいまし」 「うむ。孫一郎なんざあとんと気に喰わねえが、御高《おたか》は違っても同支配で江雪とは古い仲だから、おれは妙にあの男の事が気になってねえ。あれの生きている中は岡野の家の潰れるを見せたくねえ——はっ/\/\、この間、肥溜へ叩き込んでやったが、あれからどうしているかと実は心配している有様よ。女の清明とも仲がいゝのやら悪いのやら、あ奴、どうにも不思議な人間だ」  それから間もなく小吉は三ツ目の古道具市場につゞいた裏に住んでいる世話焼さんの栄助を訪ねていた。  市は休みで、がらんとしているが埃ッぽい様子もないのは、世話焼さんが几帳面で、市場の隣りにやっぱり世話焼さん達と同じように住んでいる二た夫婦を叱りつけてはよく働かせ、掃除を怠けないからだろう。一所帯は甥に嫁を貰ったもの、一所帯は姪に亭主を貰ったものだ。  栄助のおかみさんが平蜘蛛のようになってすぐにお茶を出す。 「頂戴する」  小吉はそういって、茶をのんでから 「実はな、また頼みで来たよ」 「頼みだなんぞと、勝様はどうしてそう幾度申上げても水臭くおっしゃるのでございますかねえ。やっぱりお武家だからでございますね。こう煤ぼけては居りますがね、これでも江戸ッ子の端っくれ、しかも山手なんぞの理詰めな冷めてえところと違ったこの本所《ところ》で、おぎゃあといって、そのまゝ、年をとったおやじでございますよ。栄助こうだと、おっしゃって下さいやしよ。この間だってあゝしてすぐにお金を返しにわざ/\お持ちなさる。口惜しくってねえ。あっしゃ、あの晩とう/\眠れなかった」 「そう云って呉れるは誠にうれしい——実は、おれは商売をはじめようと思ってね」 「商売?」 「お前に手引を頼みてえのだ」 「へ、へーえ」  暫くあっけに取られていた世話焼さんは、やがて一人で大きくうなずいてぱっと手を打った。 「ようがす、引受けました」  とびっくりするような声でいった。 「有難う。ところで、すぐにも儲けてえのだが、差当って口はないか」 「あります。さ、参りましょう」 「え?」  これには今度は小吉の方がびっくりした。  栄助は押入から、刀箪笥へ入ったものを持出して、|うこん《ヽヽヽ》の風呂敷に包み 「これは築地の蔵宿の番頭さんで又兵衛というお方のお頼みの備前|助包《すけかね》でございます。大層な上出来でございましてね。それをまた是非に欲しいというお方がございます。不思議ですね、勝様がお見えなさる小半刻前にそのお話があって、この先きの料理茶屋へお呼出しで御用人竹内久六様とおっしゃるお方が御覧遊ばしてお気に入られ、屋敷へ持参次第買取らすとの事でございます。芝愛宕下の六千石の御旗本松平弾正様」 「おゝ、元の松平伯耆守か。あの方は刀の気違いと云われると、いつか水心子からきいた」 「あれへこれを持って参りましょう。すぐに商売になります」 「いやそれはいけない。お前の商売をおれが横取りする事だ」 「そ、そ、そんな事では、とてもこの先き商売にはなりません。今迄のお気持をがらりとお変えなさって儲ける事なら横合から飛込んで行ってでも引ったくる。それが商売、その御決心がつかないなら、商売をやろうなどと、わたくしのところへお話しなさるのはお止めなさいまし」 「うーむ」 「商売の事については万事この栄助の申付に従うとおっしゃるなら、お世話を焼きましょう。勝様、如何でございますか」  これには小吉も閉口だ。といって、差迫った岡野の金の工面をどうする事も出来ない。平川なんぞに一両だって出来る筈はない。とう/\世話焼さんについて市場を出た。 「お前にそれを持たせては天道の罰が当る」  小吉はそういって刀箪笥の包を自分で持って歩いた。夕立の後で少し涼しかったが、歩いていると暑い。世話焼さんはびっしょり汗になっている。 「ようございますか、勝様はこのお刀のお売《うり》主、わたくしがたゞ御案内でございますよ」 「わかった」 「代は四十五両でございますよ。蔵宿の又兵衛さんは手取金三十両、後は儲け次第と申します。本当なら六十両と申しても決してお高くはない上出来のお品ですからな」   遊山無尽《ゆさんむじん》  刀を渡して金を受取った時は、流石の小吉もからだ中、にちゃ/\と脂汗がにじみ出ていた。  世話焼さんは万事心得て、やがて笑顔に送られて、松平屋敷を出て、思わずほっと生き返ったような心地がした。愛宕山の緑が眼にしみて、さっと吹いて来る風が涼しくふところを抜けて行った。 「恐ろしいものだ」 「何にがでござりますか」 「人に物を売って儲けるというのはよ」 「はっ/\は。勝様は生れておはじめてでございますからね」 「これはおれには出来そうもないな」 「何あに、馴れて見ると案外面白いものでございますよ。三、四回目をつぶって、わたくしについて歩いて御覧なさいまし」  うなずいたが、小吉は、まだ何んだか夢でも見てるような気がしている。往来も忘れてふところを一ぱいひろげて、扇子でいそがしく風を送り乍ら、そのまゝ世話焼さんについて築地の売主の又兵衛のところへ来た。  又兵衛がまた大喜びで 「これは少々乍らお鰻代でございます」  といって五両くれた。 「有難う存じます」  世話焼さんのそう礼をいって受取るのを、脇から小吉がぼんやり見ていて、あわてて 「やあ」  とぶっきら棒にいってこくりとお辞儀をした。  日がくれて岡野へ戻って来た。玄関から、そっと平川を呼出した。植込の暗い中で 「ほら、二十両——おい贋金じゃあねえぞ。いやもう寿命を縮めて拵れえた金だ。これで当分屋敷の遣繰《やりくり》はつくだろう」 「はあ」  平川のそういうのを聞き流して、小吉は、ふっ飛んで自分の家へころがり込んだ。 「おい、お信、道具市の世話焼さんというは偉え人間だ。あゝいう人がいる。本所というは、いいところだなあ」 「何んでございますか」  狐につままれたような顔をしているお信の鼻っ先きへ、庭先から着物を投りぬいで井戸端へ駈けて行くと、ざあ/\と水をかぶって 「おれは、世話焼さんに頼んで道具市場のお仲間入をする事にしたわ」 「はい? なんでござりますか」  水をかぶり乍ら云うから小吉の早口な言葉がお信にははっきりわからない。  暫くしてやっと近くへ来たからお信がにこ/\しながら 「先程おっしゃる事が一つもわかりませんでござりました。何んでござりましょう」 「馬鹿奴、おれは死んだ雲松院《おやじ》ではねえぞ。何んで呂律《ろれつ》が廻らねえものか」 「そうでは御座いませぬ。水をかぶりなされ乍らでございますから」  小吉はじろりと見て 「おれは道具市の仲間《なかま》にへえるといったのだ」 「道具市?」 「栄助とっさんが面倒見てくれるのよ」 「まあ」  といって、お信はすぐ小吉の前へ来て 「御苦労様ながら、そうしていたゞけば、勝の家も助かりましょう。四十俵の小高で借金が三百五十両半になりました」 「えーッ?」  小吉はびっくりして 「そ、そんなに借金が出来ていたか。お、お、お前、どうしておれにそれを云わねえ」 「こんな事を申上げては、あなたが、あなたらしくないお方にお成りなさるのが気懸りだったからで御座います」 「ふーむ」 「でも無理にお利得をなさる事はございませぬ。わたくしは、何んに事を欠きましても辛抱は出来ます。それよりも、あなたがあなたらしくなくなるのが一番|辛《つろ》うございますから」 「お信」  と小吉の目がうるんだ。 「お前、よく辛抱してくれるねえ。有難てえよ」  泣声であった。  丁度、麟太郎が帰って来た。 「父上、今日は道場へ面白いお方がお見えになりました」 「修行者か」 「はい、車坂の井上伝兵衛先生がお一緒で目のくぼんだ頬骨の高い怖いお顔のお方でございました。わたくしの先生と、竹刀をとってお立上りなされたまゝ、少しの間、じっとしていられましたが、お手をつかれて、面をとられ、俄かに大きなお声を上げてお泣きなされました」 「うむ? 精一郎の竹刀の前に坐って泣いたか」 「はい」 「何処の人だえ」 「豊前中津のお方だという事でありました」 「年頃は?」 「わたくしにはよくわかりませぬが、先生よりは少しお若いように思います」  小吉は、にや/\して 「いくらかは遣える奴らしいな」  といった。  麟太郎はまた 「これは、先生から父上へ差上げよということでございました」  きっちりと厚い紙に包み、紐をかけた書物らしいものを小吉の前へ静かに押し出した。 「そうか」  小吉は、何気なく胡坐のまゝで、その包の紐を解こうとしたが、ふと気がついて、ぴたっと坐り直して、開いた。書物が二冊出た。 「おゝ、これはつい先頃一刀流天真伝の白井亨先生がおあらわしになったものだな——兵法|未知志留辺《みちしるべ》か。先生はおれの木剣からは輪が出るぞと口癖に仰せられるという古今の名手だ。こら麟太郎、これは尊い、しかしおれがようなものが読んでも何んの役にも立たぬ書物だ。お前が成人したらよく/\拝見しろ。恐らくは内観丹練の法が詳しいだろう」  押しいたゞいて、そのまゝ麟太郎の方へ押してやった。  麟太郎が床へ入ってからも、小吉は庭の中をあっちへ行ったり、こっちへ来たり、縁側へ腰を下ろしたりして、夜空を眺めていた。 「三百五十両の借金とは驚いた」  時々そんなことをつぶやいた。お信はそれを聞く度に、しッと手で制するような恰好をした。麟太郎に聞えてはいけないという顔つきである。  次の日から、小吉は世話焼さんに云われた通り、|せり《ヽヽ》市場へ出て行った。世話焼から早くも、ずうーっと話が通っていたので、儲かりそうな刀が出ると、みんなその刀を小吉のところへ持って来た。  市の一番高いところに大きな座蒲団が出て、小吉はこれへ坐って市の模様を黙って見ていればいゝ。刀を買い求める資金も世話焼さんが工面をするし、売る時は、頃合を計ってこれを|せる《ヽヽ》から、家へ帰る時には、必ずいくらかの儲けが小吉のふところへ入っていた。  小吉は、それをそのまゝ、ぽいとお信へ出して 「今日の儲けだよ」  とにやっと笑う。 「だん/\見ていると、おれは道具市場の用心棒よ。世話焼さんはそんなつもりじゃあないが、みんながそうして終っている」 「さようで御座いますか」 「おれもはじめてきいたが、破落戸《ごろつき》という奴はどんなところにもいるものだねえ。市へ|だに《ヽヽ》のように咬みついて、毎日三つや四つの騒動を起こし、これを銭にしている奴があの市だけでも七、八人もいるそうだ。それが、おれが行ってからは、ぴたりと来ねえ。はっ/\、御旗本の用心棒だ。市のものはみんな喜んでいるよ」  きょうも暑い。東の方の白い雲の峰が、銀の塊を重ねたようにぴか/\光って、吹いて来る微風も、むうーっとする。  小吉が出かけようとしているところへ、近頃暫く顔を見せなかった水心子秀世がやって来た。 「この暑いのによく来たな。お前がところの麻布の今里は涼しいというが、川のこっちは水が近けえというにあべこべに江戸一番の暑いところだ。どうだ、ひどかろう」 「そんなでもありませんよ。ところで今日参りましたのはねえ。尾張屋の親分が今度心の知れた友達と、遊山無尽を拵えましたんでね。最早、大概は揃いましたが、どうしても勝様に会主になっていたゞこうという訳でしてね」 「大層結構な話のようだが、おい、水心子、馬鹿も休み/\いうものだ、おれがような貧乏が遊山無尽どころの話かえ」 「それはそれ、これはこれで御座いますよ。実は尾張屋の親分が、何にやらお茶会の事で車坂の井上伝兵衛先生とお近づきになりましてね。この無尽の事を申しましたところ、おれも入れて貰うが、会主はどうしても勝先生にせよ、そうでなければ断るし、折角お入りなされた剣術の方のお方々はみんなお止めなさるという」 「井上先生はあゝいうお人だから、そんな事をおっしゃるが、おれはこの節はわけても困窮だ、飛んでもないことだ、切に断る」 「先生それはいけませんよ。先生がお断りなさると、皆様がお楽しみになさっている無尽が出来なくなるのでございます」 「おれは掛金もないのだよ」 「皆様が、会主になっていたゞけば、勝様の掛金などはどうでもいゝというんですから、それで宜しいではありませぬか」 「こ奴はとんと困ったなあ」  小吉は頭をかいている。 「とにかく御加入なさいまし」  と水心子は 「それでおよろしいということにして、わたくしは、これで御免いたゞきます」  来たばかりなのに、お茶一ぱい飲まずにあわてたように帰って終った。  一日おいた次の日にまた水心子がやって来て帳面を出して金を五両置いた。 「初会《はつかい》は会主取りでございますから」 「ほう、何にやら妙な具合の話ではないか。妙見の刀剣講で飛んだ無理を云ってあるからお前に来られてはおれも閉口だが、お前もこんな事で麻布くんだりから川向まで出てきていては仕方あるまい」 「大丈夫ですよ。これから先きは用件には加入の人達が参ります」  といって、また忙がしく帰った。  この事を世話焼さんに話したら 「勝様、それでいゝのでございますよ。妙見菩薩の御|利益《りやく》です。尾張屋の親分が何んとかして勝様に御礼を申さなくてはと大層、気を遣っていらっしゃると、秀世さんから度々《どゞ》伺って居りました」  とにこ/\した。  二、三日後ちに、東間陳助と道具市へ行く途で逢った。小吉は 「男谷が道場には休まずに行っているだろうな」  といった。 「は。参ってます」 「車坂の井上先生の手びきで豊前もんで滅法荒い奴が来たそうだな」 「いやもう凄い強気でしてね。道場の者は誰も皆々ぶちのめされます」 「ほう、何んという奴だ」 「島田虎之助。しかし、流石に先生には打込むことも出来ない。まだ竹刀が一度も先生の道具にさわった事がないと、本人も沁々申して居りました」 「そうか。その中にはおれも一度|遣《つか》って見ようかの」 「さあ。いかに島田も出来るといってもあなたのお対手まで参って居りますかな」 「東間、お世辞をいうな。おれはな、この頃は、道具市の用心棒で銭《ぜに》を稼いでいる。剣術などは見向きもしないから、いやもう、段々と下落で、駄目だ」  東間が、そんな事はないでしょうといった時はもう小吉は向うへ行って終っていた。  市へ行ったら世話焼さんが待っていて 「今日は一つ、神田へ参りましょう。いゝ市が立つそうでございますから」 「そうか。幸い遊山無尽で貰った五両、あれがある。資金《もとで》はこれでいゝかな」 「結構でございますとも。足りなければ足りないでまた算段がありますから」 「頼む。お前がお蔭で、おれが家もこゝのところ大きに|らく《ヽヽ》になった。この分で三年もしたら、三百五十両の借金は無くなるだろうとお信がいったよ。礼をいうよ」 「いや、わたくしなどの力ではございません。みんな日頃、勝様のわたくし共へ親身におかけ下さる御情が妙見菩薩の御利益によって、お手許へ戻るのでございますよ」 「こっちが世話になるばかりで、何んのお前らへ情なものか。面目ねえよ」  その夜の神田白壁町の市には刀剣が沢山出て、一口々々、小吉の前へ持って来て鑑定《めきき》を頼んでは、売買の度にいくらかずつ紙へ包んだものを持って来て、へこ/\して差出した。  やっぱり大きな蒲団が出ていて、それへ坐っている自分を見ると、小吉は自分で自分がおかしくなって、時々、ぷッと吹出してはびっくりして四辺を見廻した。   爽秋  途端に、月代を延ばして、一人が額に疵のある、人相のよくない着流しの浪人風の奴が三人、市場へぬうーっと入って来た。一瞬商売人の縮み上ったのがわかった。小吉ははゝーんという顔つきで、ふところを押しひろげて、平然と扇子で風を送っている。  三人は眼をむいて四辺を睨み廻してから小吉の方へずか/\とやって来た。 「おい」  一人が精一ぱいの大声で怒鳴りつけて 「貴様、何処の奴だ」  とぬっと顎を突出すようにした。小吉は稲妻のように扇子を、さっと閉じたと思うと、ぴしッと対手の鼻がしらを打った。対手はわッといって鼻を押さえてのけ反《ぞ》った。 「お前らおれが面を知らずに、よく|ごろつき《ヽヽヽヽ》で飯が喰えるね」 「き、き、貴様、何処の奴だ」  一人は押さえた指の間から鼻血がぽたり/\と滴った。二人は刀をぬきかけて肩で大きく息をしながら爪先立ちに詰寄りながら重ねてきいた。 「おれかえ、おれは本所《ほんじよう》の勝だよ」 「か、か、勝?」 「剣術遣いの勝小吉だよ」 「えーッ?」  三人は一緒にものの六尺も飛びすさった。 「か、か、勝先生」 「帰るがいゝだろう」 「は」 「何にか筋の立つ銭儲けを考えてお出で。相談に乗ってやるよ」 「は」  小吉は三人一かたまりになって、かしこまっている前へ、すばりと立って行って 「帰りに蕎麦でも喰ってお行き」  紙へ包んだ二つ三つの小粒を一人のふところへ投込んでやった。  三人は出て行った。鼻血がその辺の板の間に点々と落ちている。市の者はみんな無言で、小吉の方へ頭を下げた。すっかり胆を奪われて言葉も出ないのだろう。 「ほら、その辺に血が見える。ふくがよくはないか」 「へえ」  この市の世話焼が、栄助とっさんの方を見て 「大層悪い奴らでしてねえ。ひどい晩は三両もとられましたよ」  と早口でいった。 「もう来ませんよ」  栄助がにや/\してそういう耳元へ口を寄せて 「滅法な御威勢ですねえ」 「頼まれたとて爪の垢程の悪い事などはなさらないお方故、悪党共はおそれますよ」  栄助はちょっと肩をゆり上げた。  小吉はこの夜、自分の儲けた金を一文残らず世話焼の前へずらりと列べて 「さ、この半分で、おれがみんなへ酒なり蕎麦なりを買おう。これから先き商売でいろ/\面倒を見て貰って儲けなくてはならぬ。みんな、どうぞよろしく頼む」 「飛んでもない」  とこの白壁町の市の世話焼さんのいうのを栄助が何にやら低い早口で押さえて、間もなく、酒や蕎麦が来たが、小吉と栄助だけは道が遠いからといって、帰って来た。  歩きながら栄助は何んとなく肩身が広くなったような気持がして、自然に心が浮き立つ。それにも増して神田の市では大変だった。 「いゝ旦那だねえ」 「栄助さんはあゝは云うが、小普請の御家人だ。どんなものだろうと思っていたが、いやもう心の底から頭が下りました」 「あの三人は、腕も強いし、ふだんからずいぶん|げじげじ《ヽヽヽヽ》見たようだが、ひとったまりもなかったねえ」 「悪い事をなさらないから悪党共は怖れると栄助さんがわが事のように小鼻をうごめかして云ってた、あの顔も見ものだったよ」 「あの人も気のいゝものだ」  夜道が更けて、両国川岸で小吉は出しぬけに 「世話焼さん、うっかりしてたが、もう、天の川があんなにはっきり見える。夏だ/\といっている中に、そこまで秋が来ていたねえ」  暗い大空を仰いで指さした。  それから小吉は、神田の市には無くてはならぬ人になった。行く度に道具屋達がいゝ売物買物には、みんな潮時を見て、そっと耳打をしてくれるので、売買の度に必ずいくらか儲けになる。その儲けで、その時に三十人いようが五十人いようが、みんなへ蕎麦なり酒なりを振舞って帰るので市の人達は、これでは勝様へお気の毒だといって、いっそう儲かるように仕組んで呉れた。  はじめは旦那々々といっていたのがいつの間にか殿様々々というようになっていた。  月が出ていた。  小吉は途で栄助へ 「あの三人のゆすり屋はあれから後どうしているだろうなあ」  と出しぬけにいった。 「さあ、いっこうに噂もききません」 「そうかえ。何処かへ行っていっそ悪事を働いてるか、それともひどく困ってるかなあ」 「へえ」 「おれなどは果報者で、何にも出来ないにお前らみんなで親切にして、遊山の掛捨無尽まで拵えてくれたねえ。有難い」 「いや、みな、あなた様のなされ方がおよろしいからで御座います」  思いもかけず小吉が麻布今里の水心子秀世の家へやって来たのはそれから少し経ってからで、本当にもう秋らしいさわやかな微風が吹いて、空は拭ったように澄み切った日であった。  水心子はびっくりした。 「御用がございましたなら、一寸お使でも下さればよろしかったのに」 「邪魔をして不都合ではねえか」 「いゝえ、御預りの一口を磨上げまして、お渡し申したところで」 「そうか。実はいつぞや犬を斬って台無しにしたお前の上出来の刀の代。やっと三両二分出来たから、これだけでも入れて置いて貰おうと持って来たのだ」 「え?」 「おれは近頃は番入をした気で方々の道具市を毎夜のように精を出して廻って儲けているのだ。売物の|ぶいち《ヽヽヽ》という物を百文について四文ずつ除けて見たら知らぬ間にこれだけと、外に端銭《はぜに》が少々たまった。それで気になっていたお前の刀代の中を持って来たのさ」 「滅相もない」  と目を丸くする水心子へ 「無尽の掛捨で纏った金を貰ったはお前も知っているが、あんな金でお前の借銭はけえし度くなかった、云わばおれが勤《つと》めて儲けた金でかえしに来た」 「そ、それはいけませんよ先生。あの刀はわたしが灯籠を斬って」 「馬鹿をいうな。とにかくけえす銭《ぜに》だ。受取って呉れ」  応対をしていた店先へ、包んだ金を、ぽいと置くと 「残りはまた持って来る」  小吉はもう外へ出て終っていた。 「先生、先生」  水心子は履物を片っ方突っかけて、追ったが、小吉は角の旗本屋敷の塀について廻って、姿はなかった。  入江町へ帰ったのは夕方である。  麟太郎が大きな声で本をよんでいるのが屋敷のずっとこっちまで聞えている。にっこりして何気なしに入ると玄関の薄暗がりに、東間陳助が、しょんぼりと坐っていた。 「どうした」 「ちょいとお話があります。どうぞ」  あわてて、立って外へ出た。  大きな月が昇りかけたところだった。 「碌な話じゃあねえな」 「はあ。——お坊ちゃまがいられますから」 「何んだ」 「実は平川右金吾が逐電しました」 「隣りの用人様が逃げた? それにしては、こちらへ何にも云って来ないは妙ではないか」 「岡野様ではまだ気づかれないのでしょう」 「ほう」  東間の話によれば、右金吾が久しぶりにこの頃東間の住んでいる表町光徳寺稲荷横丁の裏店へやって来たのは、もう二た刻ばかりも前で、顔色も嫌やに青く、元気がないから、どうしたんだというと、実は先生の仰せつけであゝして千五百石の用人になったが、岡野家はとても自分の腕ではやって行けない、殿様の度々の金の御用で、先生があゝして道具市にまで行って、ちょいちょいお心をくばっておれの為めに拵えて来て下さる金ももう四十何両にもなる。それとて焼石に水も同然で、それにまた差迫って金の仰せつけだ。一体、何処まで金の工面をしたらいゝか底が知れない。その上あれ以来只の一度も剣術の稽古もしない、先生とは堅い約束をしてありながら仮りに竹刀を手にしようともしない。こんな次第で自分がまご/\していれば居るだけ、先生に御心配をかけるから、こゝら辺で思い切って身を退くという。  小吉は 「馬鹿奴、それではこれ迄がみんな水の泡だ。辛抱の足りねえ奴だ」  と思わず舌打をした。 「はあ、わたしもそれをいろ/\申したが、このまゝでは結局切腹でもしなくてはならぬ羽目になるのが落ちだと云いまして逐電するという。お詫はお前からくれ/″\も先生に申上げてくれ、右金吾は例え屍を何処かの草むらに晒すような事があっても先生の御恩は忘れないと声をあげて泣きました」 「仕様のねえ奴だ。お前、どうしてつかまえて此処へつれては来ないのだ」 「はじめは争いましたがだん/\話している中に、わたしも、それより外に法はないと思ったからです」 「何処へ行くといった」 「諸国を剣術の修行して歩く、若し駄目になったら乞食にでも何んにでもなると」 「ふところにいくらか銭を持っていたか」 「ありません——で、わたしも当座の路用だけでもと思い刀から衣類、洗い浚いを質《かた》に、金を借りようと出かけて、話を定めて大急ぎで戻ったら、もう平川は居りませんでした」 「お前が金を? 馬鹿ばかり揃っていやがる」  小吉は投げつけるようにいったが、月に眼の中がきらっと光った。うるんでいる。 「おれも家出をして伊勢路で乞食をした事があるが、剣術遣えよりは余っ程苦労だぞ。が、あ奴の腕は田舎へ行けあ先生で通る。乞食にならずとも飢《ひ》もじい思いはしねえだろう」 「しかし、右金吾は腹が弱いから、水替りの旅へ出るとそれが心配です」 「子供じゃあねえ。そんな心配はするな。この一件、お前、お信へ話したか」 「いゝえ申上げません」 「上出来だ。所詮はわかるが、悪い知らせは一刻も遅いがいゝわ」 「はあ。わたしもそう思いましたから」  小吉は東間に別れてその夜はそのまゝ知らぬ顔で黙っていた。  次の朝はびっくりして、岡野から誰かが迎いに来るだろうと思っていたら、ぷつりとも云って来ない。  次の日も/\——やっと五日目の夜になって、ます/\痩せ細った奥様が例の庭の切戸から姿を見せて、小吉夫婦の顔を見るや否や、わッと声をあげて泣いて終った。 「いかゞなさいやんした」 「はい、はい」 「用人が逐電と、友達からきいたが、どうして知らせませんでしたか」 「そ、そ、それは孫一郎が堅く秘しまして——」 「あゝ、そうか、殿様がまた何にか悪い案文をおかきですね」 「毎夜参ります米屋の娘の伯父とか申す大川丈助という者を用人にいたしました」 「はっ/\、入江町の岡野の用人は銭が儲かると、江戸中大そうな噂だから、|まかない《ヽヽヽヽ》用人のなり手は沢山ありましょう」 「本朝孫一郎が早くも五両の入用を申しつけましたところ立ちどころに用立てましたので、上機嫌でござります。勝様、——」  奥様はうつ伏して泣いて、その先きの言葉がよくわからない。 「は?」 「お助け下さいまし。このような苦しみをいたす位なら、わたくしは死んだが増しでございます」 「それはいけない。奥様、いつも/\申す通り岡野が家で、真《ま》っ当《とう》はあなた様お一人、後は皆々気違いでございますよ。そのあなた様が、そんなお気弱ではどうなさいます。わたしがお信を御覧なさいまし、貧乏などは何んでもないものです。あなた様が気違い共と戦って、この屋敷を守らなくては、折角の御名家が忽ち潰れて終いますよ」 「と申しましても、この、朝から夜中まで|どろ/\《ヽヽヽヽ》したような屋敷の中で、わたくしは呼吸をしているも苦しくて、もう/\堪えられなくなりました」 「まあ、もう少し御辛抱なさいまし。お辛い時は、わたしがところのお信へ来て、思う存分お泣きなさるがいゝ」 「用人は、さき程も、わたくしの目の黒い中にきっと殿様に御番入をおさせ申すなどとうまい事をいって居りました。何だか恐ろしい事が起きるでございましょう」 「御番入に先立つものは金だから、これで用人が大儲けをするつもりだ。まあ、いゝ、奥様、小吉が隣りからじっと見ている。板塀一重の隣屋敷、わたしはね、その辺で針が一本ころがってもわかる修行はしてあるつもりだ、伊達や酔狂で、永げえ間、木剣いじりをしていたんではありませんよ。まあ/\、秋もだん/\爽やかになる、お辛くも笑ってご辛抱なさいまし。すぐお側には小吉も居れあお信もいる。はっ/\、悪党共に何にが出来るものか」   切見世  空は真っ青だが、岡野の庭の太い松の梢と梢の間にだけ、線をひいたような白い雲が見えている。  小吉がずか/\と用人部屋へ入って来た。 「お前かえ、用人の大川丈助てえのあ」 「はあ」  丈助はもう四十がらみの、額にも頬にも皺の多い小柄な人間であった。 「おれあね、隣屋敷の勝だが、御隠居にも殿様にも頼まれている。お前、何んで挨拶に来ねえ」 「はあ」  丈助は部屋の隅っこ迄飛びすさって畳へ額をすりつけ乍ら 「殿様の仰せで、お直々にお引合せ下さるとの事でございましたので」 「そうか」  小吉はちょっと舌を出して、こ奴、何んとなく気に食わねえ、一筋縄の奴じゃあねえなと心の中で思った。  奥へ行ったら孫一郎がまた寝ていた。 「いゝ用人が来て大そう結構な様子だね。殿様も御番入の日勤をはじめたというがいゝねえ」  小吉はにや/\していった。 「いやそれはやらない。用人がやって呉れている。わたしは黙っていてもいゝと云うよ」 「へーえ、そ奴あいっそ結構だ。御支配の松平伊勢守様とおっしゃるは滅法癇癪のお方というし、戸塚備前守様はひどい吃りで万事組頭の松平利右衛門というがやっている。これが利慾の強い男ときいたし、伊勢守様は麻布の百姓町、備前守様は牛込の飯田町。これは殿様の日勤も並大抵ではないと思っていたが、御番入に黙っていてもいゝは前代未聞な結構な話だ。殿様、あなたとんだ仕合《しあわせ》ものだね。今度は、奥様も御安心なさいやんしょう」 「しかしね勝さん、本当をいうと用人は頻りに力むが、わたしは御番入などはしたくないよ。知行所の百姓達をうまくだまして、まとまった金でも借上げられたら、その方がいゝのだ」 「まあ、そう云わずに、一つ、御勘定方にでもなって、馬へのって槍を立てて登城をしなさい。入江町もこの頃のように江戸の芥《あくた》の掃溜見たいでは仕方がない」  小吉は上べはまじめでそんなことをいっているが、からだ中が掻いようで何んだか気持が悪くなって来た。 「米屋の娘は別嬪だと評判だね」 「そうか、みんなも然様《そう》云うか」  小吉は、とう/\堪らなくなって飛出して帰りかけたが、ふとまた気がついて、用人部屋へ入って行った。  丈助は奥の様子へ聴耳を立てていたところへ小吉が引返して来て、ずばりと自分の前へ坐って、瞬きもせずに顔をじいーっと見詰めているので、次第に背中が冷めたくなった。  小吉は、自分の刀を軽く叩いて 「これはね、池田鬼神丸国重だよ。元は備中の刀匠だが、摂津の水田に移って代々名刀を鍛えている。わたしなどはとても及びませんと水心子がよくいうがね」  にや/\笑って 「殿様の御番入が出来たら、お祝に差上げるつもりだ。その代り、誰か悪い奴が殿様をたぶらかして金儲けをしやがったら、そ奴の胴を斬り払ってやる。三つ胴は試し済みだよ」 「はあ」  丈助は眼を伏せた。 「お前、殿様の御番入で大層はたらいてるというが、金はもうどの位要ったえ」 「はあ、今のところいくらでも御座いませぬ」 「いくらでもといってどの位だ」 「三十両でございます」 「ふーむ、三十両ね。その外に柳島の御隠居江雪がところへいくら届けた」 「五両でございます」 「偉いッ!」  と小吉は手を打って 「お前、如何に|まかない《ヽヽヽヽ》用人とは云い乍ら滅法金の工面がつくじゃあねえか。御番入成就までにどれ程のもとでを注込むつもりだ」 「はい。それはわたくし共にはまるで見当もつきませぬが、五百両程もと——」 「はっ/\/\は」  小吉は出しぬけに大きな声で笑い出して 「馬鹿奴、おれが親類で三千両つかって、やっと甲州の代官になった奴がある——が、お前は智慧者のようだ。それ位で番入を物にすれあ、おれも一つ頼むとしよう」  やがて帰って行く小吉を、丈助はぺこ/\しながら送ったが、うしろ姿が無くなって、やっとほっとして、べったりと尻を落して坐った。 「お、お、おどかしゃあがる」  ぷつりといって 「が、男谷家という立派な兄を持ち乍ら御番入も出来ない、知れた男だ、力では叶わねえが、智慧ならこっちが敗けるものか」  唇をゆがめてにやりとしたが、おどかしゃあがるとも一度呟いて汗をふいた。  三ツ目の市へ行くとすぐ小吉の後を追って北組十二番の纏持松五郎と、竪川向いの中組八番の頭取伝次郎がやって来た。小吉はじろりと睨んで 「何んだお前ら」 「へえ、お願いがあってめえりやした」  と年上だけに伝次郎が先に口をきいた。  聞いてやろうと小吉は云ったが、二人とも四辺を見廻して暫く口ごもっていた。世話焼さんが目ざとくこれを見て、こちらは埃《ほこり》っぽいからと、自分の住居の方へつれて行った。 「また喧嘩でもしやがったか。おれは知らねえぞ」  と小吉はまじめな顔をした。 「飛んでもありません」  と松五郎はお辞儀をして 「伝頭《でんがしら》から申上げて下せえよ」  伝次郎がうなずいて 「先生、お叱りなさらねえでおきき下さいやし。実は御存知の入江町の切見世でござんすが」  とやっといった。 「坐り夜鷹《よたか》がどうかしたか」 「へえ」 「余り跋扈《ばつこ》がひでえから近々にお取潰しになるかも知れねえと噂をきいた」 「そうなんで御座んす。それでいっそうひどくなりましてね。元来あの辺りは緑町から花町、吉田町、吉岡町にかけ十八カ町を北組十二番の持場でござんして、清七と申す頭取が揉め事喧嘩一切を取捌いて居りましたが、近頃、ひどく腕っ節の強い御浪人達が毎夜八、九人はやって来ましてね。どうせお取潰しになれば、何にもかも有耶無耶になるんだから、今の中だという次第で」 「侍の火事場泥棒か。ひどいね」 「先生」  と松五郎が膝を乗出して 「遊びに来る客が一人や二人は必ず斬られる。それどころか、お金ばかりか着ている物まで引っ剥がれる、打たれる、蹴られる、見世の前に夜っぴて人が打倒れているという有様でしてね。それで町方《まちかた》の御役人方へお訴え申しても、てんでお受付けは下さいません。河岸の番屋にお姿が見えているから、実はこう/\とお訴え申しますと、こちらは御用多《ごようおゝ》でとてもそっちへ廻ってはいられぬ、所の者で取鎮めろといって、さっさと何処かへ行って終います」 「へーえ、役人も怪我をするは嫌やだからな」 「先夜も北町御奉行所の本所御見廻の御下役村田、田辺、持田というお三方が与力の加藤又左衛門様お揃いで長崎町東河岸番屋へお立廻り遊ばしたので、丁度その時、浪人が暴れていましたのでお訴え申すと、捨て置け/\といって、ぷいッとお発ちなさった。それっきり未だに一度のお見廻りもござんせん」 「へーん」 「御浪人方は図にのって、一夜に女一人について五十文、お客一人について五十文ずつを出せといって押込同然に見世からこれを攫って行く」  小吉も少しあきれ顔だ。  市場の方で世話焼さんの頻りに何にか忙しそうに云っている声がもれて来る。 「一切《ひときり》百文がまるっきり|ふいてこ《ヽヽヽヽ》になりやすですからね」  と松五郎はだん/\小吉へくっついて来て 「切見世の方からこゝを持場にしている清頭《せいがしら》のところへその尻が来る。清頭が出て行って掛合ったが、腕ずくでは叶いやせんよ、これがあべこべにやられて額を割られ、それっきり寝込んで終いやした。若い者達はわい/\いうが、いざとなると、手がでません」 「それで」  と今度は伝次郎が 「嬶の縁つながりで、清頭からあっしのところへ持込んで参りました」 「お前、山之宿の佐野槌で、鳶口長鈎でおれに向って来た程の奴だ。出て行って押さえろ」 「も、もう昔の事はおっしゃらねえで下さいましよ先生。そう云われると、穴を見つけてへえらなくちゃあなりやせん。そこでまあ松五郎と相談しましてね。これあ勝の先生へ」 「はっ/\、お前ら、おれを喧嘩に向けるかえ。おれあ嫌やだよ。第一、あすこは小便臭くていけねえ」 「え?」 「山之宿位|離《はな》れて居ればまだいゝが、切見世は、すぐ其処じゃあねえか。おれがところのお信はな、化物見てえな妙な女がその辺にうろ/\してるのが何にかにつけてひょいと目につく事がある。麟太郎もきっとあれを見かける事がありましょうから、一日も早く何んとかして、外土地《ほかとち》へ地退《じだ》ちを致しましょうと云っている位だ、そんな眼《め》と鼻のところでおれが喧嘩が出来るか」 「へえ」 「すぐに家へ知れて終うわ。それにお前ら何んだい。この節の火消の者あ大そう意気地がなくなったものではないか。おい松五郎、お前、どうしてもおれに喧嘩をさせてえなら、そっとお信と相談をして来る事だ」 「へ」 「さあ、お信は何んというだろうな」 「弱い小前の者がそ奴らに苦しめられてひどい目を見ている。そんな無法者を黙っている人ではないから、松五郎、御案内を申せ——と、へっ/\、こうおっしゃいやしょうね」 「こ、こ奴が、こ奴が」  と小吉は額を叩いて笑った。  そこへ世話焼さんが顔を出した。 「勝様、またお客様でございますよ」  小吉は妙な顔をした。 「また来やがったかえ。何あんでえ、どうせ碌な奴ではないだろうが誰だ」 「割下水の外科御医師篠田玄斎先生でございますよ」 「おう」  小吉はいさゝか驚いて、同時に眉をよせて閉口した。 「おれが子の麟太郎が——おい、伝次郎、お前がところの犬に睾丸を喰われた時に疵口を縫って貰った外科|方《かた》だが、おれは貧乏だから未だに碌な薬礼はしていねえのだ。きまりが悪いよ」 「そんな事はくよ/\なさる事はないでございましょう。お逢いなされましよ」  世話焼さんは引返してすぐに玄斎を連れて来た。 「やあ、その節は」  小吉は、古ぼけた畳へ平つくばって迎えた。 「面目次第もない」 「いやあ、それはこちらで申す事。あの時にあなたが、大刀をずばりと畳へ立てて、池田国重だ、これを見ろと云われた時に、わたしは、はっと正気づいた。あれ程の急所の疵を縫いおゝせたのは医者冥利、勝さん、あなたのお陰だ」 「恐入った——ところで、わたしがこゝにいるとよくおわかりだったね」 「あなたが、市日にはこゝにいられると、もう本所では知らぬものはない」 「はっ/\、御旗本の恥っかきが、そんなにも知れ渡ったか」  みんな笑った。玄斎は暫く黙っていたが、やがて、松五郎や伝次郎を半々に見乍ら 「お頼み事で参ったが」 「せがれを助けて貰ったのだ。出来る事ならやりましょうが、喧嘩はいけませんよ、もう先口がありやんすから。はっ/\は」  松五郎、伝次郎はうつ向いて頭を押さえた。 「いや、然様な事ではない。実はわたしの妹というが若後家でしてな。これが通町《とおりまち》の秩父屋三九郎と申す公儀|小遣物《こづかいもの》御用達の奥向に奉公をしている。ところがその家が段々衰えましてな、今ではその株が外にも出来て、一向に御用がない、家が衰える一方でまことに困っている、何んとか法はないものかと、わたしに相談がありました。そう云われて見たところで多寡が町医者のわたしに法のある筈もない。妹の身の上も思いあれやこれや気の毒に思っていると、昨夜また妹が来ていうに、此節末姫様が芸州へ御引移りとのことで——」 「よし、わかった」  と小吉が手をあげて、玄斎の言葉の先きを制した。   固唾《かたず》  暫く黙って微笑して、やがて、小吉は一寸首を曲げていった。 「断っておくがねえ、この前、外桜田の尾張屋亀吉に長崎奉行の小差《ようたし》を頼まれて、頼まれ甲斐もなく二十五両損をさせた事がある。こんどだって金はいろうが、成るか成らねえか、おれは知らねえよ」 「いや、それは秩父屋もそういう事の素人ではなし充分の心得はあるといっている」 「先生にはせがれが命を助けて貰ってある、こゝでお顔を潰す事はならぬから、心得があるというなら出来るだけの事はして見やんしょうか」 「是非共頼み入る」  玄斎は大きな青い頭を丁寧に下げた。  末姫というのは十一代将軍家斉五十五人の子の中の三十九番目の姫である。これが安芸《あきの》侍従《じじゆう》広島四十二万六千石の松平|斉粛《なりたか》に輿入しているが、それが国表の芸州へお引移りとなると御仕度が大変だ。この御用をきいたらそれこそ莫大な利益であろう。 「それでは今夕、改めてお屋敷へ秩父屋夫妻をつれて参るからお目通り下さい」 「飛んでもない。屋敷へ来られるなんぞは大|真《ま》っ平《ぴら》だ。それに」  と伝次郎、松五郎の方を見て 「今夜はねえ」  とにやっとして 「殊に差支がある」  伝次郎、松五郎は小吉へ一緒に|ぺこり《ヽヽヽ》とお辞儀をして 「篠田先生、今夜は勝様は先約がありやしてね」  と威張った。 「そうかえ。でも、なあ、秩父屋も急いでいる」 「勝様はね、本当はそんな事のお嫌いな方なんだ」  と松五郎は 「お暇な時になさいやし」  と苦い顔で少し腹を立てているらしかった。本当はぽん/\いうところだが、若い者が、火事場ばかりでなくちょい/\その辺で喧嘩をやったりしてこの先生の世話になる。出来るだけおとなしく言葉をつかっているのだ。  それでは日を改めて別に席を設けて、小吉を迎えに来るという事で玄斎が帰って行く。  小吉は自分の頭を叩いて 「何んだい、今日はまたお前らと云い医者までが、おれを追っかけ廻して滅法うるさい日だねえ」  と笑って 「でも松五郎はいゝ事をいったよ。おれはほんとにあんな事はきれえだよ。喧嘩の方が面白いねえ」  その晩は何んだか雨でも降りそうな模様になった。入江町の切見世の薄汚い|ぼさ《ヽヽ》塀に門があって、それが|四つ《じゆうじ》限りで閉めるが、ごろつき浪人は大抵この門限ぎり/\の時に来るという。  少し嫌や気のさしている小吉を伝次郎と松五郎が押すようにして入って来た。 「臭え、臭え。おれはだから嫌やだというんだ」  小吉は顔をしかめた。 「勝様、弱い者助けでございますよ。この間もききやしたがあゝして火の用心の行灯の下に立って物欲しそうにきょと/\と客を待ってる女共あ、何にも好き好んでこんなところへ落込んで来てるんじゃあねえんでござんすってさあ。多くは親のためだ、そこら辺の浮気娘よりあ余っ程感心もんですよ」  と松五郎が尤もらしい事をいった。 「ほう、それあ恐入った。が、女も例えどんな事があろうともこゝ迄来て終っちゃあいけねえよ、こゝへ来る一寸前にもっと別な道がありそうなものではないか」 「それが、にっちもさっちも行かなくなるところがきびしい浮世でございます」  小吉は出しぬけに、ぱっと手を打って 「見損った、松五郎、お前、案外うまい事をいうね」 「へっ/\/\。こゝへ来るとこれが合言葉になって居りやす」 「こ奴が」  と小吉は 「みんないゝ女だがどれもこれも幽霊見たいだな」  この切見世の例えば吉原の会所のようなところから、二、三人飛んで出て来て、小吉達を案内して、一番端っこの長屋へ連れて行った。小吉が坐るように、大きな紅い座蒲団が敷いて、前にちゃんと莨盆が置いてある。  小吉は苦笑した。 「道具市場から今度あ切見世の用心棒か」  ひとり言をいった。 「へ?」  伝次郎が耳を寄せた。 「何んでもない、こっちの事だ」  そういって、眼をつぶった。小吉も本所の小普請もんだ、こんなところをはじめて見た訳ではない。が、いま迄は今日のように何んだか親身《しんみ》に心を留めた事はなかった。同じ夜鷹にしてもこの入江町のは坐《すわ》り夜鷹という。ずらりと長屋になって間口四尺五寸、その中二尺が腰高障子になって二尺五寸が羽目板。奥行は蒲団を敷けばほんの履物をぬぐ位の土間があるだけだ。客が無ければ蒲団を畳んでその上に枕を二つ並べ、障子を開けて置くからこれが表から手が届くように見え、女が羽目板のところに立っていて、客をよんだ。 「同じ女に生れてなあ」  小吉は、ほんとうに然様思った。俄かに近辺が湧いて来た。 「先生、来ました/\」  誰かわからないが、そんな声を出した。伝次郎と松五郎が一斉に小吉の顔を見た。小吉は、知らぬ顔で腕組みをしている。  二人の浪人が押し合うようにしてぬうーっと会所へ入って来た。羽目板の外には六人の浪人、どれもこれもひどい風態をしている。これに向い合って伝次郎と松五郎が、口をへの字にして睨んでいる。  会所へ入った二人は、まるで合図でもしたように 「ふゝン」  と鼻で笑った。それから 「おい」  と途方もない大きな声で怒鳴って今度は一人が嫌やに嗄れた低い声で 「おのし、用心棒に雇われたか」  顎を突出した。小吉はにやっとしただけで無言だ。 「何んとか云え」  また一人が大声を出した。小吉はじっとこ奴の顔を見詰めた。 「山之宿の銭座役人のようなむか/\する面《つら》ではないが、こ奴も下卑たもんだ——が、やっつけたらまたお信に叱られるかねえ」  そう思って、も一人を見た。これもそんなむかっ腹の立つ顔でもなかった。しかし、二人にしては、じっと坐ったまゝで、こっちを見ている小吉が俄かに不気味になって来た。  睨んでいた眼をだん/\伏せて、伏せながら 「用心棒かは知れねえが、いつもの極りを黙って出せよ」  と一人が云った。も一人は 「出しゃあがれ」  云ったと同時に、何にを思ったのか、いきなり、さっと抜討に坐っている小吉へ斬りつけたものである。刀の|※[#「木+覇」]《つか》へ手がかゝったのも、落しておいて腰をひねった動作も極めて理にかなって先ずは相当な腕であった。  小吉はひらっと退った。切っ先が莨盆をざくりと斬った。小吉はそこにあった長い朱羅宇《しゆらう》の煙管を目にとまらぬ間に手にして雁首で、ぴたりとその刀を押さえていた。対手の刀は動かない。 「う、う、うぬッ」  残った一人は真っ青になったし、そ奴は忽ち額に粒々を吹くように汗がにじみ出た。 「か、か、かゝれ、懸れ」  横を向いて吃り乍ら叫んだ。が、相棒はもう立ちすくんで刀をぬくどころでは無さそうである。 「黙っておかえり、二度とこゝへ来ると、今度は命はねえよ」 「う、うぬッ」  身悶えするように刀を引くのをぱっと放す。もんどり打って、狭い戸口から外へ仰向けに転がって出た。 「おい」  と小吉は一人へ凄い眼をむけていった。 「慄える事はない。帰れ。二度と来なければそれでいゝのだ。命を粗末にするのは馬鹿とは思わねえか」  対手は尻込みをしていた。それについて小吉は、草履を突っかけて戸の外へ出て来た。左に持った二尺九寸五分の池田鬼神丸が今夜は妙に逞しく見えている。 「あッ!」  その小吉が、途端に息が詰まる程にびっくりした。 「お、おのしは——」  そういって指さゝれた対手はすでに逃げ足になっている外の六人の中に、月代を延ばし色のさめた単衣、茶色くなった白博多の帯に朱鞘をさしてがったりと肩の落ちた扮装《しかけ》は、絵にも図にもならない侍であった。  小吉は、その襟首を素早く鷲づかみにした。みんな逃げて行く。 「二度と来るな。それからもう一つ云って置くが、この男だけは生涯おれが預った」  大きな声を出すでもなく、にや/\とそう云ってその侍だけをずる/\と、会所の内へ引っ張り込んで来た。 「は、は、放せ、放せ」 「いや放さぬ。勝小吉が押さえているのだ。さ、放れたいなら放れて見よ」 「放せ、放せ」 「放さぬ」  何十遍何百遍、同じ事を繰返したろう。対手はとう/\泣声になって 「放して下さい」  といった。  小吉は、外から覗いている松五郎へ 「そこを閉めよ。この男は、ちと、おれにゆかりがある」 「おや、さようですか」  戸を閉めて、外には人を寄せつけないように松五郎が立った。伝次郎は、切見世中を取鎮めた。  小吉は、対手の前へ膝をくっつけるようにした。 「どうしたのだよ、これは一体」  その時対手はすでに涙をこぼしていた。 「踏迷うにも程こそあれ、元は立派な紙問屋のせがれが、切見世荒しの盗《ぬす》っ人《と》同然の屁のような者に立交わり、しかもその侍姿は何事ですよ。え、おのしはね、丁度このおれがように、家をぬけ出し抜け参りから乞食同然で伊勢路をさ迷い歩く程、元々並に出来てはいない人だったが、これは余りひどかろう。おれもあの時は滅法おのしの世話になり恩は今でも忘れないがさて/\人間というものは、ほんの僅かな歳月《としつき》の間に変れば変るものである。おれはね」  流石の小吉もごくり/\と固唾を何度も呑み下した。  黒門町の紙問屋村田のせがれ長吉とは、伊勢路で別れて以来、江戸で三度逢った。逢う度にまるで別人のように変っていた。許嫁のお糸とその母親の三人づれで小雨の中を永代橋で逢った時は、自分も小石川御薬園裏の石川右近将監の下屋敷へ番入の日勤をしている時であったが、長吉もまだ全くの商ン人の堅気なせがれであった。二度目は池の端の小鳥見世で写生に来ていたのと逢ったが、この時は長吉はもう紙屋がいやで漆喰絵をこゝろざして家を出る決心をしている時であった。そして最後に入江町の屋敷角でぱったり逢った時は、紺の腹掛に印絆纏の本当の左官職姿で、しかもお糸を小吉が奪いでもしたように喧嘩を売った。  小吉も時々はこの人を思い出した。今頃は立派な左官の漆喰絵を描いて、あれ程に好きな道だから仕合《しあわせ》にくらしているのだろうと——。それが、今、こゝで、四度目に逢ったこんな姿の長吉を前にして、何んだか、こっちも涙が出るような気持がする。  長吉は俄かに畳へ手をついていった。 「笑って下さい勝さん、わたしは、どうしてもあのお糸という女を思い切れないのです」 「うむ」 「あなたに奪われたと思って恨み通していたがそれが違っていました。あの時、あなたに云われた言葉をたよりに、後を/\と追いとう/\逢う事は出来ましたが、やっぱり、どうしても立派な御武家でなくては嫌やだというのです」 「それで侍になろうとしやんしたかえ」 「そうです。あれ程打込んだ漆喰絵もすてて、侍になろうとした果てがこの始末です。こゝであなたにお目にかゝってこんな恥をかく。勝さん、お詫びします。わたしのような人間は、もう何にをやっても駄目です」  小吉は、笑い出して、軽く長吉の肩を叩きながら 「まあいゝ、そう落胆する事はないさ。おのしは何事にも余り正直になり過ぎるようだねえ。失敗《しくじ》ったと思ったら遣りなおす事さ。これからは勝が力になる」 「有難うございます、が、駄目です。わたしはあなたに襟首を引かれた時にはっとした。あゝ、おれは人間の屑だったと」 「もうそんな事あいゝ。今もいう通り蒔き直しさ。ところでお糸さんというのは今どうしているのだ」 「この頃まで番場町の山崎直弥という御家人と一緒でしたが、そこも出て終ったようです」 「おのしまだそれに未練かえ」  長吉は項だれて眼を伏せた。 「未練かえ」  小吉はもう一度訊いた。やっぱり黙っている。 「よし、まあ、おれに任せてお置き」   御用達《ごようたし》  切見世の界隈はいつの間にか静かになった。調子はずれな空々しい女の笑声などが時々したが——。村田長吉はとにかく松五郎の家に落着く事になって松五郎と一緒に先きに花町|裏店《うらだな》に帰って行った。  伝次郎は切見世の顔役達と、会所で小吉に礼をする。伝次郎は 「これで、清七頭に頼まれ甲斐もあり、手前の顔も立ちまして、このような有難い事はござりません」  と幾度もくどく礼をいう。小吉は少し不機嫌になって 「もう止せ。これで二度と彼奴らが来なけれあいゝのだ。間違ってでもやって来たら、今度あ、一人残らず斬っ払ってやる」  ぷいと立つとそのまゝ帰って終った。  道端がびしゃ/\した気持の悪い切見世を急ぎ足で通るのへ、伝次郎がまだくっついて来る。 「困ったなあ、これじゃあおれも、ほんとにところの|ごろつき《ヽヽヽヽ》の親分だ。亀沢町《あに》の耳にでも入って見ろ、何にを云われるかわからない」  考え乍ら、途中で伝次郎を追い帰して、知らぬ顔で自分の家へ入って来た。  お信も麟太郎も夜中だというのにまだ起きていた。 「麟太郎、明日の稽古につかえるではないか。お信、お前、子供をこんなに起こして置くはいけねえね」  麟太郎は、にこっとして 「わたくしはまだおさらいがありましたので起きて居りました。お父上が、おいそがしくしていられますので、わたくしは先きに休むのは嫌やです」 「さらいというならいゝが、おれに構ってはいけない」 「どうしてでございますか」 「ど、ど、どうしてったってお前」  と小吉は言葉が詰って 「いゝから黙って早く寝め——仕様のねえ奴だ」  横でお信がくすっと笑った。 「お留守の間に、精一郎どのがお見えでござりました」 「ほう、珍らしい。用か」 「はい、御用と申す程ではござりませぬが、山之宿の喧嘩の一件がこの程になって、御兄上様のお耳に入り大層な御立腹で、また一間住居《ひとまずまい》にさせるよう御支配|方《かた》へ御願いするとの事で」 「はっ/\は。また座敷牢かえ、あ奴あ真っ平だ」  といって、ふと麟太郎へ気づき 「これ、早くねるのだ」  と叱った。  道具市の方から、今度は切見世へ来る乱暴者の世話まで見てやらなくてはならぬような羽目になって、小吉も内心は少し弱って来た。  それにもまして気になるのは恩のある篠田玄斎と約束をした秩父屋の一件で、とう/\蓬莱橋の料亭芳むらで、玄斎と一緒に三九郎夫婦に逢った。  三九郎は色の白い丸顔で肩のうすい白っちゃけた顔であった。内儀は痩せて小さく何処か冷たい顔つきだ。しかも 「へゝーえッ」  といって、平蜘蛛のように、必要以上にへえつくばった三九郎の首筋の辺りに、如何にも衰運がつきまとった家の人らしい黒い影と一緒に不思議にどきんとする程の狡猾の匂いらしいものを、小吉は感じた。  酒を出したが、小吉は一杯ものめない。玄斎が頻りに取持って、話をだん/\用件の方へ持って行く。  三九郎は声を低めて 「末姫様の御師匠番というお方があられますそうでございますな」 「おれは、そういう事はとんと迂闊《うかつ》だよ」 「へえ、それでで御座いますね。手前共へ御用達の貫札が下り次第、そのお方様には速刻当座のお礼と致しまして金子三十両差上げまする。それからそこまでお手引下さる阿茶の局様、またその中にお入り遊ばします御年寄様——」 「そんなに面倒かえ、おれあそれじゃあ嫌やだ」 「まあ/\そう仰せられず、秩父屋一生の御恩に着まして、後々、如何様の事も仕る所存——おかゝり合せのお方々様には、残りなく金子十両宛献じますでござります。元より、あなた様にも——」  といったら、横にいた玄斎があわてて、秩父屋の袖をぐいッとひいた。礼などといったら小吉は嫌やだと云いだすだろう。それがこうした商《あき》ン人《ど》だけに秩父屋もぴーんと来て、急にへら/\笑って終った。  その夜はいゝ月であった。  小吉は次の日、まるで消えて終う程に小さくなって御城へ上って、麟太郎の事でいろ/\心配して貰った阿茶の局に逢って、実は、これ/\の次第でのっぴきなりませんのでと頼んで見たら、阿茶の局はいゝ塩梅に承諾してくれて、御本丸の御年寄瀬山という老女へ親類の者故とうまく引合せてくれた。 「ヘン、商ン人なんぞというものは世間には知れねえ御本丸内の事まで何んでもかでもよく知っていやがるわ。そんな手蔓をたよっては儲けよう/\としていやがる。末始終いゝことがあるものか。侍の御番入日勤も同じだが、世の中というのはこんな道ばかりが多いようだ」  小吉はそう思った。  月を見ようとして高い山へ登る。道が三筋ある。真ん中が一番嶮しくて、鼻をするようである。右を行けば道は平らだしところ/″\に喉をうるおす清水もこん/\と湧いている。左を行けば道傍に花が咲き小鳥が歌っている。右を行った者はやがて月を見た。が、それはそこにあった鏡のような湖の面に映った月であった。左へ行った者も月を見た。しかしそれはそこを流れている小川へ映った月であった。この二つの月は水が無くなれば一緒に消え去って、本当の月ではないのだ。只、真ん中の嶮しい道を、息を切らし汗を流し、苦しみ苦しんで登った者の見る月だけが、正真正銘の月である。  小吉は御年寄の瀬山につれられて御師匠番の紅井《くれない》さんという人に逢った時に、いつか両国橋畔で、何気なしにふと立聞きした汚ない坊さんのこんな辻説法を、何んという事なしにふと思い出した。 「おれあ今度あ、こすっ辛え商ン人の片棒を担いでいるわ。あ奴らあの坊さんのいう本当の道を歩いちゃあいねえ仲間《なかま》だ。ふゝン」  思わず、心の中で自分を嘲り乍ら、紅井さんへ平伏した。  話が定った。  紅井さんは、ちらりと四辺を見廻してから低い声で 「心得がありましょうの」 「は?」 「礼の事じゃ」 「は。それは秩父屋が申して居りました。貫札の下り次第当座の御礼として三十両——」 「間違われぬようにの」 「は」  小吉は眼尻に深い皺を寄せてにやりとした紅井の顔をちらりと仰ぎ見て、喉がげッ/\という程薄汚い嫌やな気持がしたが、鄭重に御礼をして帰って来た。 「さて/\、世の中には碌《ろく》な奴はいないものだ」  濠端へ唾をした。  十日ばかり経って終った。  彦四郎が山之宿の一件で怒っているという事が、いくらか気になる。もし本当にまた一間住居にでもされては、麟太郎の気持がいじけて終うだろう。こういう事になると無性にがみ/\いう彦四郎だから本当に、支配|方《かた》へそんな事を持込むかも知れない。 「精一郎と相談するかな」  こういって、家を出て男谷の道場の途で、ぱったり篠田玄斎に逢った。 「秩父屋にまだ沙汰はないかねえ」  という小吉へ玄斎は 「さあ、あれっきり秩父屋から何んとも云って来ない」  云い乍ら頭をかいた。  玄斎は少ししかめ面で 「叶うたら叶うた、駄目なら駄目と云って来そうなものだ。あれっきりという法はないな。今日にもわたしが|しか《ヽヽ》ときき合せて見る」  とぶつ/\口叱言のようにいうのを 「いや、あっちが黙って居れば叶わぬに定っている。秩父屋はまだ金を一文遣ったではなし、これでこちらは肩の荷が下りる。そっとして置こう、そっとして」 「そうはいかんよ」  玄斎はてれ臭い顔をして別れて行った。  今日は風がしみる程冷たい。秋もすっかり濃くなった。  あれっきり入江町には浪人などは一人も来なくなったし、松五郎の家にいる村田長吉はまたぽつぽつ漆喰絵をはじめているというので、小吉は、近頃になくほっとした気持になった。  何処にも此処にも無法な浪人や破落戸がはびこって、しかもそ奴ら、どれもこれも他愛もなくつぶれて終うが、また何処かへ手をかえ姿をかえて現れているのだろう。小吉は 「あ奴らも、みんなほんとの悪党ではないが、江戸というは、全く掃溜だから蠅は追っても追ってもやって来る」  そんなことを考えたりしている。  御城の紅井さんからお話申したい事があるからとの内々での使者が来た。秩父屋ともあれっきりだし、玄斎とも逢わない。 「あの話また何んとかなったのかな」  小吉がお城へ出た日は朝っからの雨であった。雨の一粒々々が光るように眼にしみた。  逢ったら紅井さんは、大変な不機嫌であった。平伏している小吉へ 「阿茶の局どのより瀬山どのと、順を以てのたってのお頼み故、わたしもこゝろよくお引受け申したが、人を愚かにするも大抵になさるがいゝ。約束はどうなされてじゃ」  言葉尻が、ぴーんと上った。小吉ははっとした。そしてあわてて 「わたくしは、御願の儀がお許しいたゞけなかったものとばかり思って居りました」 「何にを申される。あの三日後ちには、御用達の貫札も下渡し七十両余程のお小物の御用も仰せつけましたぞ」 「えーっ?」 「そなた知らぬ筈はござるまいが」 「はッ。誠に以て迂闊千万。存じませんでござりました。さ、早速、早速——」  小吉はもう紅井の前にはいられない。からだ中がくゎーっとして、しゃべり乍ら後ずさりをすると、そのまゝ御部屋を出て、大廊下を駈けるように出て行った。  通町《とおりまち》の秩父屋へ来た小吉は、袴の裾から胸前へかけて、びっしょりと雨にぬれていた。 「何んで約定を果さぬ」  平蜘蛛のようになっている三九郎夫妻を前に、割れるような大声で怒鳴りつけた。廂の深い大座敷の縁の外は竹を植えたいゝ庭で古い石灯籠を雨が小さな音を立てて叩いている。  最初小吉が感じたように、秩父屋は夫妻とも狡猾な奴である。 「は、は」  と低く対手の気合をぬいてから 「実は、これから、篠田先生に御一緒をいたゞき、あなた様のおところへ参上仕りましょうと、仕度をして居りましたところでござりました。もう、ほんのちょっと、あなた様のお越しが遅ければ、お叱りを受けずに相すみますところでござりましたに。これが——」  と内儀をかえり見て 「女の事とて、何にかと詰らぬことに手間取り、遅れたばかりに、お叱りを受けます仕儀となりまして」  ともそ/\いった。 「おれが事ではない。紅井さんとの約束はどうしたと訊いているのだ」 「へえ」 「もう十日も前に貫札も下り、御用も仰せつかったに、どうしたのだ」 「へ、そ、それがで御座りますよ」  と三九郎は 「勝様、実は仰せつけはまだ七十両そこ/\でござりまする。まる/\利得いたしましても、これだけの事。これでは三十両のお礼は差出し兼ねるのでございます。三百両が程も仰せつけいただきましたらばその砌にお礼金も持参いたします考えでございました」 「話が違う。貫札が下り次第といったぞ」 「いゝえ、決してそのような事は申しませぬ。失礼ながら、そんな事では商法が成立ちませぬ。それは勝様のお聞き違いでござります」 「馬鹿奴」  小吉は、もう刀を下げて立った。そして、右の平手でぱッと三九郎の横頬をなぐりつけると、そのまゝ、一と言も物を云わずまた雨の中へ出て行った。  三九郎は、その後でもじっとして座敷へ坐っていた。そして、内儀と顔を見合せて、にやっとしたが、やがて、わッはッ/\と、腹を押さえるようにして笑い乍ら 「知られた剣術遣などといっても、あゝいう子供と同じ一本気がいるから、こちらは儲かる。おい、ひょいとすると、これは礼金が踏めるわ」  といった。  小吉は真っ直ぐに南割下水の篠田玄斎の家へ来た。   天の理法  割下水を大粒の雨が叩く。水の面から銀色の小粒が吹出してでも来るように見えている。 「人を踏みつけにするもいゝ加減にせよ。これは一体どうしたという事だ」  こういって小吉に怖い目で睨みつけられて玄斎は縮み上った。  事実は玄斎もその時まで何にも知らない。小吉が思っていたように、この人もやっぱり願いの趣は駄目だったのだと考えていた。 「先生のお顔を潰しては大変だ。早速わたしが懸合いましょう」 「おのしはとっくに確かめてある筈だ。第一おれがところへ話を持って来たはおのしだ。が断って置くが、おれが礼の事などをいっているのじゃあないよ。紅井さん、瀬山さん、阿茶の局、そっちを約定通りにしなくては、唯事では済まない」 「わかって居ります」 「秩父屋は飛んだ狡い男だ」 「貧すれば鈍するでしょうかな」 「いや、あ奴あ性根が悪いから衰えたのだ。全く、引っかゝった」 「一途にそうおっしゃらずに、少々の間、わたしにお任せ置き下さい」 「先日|しか《ヽヽ》と確かめると申してそのまゝほったらかして置くおのしだ。信用は出来ないな」 「まあ、そう云わず勝様」  玄斎は剃った頭につぶ/\の汗をかいた。  その夕方から雨が止んだ。  丁度三ツ目の道具市の日で小吉は、そこに行っていると、玄斎がふだん威張っているのにひどく恐縮の面持で腰をかゞめてやって来た。 「あの男は狐のようだ。貫札の下り次第などといった覚えは毛頭ない、どうしても三百両御用仰せがある迄は礼金は出しかねるといってきかないのだ。わたしもいろ/\な人間を見たが、あのような図々しい奴ははじめて——勝様わたしが憎いと思召したらわたくしを、また秩父屋を憎いと思召したらあの夫婦を、思う存分にして下され。わたしは覚悟をして参った」  といって、とう/\ぽろ/\泣き出した。 「これ、玄斎先生、そういうのを、下世話では尻《けつ》を捲くるというのだ。おのしや秩父屋を斬っ払って見たところで、おれは三文の徳にもならないよ。え、秩父屋はね、もう貫札は下ったし、御用は仰せつかったし、今更貫札を取上げられ御用達を外《ほか》へやられる事はないと多寡をくゝっているのだ。おれや、おのしが腹を立てて、手を引いてくれるが、あ奴の目当《めあて》よ。まあこちらはおとなしくしていよう。悪い事をしていゝ報いが来るという理法が天にあるならば三九郎の思う通りなるだろう」 「それでは余り忌々しい」 「まあいゝわ、肥溜の蛆虫《うじむし》を対手にするも気味が悪い。おのし、もうこの一件は心配されるな。その暇に、病人を一人でも多く癒してやる事だ」 「わたしを許して下さるか」 「許すも許さぬも、悪いは、おのしではないではないか」  次の日は雨の後のいゝ青空で、小吉は早朝から御城へ出て行った。  紅井さんに逢って、実は秩父屋がこう/\だ、わたくしはそなた様には誠に申訳もござりませんとそのまゝをいったら、紅井さんは頬をぴく/\させて 「そうですか。秩父屋は、もう貫札も下《お》り御用|仰《おゝ》せもあったからこゝ迄来ては真逆お取消はあるまいと思っているのですね」  といった。眼が吊上っていた。  小吉は瀬山さんにも逢って詫を云い、阿茶の局にも逢って詫をいった。  局は静かな声で 「そなたの気性は彦四郎どのからようきいて悉く知っている。もう二度とあのような商人《あきゆうど》を対手の働きはなさらぬがいゝぞ。わたしは今日もなお麟太郎には目をつけている。機会《おり》を見ている。そなたは、間違ってもあの子の行末に迷惑をかけるような行跡をなさらぬがよろしゅうござりましょうぞ」  と、こゝは少しきつい声でいった。 「はあ」 「学問は致させて居りまするな」 「はい」 「もう世の中は流れるように変っている。御城の奥深くいるわたくしにも、それが聞こえますぞよ。そなたも心がけ、また麟太郎には篤々《とく/\》心掛けさせなくてはなりませぬぞ」 「はい」 「彦四郎どののお子精一郎どのの噂は、もう御奥深い辺りに迄聞えて居ります。剣術ばかりではない、近頃は阿蘭陀《おらんだ》学もなさるとか」 「精一郎が阿蘭陀学?」 「知らなんだか」  そう云われて小吉は汗をかいて引退った。  屋敷へ戻ってお信の顔を見て先ず第一に云った。 「おい男谷の精一郎が阿蘭陀学をはじめたとよ」 「さようで御座いますか」 「近くにいてこっちは知らなかったが、阿茶の局どのから伺った」 「精一郎どのなら、そうありそうな事でございます」 「阿蘭陀学なあ? おれも一度精一郎に訊いて見るわ」  次の日、道具市へ行って大きな座蒲団へ坐っていると、表口にちらッと秩父屋夫婦の姿が見えた。 「ふゝン、態あ見やがれ」  内心そう思って小吉はわざとそっぽを向いていた。  世話焼の栄助が側へ来た。 「是非お目にかゝりたいと、手を合せて拝んでますからお逢いになっておやりなさいましよ」  低い声でいう。 「逢わねえ、いつ迄まご/\してれあ斬っ払うといってやれ」  秩父屋夫婦は一度姿を消したが、ものの半刻もたってまた市へやって来た。  元来気のいゝ世話焼がほんとに気の毒がって 「玄斎先生のところへ行って詫を入れていたゞこうとしたが駄目だったといって泣いてますよ。可哀そうですからさあ。勝様、逢っておやんなさいましよ」  と自分事のようにして頼む。 「嫌やだ。真っ平だ」 「御立腹は御尤もですけどね。通町《とおりまち》の秩父屋と云えば、先ず知られた商人《あきんど》です。それがあゝして」 「天へ唾を吐けあ、おのれが面《つら》へ引っかゝる。それが理法というものだ。そう云って追いけえせ」 「困りましたねえ」 「世話焼さん、おれあね。無法者は許すが狡《ずる》い奴は許さねえが性分だ。狡いが一番嫌えなんだよ」 「へえ、へえ、御尤もです」 「秩父屋にそういってやれ」  暫く経ったがやっぱり帰らない。とう/\市場の往来の地べたへ、夫婦揃って坐込んで終った。小吉はこっちからこれを見て 「ちぇッ見っともねえ」  と舌打をして 「知らない人が見れば、あんな商人《あきんど》を対手におれが無法をしてでもいるようで気まりが悪い。おい、世話焼さん、仕方がねえ、こっちへ連れて来てくれ」 「へえ」  間もなく夫婦が小吉の前の一段低い板敷へきっちり膝を揃えて坐った。 「勝の殿様、誠に申訳ない事を仕りました」  三九郎が、おろ/\声でそういったが、もとより、作り声だろう。小吉は只まじ/\と二人を見ているだけである。 「わたくし共のとんだ考え違いでござりました。この上の御仰せつけが無くともかねて申上げました御礼の金子は差出しますでございます故、誠に厚かましゅうはござりますが何分とも重ねてのお取做しを願わしゅう存じます」  小吉はこの時一寸小首をかしげた。その様子を秩父屋は目ざとくも見て 「勝の殿様、このまゝでは秩父屋は大戸を下ろし、わたくし共夫婦は首をくゝらなくてはなりませぬ」  哀れッぽい声であった。小吉はにやっとした。 「それもいゝだろう。が堅く断って置くが首を吊るなら本所《ところ》界隈は真っ平だよ。くれ/″\も土地《ところ》の外《そと》でやってくれろよ。変死があると町内の入用が累《かさ》んで困ると、みんな歎くからなあ」  内儀が、甲高い声で 「わッ」  と泣伏した。泣き乍ら 「お憎しみは御尤もでござります。でも、そ、それは、あ、あ、余りでござります勝の殿様」  おろ/\といった。  小吉はくす/\笑った。 「お前らに、殿様と云われたは今日がはじめてだが、おれあね、本所者《ところもん》だよ、両国の掛小屋芝居は|のべつ《ヽヽヽ》に見ている。お前ら、下手な芝居をせず、はっきりと云うがいゝじゃあねえか。え、末姫様御用達の貫札は取上げられまして、仰せつけのお品は戻されました。そうよなあ、七十両の仰せつけならそれが悉く手持になって先ず正味四十両は損をしたろう」 「えーっ?」  と三九郎はからだを反《そ》らしてびっくりして 「どう、どうしてそれがおわかり遊ばしました」  といった。 「遊ばしましたにもまさねえにもそう行くのが当たり前だ。行かなかったらその方が不思議だ」 「へ、へえ、へえ、このまゝでは本当に首をくゝらなくてはなりませぬ。勝の殿様、ど、どうぞお助け下さいまし」  小吉は 「はっ/\はゝ、面白いねえ。さ、おゝ、秩父屋商売の邪魔になる。それで云いたいは、いったろう。もう帰れ、帰るんだよ」  そのまゝ、くるっと横を向いて、そこに積んである刀を、すっ、すっと抜いては見ている。 「世話焼さん、これはいけない。ほら、こゝへ来てちょいと御覧な、こゝに、こう瑕《きず》がある。お前さんらには見えねえかな、地肌の底にかくれているからねえ。一合すると、こゝから、ぽきりと折れるんだ。刀はねえ、侍の一命を托する表道具だろう、こんなものを知らずにさしているは危ない」 「はい」 「へし折って屑の方へ入れる事だ。利鈍は別だが、瑕物はいけないよ」 「はい。承知しました」  世話焼さんは、若い男を手招きして、何にやら符牒《ふちよう》をいって、その刀を渡してやった。 「ほい、これもいけない」  と小吉は、にや/\して 「伊賀守|金道《かねみち》に相違はないが、大切な物打《ものうち》のところに瑕がある。こんな刀で斬合ったら伊賀の鍵屋ヶ辻の荒木又右衛門と同じに一合でぽきりだよ。あれも金道だったとさ」 「はい」 「如何にも贅沢ないゝ拵えだが、こんな中身《なかみ》の刀をさして威張っていたなんぞは世の中には困った侍が多いね。屑におし」 「はい」  堪りかねて、秩父屋が 「あのう——」  と声をかけたが、小吉はやっぱり見向きもしない。  ものの半刻もそうしていた。内儀が三九郎の袖をひいた。そのふくれッ面が市へ来ているみんなにもわかった。  それでも 「改めまして」  と三九郎は言葉を残してやっと帰った。  その晩、市場を帰りかけようとした時に篠田玄斎がやって来て、実は秩父屋夫婦が斯う/\いう次第で、勝様にお詫をして、今度は悉く前金で差上げるから、も一度、貫札がいたゞけるようにして貰いたいと、たった今迄泣いてかき口説かれてとんと困りましたという。 「断ったろうね」 「きっぱりと断った。勝様は御旗本だ。そう云ったのならもう曲げないと」 「しかし御城にもいろ/\慾深が多いねえ。引受け事も早かったが、礼金が来ないと、忽ちにしてお取消だ。はっ/\、偉いものだ。そういう人が御年寄だの師匠番だのとうよ/\しているのだから天日為めに昏《くら》しというはこういう事かねえ」 「御時世ですよ。秩父屋はちと甘く見て失敗《しくじ》ったな。それについても、あなたに飛んだ御迷惑をおかけ致して、何んとも申訳ない」 「いやあ、それあいゝが、秩父屋も四十両も損をしたのでは、ちとお灸が強すぎたねえ」 「だが代々の大店《おゝだな》でもあり、あの通りに狡い男です。何んとかやりましょうよ」  玄斎とは途で別れた。小吉は松五郎の家へ寄るつもりだ。どうしているか村田長吉の様子を見たかったのだ。  が、竪川に沿ってずうーっと花町まで来る途中、植村五郎八という二千俵取の旗本の下屋敷の四つ角まで来たら、俄かに遠くで半鐘の音が耳に入った。 「おや、火事だね」  ぐるりとからだを廻して四辺を見たら、ぼんやりと火の手があがっているのはどうやら日本橋の方らしい。 「川向の火事という。それでも松五郎らも出《で》につくだろう。邪魔をするもいけない。帰ろう」  帰る時に、屋敷の角でぴったりと麟太郎の道場戻りとぶっつかった。 「どうだ、島田虎之助というに、稽古をつけて貰ったか」 「はい。先生が、島田に島田にと申しつけられましてわたしはまるで島田先生のお弟子のようです」 「痛いか」 「痛うございます。時々、くら/\と眼迷いがする程にぶたれます」 「そういう時精一郎は何にかいうか」 「思わず痛いッと叫びますとにこ/\笑っていられます」 「東間も余程打たれるか」 「はあ、東間さんは弱いなあ、今日も一度気絶をしましたよ」 「ほう」   新栗《しんぐり》  東間陳助は芯《しん》は至極の好人物だが元来が強情自慢な男である。あれが気絶する程打込まれたという。島田虎之助というのは所詮は田舎ものだが余程の奴のようだなと小吉はにや/\した。  屋敷へ帰って玄関先で 「おい、麟太郎がけえったよ」  そう内へ呼んだ。呼んで終ってから、何んだかあべこべだったような気がして、ひとりでくすっと肩を上げて笑った。  休む間もなく麟太郎は大きな声で本をよみ出した。途端に街をどん/\/\と太鼓の音がして 「火事は日本橋通町でござーい」  とふれて歩く嗄れた声がした。それが遠く近くあっちからもこっちからも聞こえて来る。 「いゝ塩梅に風がない、大火にはならねえだろう」  小吉はひとりごとを云って、麟太郎のうしろの方へごろりと横になってお信の出してくれた大きな湯呑の茶をすゝった。  一日間をおいた次の日に篠田玄斎がやって来て 「秩父屋が丸焼けになったそうだ。今日、妹がわたしのところへ帰されて来ましたよ」  としょんぼりした声でいった。 「あゝそうか。あの晩、火事は通町といったが、うっかりきいていた」 「小半町やられて、秩父屋も類焼だ。あの家ももう二度と立てないそうだ。公儀御用達までした老舗《しにせ》が惜しい事ですよ」  小吉は黙ってきいていて何んにも云わなかった。  次の日、市の世話焼さんからこれをきいた。世話焼さんは 「勝様は天の理法とおっしゃいました。これで御座いますねえ」  と頻りに感心してひとりで頭を下げる。  秩父屋が奉公人を一人残らず暇を出してとう/\神田岩本町の裏店《うらだな》に逼塞《ひつそく》したというのをきいたのはそれから一と月と経たない中であった。  時々びっくりするような冷めたい風が吹いてもう八百屋の店に新栗が出た。  今日は障子の外は青い空で小吉は仕立下ろしの袷を着せられてお信が前へしゃがんでしつけの糸をぬいている。 「此頃本所では妙な事が流行って来たとよ」 「どのようなことでございますか」 「世話焼さんもそういうし、松五郎もいう。きのう仕立屋の弁治に途で逢ったらあ奴もそう云っていたが、小普請の者あ揃って滅法刀が長くなったそうだ」  お信は唯、さようで御座いますかというだけで、余りぴーんと来なかった。 「みんなおれの真似だとよう」 「まあ」 「おれが刀が長げえからそれがはやりになったとはおどろいた。気がつかねえが長げえばかりか拵え迄似せているという。その上、鬢《びん》をきつく引詰めたも、着物まで真似る。べら棒な話よ」 「さようで御座いますかねえ」 「今夜おれが頼まれてな、深川常盤町の狐|ばくち《ヽヽヽ》という奴へ行かなくてはならないが、この着物がまた流行るか。ふッ/\」  お信は眉を深く寄せた。 「如何《どう》して、|ばくち《ヽヽヽ》の処へなどいらっしゃるので御座いますか」 「篠田玄斎先生に手を合せて頼まれたのよ。ほら、知ってるだろう、あの人の妹は秩父屋に奉公していたが家の破滅でけえって来た。そ奴はまだおれが顔を見た事もねえが、大層な堅固でね。年は左程でもねえに二度と何処へも嫁づく気はないから紅白粉の背負い荷の小商《こあきない》でもさせてやりたい、それにしても先立つ|もとで《ヽヽヽ》だ。玄斎はあれで|ばくち《ヽヽヽ》の上手とはじめてきいたが、今夜そこへ行って儲ける気よ」 「そうで御座いますか」 「妹の後家というのも心底も気にいったし、儲けてけえる道が危ないからと頼まれて嫌やとも云えず引受けたわ」 「あなたは天下の御旗本、およろしいので御座いましょうか」 「道具市から坐り夜鷹の用心棒、今度はまた狐ばくちと、おれも次第に下落だが、お信、おれはな、こ奴迄あ」  と、ぽんと胸を叩いて 「落ちてはいねえよ」  と笑った。引込まれてお信もにっこりして 「然様でございますねえ」 「だが、ばくち場は今夜が一度きりだ。おれはあんな事は大嫌えだ」 「篠田先生もお儲けなさればおよろしゅう御座いますねえ」 「さあ、そ奴はおれにはわからないがね。行って唯|食物《くいもの》でも食べて寝ていればいゝというから、嫌やだが行ってやるのだ。松五郎も頼むが、あんな男にばくちなんぞ見せては後々の為にならねえ。来るなといった。あんな男あすぐに物に染まるから」 「篠田先生とあなたとお二人だけでございますか」 「いや、世話焼さんが心配して、おれの介添に行ってくれるそうだ」  麟太郎にこんなことをさとられたくない。早い中に屋敷を出ようと思っていたら、長崎奉行に行った相生町の牧野長門守のせがれで小吉が剣術を教えた成行《しげみち》から仲間《ちゆうげん》が手紙を持って来た。急にお目にかゝりたいから御足労いたゞきたいという。 「何んだろう」  小吉は初袷に袴をつけて出て行った。ゆき丈《たけ》がぴーんとしている。  成行は待っていた。 「実は父は長崎赴任早々ながら、御上様思召によって大目付仰せつけられて急遽帰府いたしますについて、後任は父の推挙により久世伊勢守広正様と相定まりました。これについて先般あなたからお話のありました小差《ようたし》の件について」  といって成行は、長門守は心にかけて伊勢守にお願いし、大体、尾張屋亀吉に申しつけるとの御内諾を得ましたから、そのおつもりで然るべくお手配をなさいというのである。小吉は内心こおどりする程よろこんだ。これがうまく行けば、今日まで尾張屋から背負っていた物をかえせる。まして遊山無尽の思いやりなどに対しては、一体どうしたらいゝかといつも心にかゝっていたのである。  伊勢守は三千五百石、千五百石の長門守よりはぐっと上だが、好人物はかねて小吉もきいていた。 「有難うございました。早速、尾張屋に告げて今日中にも策《さく》を取ります。その上また改めまして」  小吉はいつになく少しあわてたように牧野家を出ると、すぐに町駕へのった。 「飛ばせ」 「先生、お珍らしくお急ぎで御座いますねえ」 「黙って飛べ」 「へえ」  江戸の市中を、真っ昼間、駕が矢のように飛ぶ。小吉は時々、駕の内でにや/\した。 「有難てえ事だ。これで尾張屋へ義理がけえせる」  外桜田も、尾張屋のずっと手前で駕を下りた。空は明るく、上は風があると見えて白い雲が流れて行き、また流れて来る。  早足で、尾張屋の前へ行ったが思わず足がぎくっと釘で打ちつけられたようになった。大勢の人が潜戸から出たり入ったりしているが、太い柱に鉄鋲の目立った尾張屋は、ぴったりと大戸を下ろしているのである。藍の匂のぷん/\する新しい印物《しるしもの》を着た若い男が三人、用水桶の前へ立って話している。  小吉はそこへずばっと寄った。 「一寸たずねる。尾張屋さんはどうして大戸を下ろしている」  若い者達は、小吉をまじ/\見て 「へえ」  といって、お辞儀をした。 「飛んだこって御座んして」 「どうしたのだ」 「旦那が今朝程急にお亡くなりでございます」 「えーっ?」  小吉の膝ががくッとした。 「卒中という事でございます」  もう一人の若いものがつけ足した。 「そうかあ」  と唇をかんだまゝうなずいた。 「おれは本所《ほんじよ》から来たのだが、刀鍛冶の水心子秀世はまだ来ていぬだろうか」 「あゝ、秀世さんは来ています」 「勝小吉だ。あの人まで取次いで貰いたい」 「え? か、か、勝、勝先生。へ、へえ、畏りました」  残る二人は、辞儀をつゞける。一人は転がるように内へ飛込んで行った。  この日の夕方、ばら/\っと一度雨が降ったがすぐやんだ。  その頃小吉は三ツ目の市にいた。 「いゝ人は先きに死ぬわ」  腕組みをして、世話焼さんと向い合って、黙って考えている事が多かった。 「おれがように狐ばくちの用心棒に行くような男は長生《ながいき》をするからねえ」  いったところへ、約束の篠田玄斎が入って来た。 「|ばくち《ヽヽヽ》はねえ、ふところの有る程勝つものだときいたが、先生も、町医者だ。そんなに銭はねえだろうねえ」 「三両ある、大丈夫だ」 「三両? 足りなかろう。今、世話焼さんと相談して、おれがこゝで十両拵えて置いた。さあ、〆めて十三両だ。出かけようかね」 「勝さん恩に着る」 「だが、損をしそうになったら、おれがまたこ奴を」  刀をとーんと叩いて 「引抜いてあなたを脅かすよ」 「いやもうあれは怖いねえ」  玄斎は本当に苦しそうに笑って、やがて三人が出て行った。 「何しろ千両ばくちというから、勝ったら大変な事になる」  という玄斎へ 「その代り敗けたら元も子もなくなるという訳だ」  と小吉がからかった。玄斎は 「いや、狐ばくちはわたしの得意だ、心配無用の事さ」  と大口開いて笑って見せた。  深川の岡場所《あそびば》の高橋際で、ばくち場は、京町二丁目の一番大きな女郎《こども》茶屋《ぢやや》戸田屋の奥座敷で開帳していた。蔵宿の亭主だの、日本橋辺の大きな商人《あきんど》だの五、六十人もむん/\する程に集っているので、小吉も世話焼さんも、びっくりした。莨の煙ですぐ前にいる人の顔さえよく見えない程である。 「世の中が悪くなると、こんなところは盛るものだ」  小吉はそう世話焼さんの耳へさゝやいて、玄斎をその真ん中へ押してやり乍ら 「|もとで《ヽヽヽ》の事は心配するな。足りなくなれば運んでやる」  そういってうしろの方へ引退った。  小吉の名はみんな知っている。ばくち場の世話人達は、下へも置かぬもてなしだが、ひょいと見ると、隅の方の壁に刀をこう抱くようにして倚りかゝって侍が三人いる。 「世話焼さん、いけねえよ。あ奴らの鬢《びん》を見ろ、みんなおれが真似だよ」 「そうですね」 「おれは恥をかいているようなもんだ。こゝには、いられねえよ」 「と申しても、勝様」 「どこか外の茶屋へ行き、玄斎がけえる時に迎えに来て貰う事にしよう。そう伝えてくれ」 「そう致しますか」  裏通りの茶屋三河屋へ行って、小吉ははじめてほっとして 「世話焼さん御免よ」  ごろりと手枕で横になった。 「ね、こゝへ来て、おれがように酒も飲まず、芸者を呼ばねえも、余《あンま》り|ばつ《ヽヽ》が悪いから、お前さん、芸者の酌で酒でも飲むがいゝねえ」 「いや、わたしも芸者などとまじめで話をしているが面倒で——第一、一と切《きり》二朱の線香代は無駄でございますよ」 「まあ、そう云うな」  小吉は 「おい/\」  と大きな声で小女をよんで、云いつけた。  いゝ芸者だった。が、それの来た時は小吉はもう、枕を借りて、薄い小夜着を胸から下の方へかけ、すや/\といびきをかいて眠っていた。  世話焼さんは、はじめ、まるで怖いものにでも襲われたような恐縮の恰好で、芸者の酌を受けていた。 「もう結構、もう結構。わたしは酒は駄目なんだよ」 「そんな事をおっしゃらずにお召上り下さいましよ。そちらのお侍様もお起し申しなされましては」 「こちらはお酒は一滴も召上らんでな」  芸者はにっこり笑って 「さ、お召上りを」  次から次と酒をつぐ。世話焼さんは、頬がぽうーっと紅くなった。 「いゝお酒だね。も一つ、ついで貰いましょうか」   慾の顔  ふだんはついぞ飲まない、小吉同様一滴もいけないという事になっている世話焼さんが、小吉がひょいと眼をさましたら、いやもうひどく酩酊だ。 「へえ、相すみません、相すみません。これあどうもいゝお酒ですね。こ、こ、この家は何んと云いますか。姐さんのお名は——へえ、さよですか。これからもちょい/\寄せていたゞきますよ」  頻りに芸者にお辞儀をしながら 「さあ、お酒をもう少々——へえ、もう、これでおつもりに致します。わたしはお酒はいける口ではないので御座いますから、へえ」  休みなく盃を唇へ持って行く。小吉はにっこりして、眠っている風でじっとこれを見ている。 「あゝ、いゝお酒だ。もう少々頼みます。こんどこそこれでおつもりで」  そんな事を何遍もくり返して、酒の来る度にお辞儀をし、芸者へ頭を下げてのんでいる。  小吉は、寝返りをして、一人でくす/\笑っていると、京町の戸田屋から、篠田玄斎の使の若い者が来たといってその口上を女中が取次いだ。 「おう、そうか」  と小吉は起きて 「玄斎先生は、もうかえるそうだ。うまく行ったらしいな。さ、世話焼さん、かえろう」 「へえ」  と世話焼さんは今度は平蜘蛛のようになって 「勝様、どうもこゝの家は大変ないゝ家らしいですね。もう一本だけいたゞいてから参りましょう」 「それもいゝだろう」  小吉は、坐って、じっと世話焼さんの酒をのむのを見ている。ちゅう/\唇を鳴らして盃を吸ったり、箸で何にか肴をつまもうとして、あっちをつまみこっちをつまみ、一つも口へは持って行けない。  小吉は 「おい、姐さん、おれは用があって行って来るから、それ迄、この人に好きに飲ませておいてくれ、頼んだ」  といった。 「と、と、飛んでもない」  と世話焼さんは、大あわてにひょろ/\立上って 「か、か、勝様、それではわたしの顔が立ちません。わたしは、勝様の介添に参りました」 「そんな事あどうでもいゝ。おれはすぐにけえって来るから、それ迄、飲んでいろ」  小吉は出て行った。世話焼さんがこんなになったのを初めて見て、歩き乍らもおかしくて堪らなかった。  戸田屋では、玄斎は小吉の顔を見るとふいにばくち場を立った。  みんなはッとしたような顔つきで眼を皿にした。  玄斎は、小吉の側へくっついて耳元へ口を寄せ 「ざっと数えて六百両、この辺が逃げ時なんだ」  といってからみんなの方へ 「また来ますよ」  と少し頬をひっ吊らせて、無理に落着いて笑って見せた。  顔を見合せた人達の今にも噴き出して来そうな腹立たしさが、少し上気して血走った眼をすえて、固唾をのんで玄斎を、そしてそれを小吉へ流して、俄かにがくりとした顔つきが小吉にもすぐわかった。  胴元をしているらしい肥った男が、何にか云いかけようとしたら、玄斎は、わざと大きな声で 「さ、勝先生、帰ろう」  といって、すぐに廊下へ出て終った。  さっき見た浪人が三人、見送るような恰好でくっついて来た。 「お帰りか」 「今夜中には見てやらなくてはならん病人があるでな——はっ/\、ほら酒代だよ」  玄斎は、馴れた手つきで一人の掌へぶッつけるようにして、三両、ぴしゃっと渡して 「また逢おう」  笑って往来へ出た。  夜更けの空は白けて、星が一つ/\、淋しく宙に浮いている。 「大した度胸だね」  と小吉はひやかして 「みんな咬みつきそうに睨んでいたではないか」 「ばくち場というものは、途中の勝抜けを一番嫌やがるからね。だが、これをやらなくては、とどの詰りは一文なしにされて終う」  気がつくと、息が煙のように白く見えた。 「浪人共も、金を貰う前までは、殺気立っていたよ」 「そうですよ。あすこで金をやらなければ、いつ迄もついて来て、何んだかんだと因縁をつけ、下手をすれば儲けた金を奪い取られたり、斬られたりして終うのだよ」 「追剥だねえ」 「だから、あなたに来ていたゞいた。先生がいては、あ奴らだって手も足も出ない。ね、勝さん、これで、わたしも妹の身を立ててやれる、有難く礼を申します」 「結構だが、そんなに儲かるから結句ばくちは身を亡ぼす。おれはあんなものは大嫌えだが、先生ももうやめるがいゝではないかねえ」 「はっ/\。行きたくも二度とは行けない。六百両の勝逃げだ、今度行ったら殺される」  玄斎は急に、がっかりしたようにとぼ/\歩きながら 「今夜のような事は、土地《ところ》に顔のきいた先生のような人がついていなくては出来ない仕事、先ず狐とばく始まって、これは未聞《みもん》だ。唯、後いくらか恐ろしい」 「おれは何んにも知らないから、ひょいとお前さんらの口車にのってやって来たが、あ奴らの最後のあの顔を見て後悔した。憎まれ役は嫌やだよ」  と小吉は立停って 「おれは、これから三河屋で世話焼さんをつれて行かなくてはならない。先生、先きに行ってくれ」  といった。 「と、と、飛んでもない。こゝで、あなたに突っ放されて堪るものか」 「そうか、ばくちに勝つは、そんなに怖いことか」  と笑って、急にどん/\と京町の方へ行く。玄斎は黙ってついて来た。  座敷へ入って見ると、世話焼さんは頻りに首をふり乍ら 「どうもこれはいゝお料理らしい。この家は深川一ですね」  まだ芸者を対手にのんでいる。 「わたしはお酒は嫌いですがね、どうもいたゞき出すと止りません」  といって、そこに小吉の立っているのを見て 「あ、これは勝様、頂戴いたしました。この家のお料理もお酒も滅法なものでございます。おや、少々頂戴いたし過ぎましたかな。これは、眠くなりました」  ごろりと横になった。 「困るねえ」  と小吉はそれでも自分もうれしそうに 「世話焼さん、もうかえるのだよ」 「はい、はい、帰ります。帰ります」  云ったと思ったら途端に大鼾をかき出した。 「はっ/\。困った人だわ」  小吉はそっと抱き起して、世話焼さんの脇を自分の肩へかけた。  背負ったまゝで外へ出た。 「どうもあの家のお料理は江戸一だ」  世話焼さんは、そんな事をしゃべっているが、本当は眠っているようだ。  深川を南から東北へ真っすぐに突切って三ツ目橋まで来るのは余程の道のりである。途中で玄斎は、何度も駕にしましょうといったが、小吉は背負った世話焼さんを振返るようにして 「おれは御旗本、この人は町人だが、おれはそれは/\世話になっている。どうして恩をかえしたらいゝかと、いつも考げえているんだが、人間というは妙なものでこんな僅かな事をしていても、それで万分の一をかえしているような気がしてねえ、おれは何んとなくうれしいのだよ」 「うーむ」  玄斎はうなった。  小吉はとう/\本所まで背負って歩いて終った。  暗い中で、そのうしろ姿を見ると、玄斎は、これ迄にかつて一度も感じた事のない、しみ/″\とした人間のあたゝかさというようなものを身近に覚えて、自然に眼の中がうるんで来た。  道具市へ着くと、おかみさんが飛出して来て 「まあ、お前さん、勝様に」  すみませぬ/\と、地べたへ頭をすりつけるようにお辞儀をする。小吉は 「お前さんは、まだ起きていたかえ」 「やっぱり、気がかりでねむられませんでございました」 「いゝねえ。介抱してやっておくれよ。だいぶ酔うて終ってねえ」 「どうしてこんなにお酒をいたゞいたのでござりましょうか。とんだ御迷惑をおかけ致しました事でござりましょう」 「そんな事はない。これから玄斎先生を送り届けて、おれも屋敷へかえるから明日《あした》また改めて逢おう」  小吉が入江町へ帰って来たのは、もう夜明けに近かった。  次の日、市場へ行ったら、世話焼さんはまるで病人のように真っ青な顔をして、物も云わず、お辞儀ばかりしている。 「おれが酒をのまないものだからお前さんも、いつも不調法だなどといっているが、滅法好きではないか。好きなものを嫌いなような顔をするは、人をたぶらかすも同じだよ。よくないねえ、はっ/\は」 「面目次第もございませぬ。どうぞおゆるし下さいまして」 「謝まる事はない。酒のみもお前さんがようなのは、おれは好きだ」  ものの小半刻も話していたら一とねむりして来たらしい玄斎がやって来た。 「ちょっと世話焼さん、こっちへ顔を貸しておくれ」 「何んでございますか」  二人でこそ/\話をして、連れだって住居の方へ行った。小吉は例によって大座蒲団へ坐って、前へ積んである刀剣類を見たり、みんな何にか云って来る相談を捌いたりしている。  玄斎は三十両包んでやって来ている。 「それあいけませんよ先生。そんなものを差出したら、勝様がお怒りなさるに定っている」  と世話焼さんは声を潜めて云う。 「といって、このまゝという事は出来ないではないか」 「それはお礼を申さなくてはなりますまいが、それには時というものがありましょう」  世話焼さんは、小吉の芯まで知っている。だからそういうが玄斎にして見れば、たゞ、有難うございますと、礼の言葉だけでは済まされないのも尤もである。  とう/\、世話焼さんが市《いち》の方へやって行って、小吉に、こっちへお出まし下さいと伝えた。 「玄斎先生のようだが、おれはばくち場の用心棒はもう/\真っ平だよ。あれは嫌やだ。おれがところの麟太郎が命を助けていたゞいた御恩は忘れないが、ばくち場にいる奴らが、じろりと上目遣いにおれを見た、あの顔つきなんざあ亡者の目よりもっと怖いよ。おれは臆病だから、世話焼さん、もう、お前さんから断ってくれろ」 「へえ、それは心得て居ります。でも玄斎先生も二度とは御無理を申すことはございませんでござりましょう。とにかくまあ、ちょいとお顔をお貸しいたゞくように頼んでいますから」  小吉は渋々立ち乍ら 「麟太郎奴、犬に睾丸なんぞ喰われるから、こんな事になりゃがる」  ぶつ/\云って、住居へ行った。 「もうばくち場は嫌やだよ」  頭からそういって 「慾に固まった人の顔程醜いは無いねえ」 「はっ/\は」  と玄斎は少してれ臭そうに苦笑した。 「ところで勝先生、これは」  と金包を押出して 「篠田玄斎が心ばかりでございます。世話焼さんともよく相談を致しました」 「何んだえ。それは金ではないか」 「少々乍ら」  といった途端に 「馬鹿奴」  小吉の割れるような大声が響いた。世話焼さんのおかみさんは、思わず、ぐーんとのけ反《ぞ》った程だった。 「小吉は汚ない金なんぞは要らねえ男だ。どうしても金を呉れてえなら、ゆンべ儲けた六百両一文残さず持って来い」 「え?」 「人の心のわからねえは禽獣《きんじゆう》だ。玄斎、まご/\してると斬っ払うぞ」 「と、申しましても」 「お前が妹は立派な女のようだから、おれも一肌ぬいでやった気だ。それに引きけえ、兄は無体な馬鹿者だ。早くけえらねえと、今日《きよう》向後《こう》本所《ところ》で医者はさせねえぞ。金がほしくてばくち場の用心棒に行く勝小吉と見損なったか」  物凄い剣幕で刀を持つと、とーんと鐺《こじり》で畳を突いた。   鯛  小吉の声がこれ迄きいたこともなく腹にこたえて大きかったので、世話焼さんも、ぎくっとして、あわてて、玄斎の方へ 「そ、そ、それあいけませんよ先生」  ごくり/\と唾をのんだ。 「そんな物をお受取りなさるなら、はじめから、お力にはなって下さいませんよ」 「と、といっても、こ、このまゝでは世話焼——」  玄斎も吃っている。 「いゝですよ。勝様はね、御旗本でございますよ。え、本所《ところ》の方《かた》でございますよ。千両万両お金を積んだって誰がばくちの用心棒に行って下さいますものか」 「そ、それは重々わかっている」  玄斎の額に汗が玉になった。 「おわかりなら、それだけでいゝんでございます。あなたが、心から有難かったと思っていらっしゃる。それだけを喜んでいるお方なんですよ」  世話焼さんのいっている間、小吉はじいーっと玄斎を見つめて 「おれはあっちで商売がいそがしいのだ。命が惜しくば早々に帰って貰おう」  と一息ついて 「お、先生、おのし小吉と約束した通り貞女の妹御を大切にして上げなけれあ、今度あ唯事じゃあすまないよ」  小吉はそのまゝ市《いち》の方へ立って行って終った。  玄斎は頭をふり/\、さてどうしたらいゝだろうと、それから暫く世話焼さんと話していたが、憖《なま》じいな事をしては、あべこべに勝様を怒らせるだけだから、じいーっと時機を見ているがいゝだろうということになって、やがて帰った。  世話焼が市へ出て来ると、小吉は頻りに刀を見ていて、もう玄斎のことなどは忘れているようであった。  日が暮れかけて市を出た。竪川べりへ行こうとする角地の松平能登守|下《しも》屋敷の塀の裾にまつわるような靄が見えて、晩秋の匂いが妙に胸にしみる。その塀に少しばかりの破れがあって、そこから庭に黄色い菊の一ぱいに咲いているのがこっちを覗いているようによく見えた。  月代をのばした浪人が三人、揃いも揃ってふところ手で素足に雪駄をはいて、その塀を曲って来たのと、ぱったり逢った。 「あ奴らだ」  小吉はにやっと笑った。対手もすぐにそれと気づいて、あわててふところ手を出すと、三人一緒に立停った。  小吉は知らぬ顔で真っすぐ川ッぷちの方へ行こうとした。村田長吉へ寄って見る気である。  浪人達はにこ/\っと笑った。そして三人揃って、腕を膝前へのばして頭を下げた。 「おゝ、誰かと思ったら——」  小吉も頭を下げ乍らにや/\した。 「は、昨夜はまことに御無礼を仕りました」  こんな人達にしては鄭重な口のきゝ方である。 「お互だ——が、おのしら、いつから本所《ところ》にいるえ」 「はあ、つい一と月程前に、下総から出て来まして」  もう三十位の一番年嵩らしい人相は余りよくないが割に温厚そうな人物がそういって 「お噂をきゝ、是非共一度御引見をいたゞきたいと存じて居りました」  いっそう腰を折るようにした。 「おれがような者に逢ったとて、百文の徳にもならないが、お互い様、ばくち場の用心棒などというものは、余り褒めた生業《なりわい》ではないね」 「はあ、実は上総下総の辺りで剣術の修行を云い立てにばくち打ちの親分手合のところを渡り歩いて居りましたが、あの辺は近時、ひどく浪人の取締がやかましくなりましてな。浪人を留置いてはならない。百姓町人は剣術を教わってはならんという、われ/\糧道をたたれて、仕方なしに江戸へ出て来ました」 「はっ/\、江戸はだん/\掃溜になるわ」 「恐入りました」 「侍かえ」 「いゝえ、三人とも東金の百姓の子で、渡りものの剣術の先生から、手ほどきを受け、また道場などにも住込んで稀には勝てるようになったのが、病みつきになりました。先生、斯様な往来もいかゞ、改めてお屋敷へ伺わせていたゞく事には参りませぬか」 「真っ平。用ならこゝできこうではないか」 「はあ」  三人が顔を見合せた。そして、さっと一緒にまた頭を下げて 「お願いします。御門人の端にお加え下さい」  小吉は大声で笑って、はげしく手をふった。 「はっ/\、お、お、お前ら何にを云う、剣術の弟子になりたいなら亀沢町に日本一の男谷精一郎というものがある。一日でも二日でも本所《ところ》の水をのんでいながらそれを知らねえはないだろう。おれにきいたと、今からでも直ぐにお行き」 「い、いゝえ、わたし共は是非先生にと、毎日それを語り合って、かたく心にきめて居るのです」 「定めるは、そっちの勝手だが、こちらは御免だ。男谷へ行って、東間陳助というものへよく頼め」 「せ、せ、先生」  追いすがる三人へ、小吉は大きな目をむいて 「馬鹿も休み/\いうものだ」  そういうとそのまゝ三ツ目橋へかゝっていた。  小吉は駈け出した。三人は追ったようであったが、すぐに見失った。  花町の松五郎へ寄ったら、松五郎は組合の揉め事で出かけていて留守だったが、長吉は割に広い土間の隅に茣蓙を敷いて、薄暗くなっているのに、夢中で薄板へ漆喰絵をかいていた。鯛であった。 「その鯛は不味《まず》そうだねえ」  覗くようにしていった。 「え?」 「これあ何処で捕れる鯛だ」 「今日、小田原町の魚河岸でとっくりと見て来ました」 「如何に商人でもお前も江戸っ子ではないか、こんな鯛は喰うまい、これは場違いものだよ」 「はあ」 「河岸にこんな鯛があるのが不思議な位だ。これは田舎ッぺえの食う奴だ」 「はあ」 「こゝの家の松五郎に頼んで、あすこの頭《かしら》に渡りをつけ、ゆっくり見せて貰うがいゝ。江戸前はね、八百八町からうめえ餌が品川の沖に流れ出て行く、それをたらふく喰っている上に、内海《うちうみ》で波も静かだから遊びながら育っている、見ただけで、惚れ/″\する程ふっくらとしたものだ。それから活鯛、場違い、それもところにより、みんな違う」 「有難うございました」  長吉はすっかり職人の身拵えで、切見世のさわぎの時から見ると、ぐんと顔の色艶もよくなっていた。 「どうしているかと心配で寄って見たが、元気になって何よりだ。それともまた侍になりたいか——そう/\、こ奴あ禁句だったっけ。お糸の事はもう少々の間《ま》おれに任せて置け、悪いようにはしないよ」 「はい」  茶を一ぱい飲んで小吉は何にかしらほっとして屋敷へ帰った。もう真っ暗だった。  あ奴らあれからどうしやがったと、途《みち》でさっきの浪人の事を思ったりしたが、姿も見なかった。  屋敷では、麟太郎がねていて、お信が枕元へ薄桶をおいて、手拭で頻りに喉の辺りを冷やしてやっていた。  小吉はびっくりして 「どうした」 「道場で御稽古が少々きびしかったのでございましょう、喉がはれて居りました」 「どれ、見せろ」  しめした手拭をとって 「痛てえか」  麟太郎は首をふって 「いゝえ。母上はおおどろきなされましたが、剣術の稽古はこれ位でなくては駄目だと思います」 「対手は誰だ」  麟太郎はにこっと笑って 「島田虎之助先生です。わたしは、やっぱりあの先生が大好きです」 「凄い突きをくらわせたな」 「わたしは羽目板まで飛び、はね返って転倒しましたが、男谷の先生は宜しい/\と仰せでございました」 「そうか。精一郎が」 「はい。東間さんが、何にか申上げたようですが、男谷の先生は馬鹿をいうなと、おっしゃって笑っていられた」 「うーむ。どうだ剣術というはひどかろう」 「いゝえ、父上、わたしは、学問よりは剣術の方が好きでございます。一生懸命に修行をして、間もなく、島田先生でも父上でも羽目板へ突飛ばせるようになります」 「そうか、うむ、そうか。よし、よし、よし」  小吉は珍らしく眼尻に深い皺を寄せて、ぽん/\と麟太郎の肩を軽ろく叩き乍ら 「おれは、お前に、ぶちのめされる日が待遠いよ」  と笑った。  この時お信が、ふと自分の膝を打って 「お隣りの御隠居様が若い女子《おなご》どのをつれてお屋敷へお戻りになっていられますよ。さっきから二度も三度もお越しなされて、小吉の帰りが遅いのでこの首が——と、あのお肥りの短い首をぴしゃ/\ぴしゃ/\お叩きなされて、鶴のように長くなると御戯れをおっしゃってでございました」 「女をつれて帰えったと。どうせ碌な事ではないだろう」 「お顔の色は余りおよろしくはござりませぬが、始終にこ/\遊ばして、御機嫌のように見えましたが」 「雁が|ねぐら《ヽヽヽ》へかえって来たとなら行ってやらずばなるまいの」  小吉は庭下駄を突っかけていつもの切戸へ行った。 「そこは駄目でございます、あなた」  如何にも引いたが、戸は開かない。 「どうしたのだ」 「はい。先程隠居様のお話で、わたくしははじめて知りましたが、あちら側で釘付けに致しましたそうで」 「うむ?」 「用人の大川丈助が致した、怒鳴りつけてやったと申されて、御自分も玄関からお越しでございました」 「はっ/\。そうか、釘づけになろうがどうなろうが、こっちは何んの支《つか》えもねえ。却ってあっちが困るだろう」 「奥様《おまえさま》がそっとこちらへ見えられないようにしていたので御座いますねえ」  小吉はお信の前で表べは笑ったが、内心はむかついていた。 「用人奴、いよ/\唯の鼠ではねえ」  といって、玄関へ廻った。 「しかし世にはふしぎな屋敷もあるものだ。殿様が米屋の娘を引っぱり込み、隠居が行者の女をつれて来て一緒にいる。これで千五百石だ」  お信も思わずくす/\笑った。  岡野へ行くといきなり用人部屋へ入って行った。 「おのし、大工か」 「は? これは勝様」 「切戸の釘付けは大層器用ではないか。唯、惜しむらくは人間に足のあるのを忘れているわ」  大川丈助は、真っ紅になった。 「隠居がけえっているそうだが、逢いに来た」  怒鳴るようなその声を、待っていた江雪がききつけて飛出して来た。小吉を見て脚《あし》がもつれた。暫く逢わなかったが、ぼんやりした行灯の灯でもわかる、一と頃よりいっそう肥って顔は紅い。しかし何んとなく生気が沈んでいる。一度青々と剃って真言の坊主になったが、見ると、もうだいぶ毛が延びて、風体は昔の姿になっている。しかし清明がよくやっていると見えて着物に垢はついていなかった。 「いくらか中風の気味ではないかな」 「いや/\」  隠居は大袈裟に首をふって 「飛んでもない。まだ/\花を咲かす気だよ」 「それはいゝが坊主はおやめか——してまた柳島からいつ帰られた」 「帰りたくて帰った訳ではない。あちらは危なくていられなくなった。いや、わしではない、清明を、血に飢えたような狼が大勢取巻いてな。それに、勝さん、おのしも危い」 「え? 何あんのこと」 「まあ/\、立話でもない。こっちへ、こっちへ」  暗い廊下から清明も出て来た。 「はっ/\。清明がついて来たね。して見ると、盲目の唖娘は物にならなかったらしいね」 「いや、なるのだが——」  と清明を見て 「これが厳しくてなあ。どうにもこれは訳のわからぬ奴よ。あの娘にそんな事をしては天の罰、地の罰、神の罰、仏の罰、悉くがわしに降るとおどかし居る。な、勝さん、一つからだに、そんな罰が当てられて堪るものか。嘘をつけと叱ったが、わしは時々目まいをしたりして、ふと恐ろしくなってな。当分あの娘は見合せだ」 「それは結構。ところで、わたし迄が危ないというは、どういう話かねえ」 「まあ/\」  江雪は、奥の一と間へ落着いて、こゝではじめて清明が挨拶をした。別に変りがないがやっぱり顔色は少しよくなかった。   塵芥《ちりあくた》  隠居は行灯を引寄せ、その横から顎を突き出すようにしては 「まことに手に及《お》えん奴らでね」  といって息を切った。 「上総下総辺を追っ払われた浪人共が、ほら、いつか能勢の妙見で出逢った渡辺兵庫という手無しの奴に引きつれられて四、五人も一度にやって来たら、これを頼って次から次と押して来た」 「渡辺兵庫だと?」 「うむ」 「あ奴め」  といって小吉は眉を寄せた。  房総には旗本の知行所が多く、殿様は江戸にいるし、代官は微力だ。この隙にばくちがまるで大っぴらである。その上、鹿島香取の社人を中心に昔から剣術の盛んな土地だから、得態の知れない喰詰者が入込んで来て、表向きは武者修行、内実はばくち打ちの親分へ草鞋をぬいでは、碌なことをしない。  これがあまりひどくなって来たので、勘定奉行支配方から達しが出て、一斉に浪人の追っ払いになった。道場を建てても百姓町人には教えてならない、浪人がやって来ても逗留をさせては相成らぬという。 「渡辺をはじめ、みんなおのしにやられたことのある奴らだ。だからどうしてもおのしに仕返しをするという」  隠居はにや/\笑った。顎を撫でて 「そううまく行くかねえ」  と、まるで知らぬ人の噂でもするような顔をした。 「それはまあ寝言みたようなことだからいゝがね。あの柳島の家にごろ/\ごろ/\酒の空徳利を枕にしてねているというような始末で、銭がないから、女を買いに行く事も出来ない。いつ、不意に清明に飛びかゝって来るかも知れないのだよ。どいつもこ奴もじろりと清明を見る眼つきは、まるで色餓鬼の形相でね。わしは夜もねむられん。少々金を工面して来て酒でも馳走しようと、うまく云いくるめて逃げ出して来たのよ」 「それは心配な事だ」 「まことに然様《さよう》だ」  小吉は笑って 「御隠居、清明をつれて、わたしと一緒に柳島へ帰りましょう」 「えーっ。な、な、何んだと」 「殿村南平一人を置いてけ堀はまことに可哀そうだ」  あれは男だから心配ない。あんな危険千万なところへ、こっちからわざ/\出て行く手はないだろうと、隠居は頻りに反対するが、小吉は、無理に仕度をさせて、ぐい/\手首をつかんで引っ張って外へ出た時は、もう、だいぶ夜が更けていた。隠居の手はぶよ/\して、本当に脚がもつれて重いものを曳いているような気持だった。  隠居は、うしろにいる清明へ 「これよ、お前、わしのこっちの手をしっかり握っていなさい。勝さんがついていれば大丈夫だが、何処からどんな悪い男が飛出して来るかも知れないよ」 「あい」  清明はうしろへ延ばした隠居の右手へしっかりとつかまって、からだをくっつけるようにしている。  小吉は、ちらりと振向いて 「ふッ/\/\/\」  思わずこみ上げて笑って終った。 「な、な、何にがおかしい」 「いや何んでもない」  小吉はこうした時の隠居を、妙にこう憎んだり、さげすんだりする気にはなれなかった。それがどうしてだかは、自分にもわからなかった。さっきもそうだ。隠居は屋敷を出る時に、奥様《おまえさま》の方へやっていって 「では、行って来るよ」  とにこ/\して頭を下げた。奥様がまた 「お静かに」  と手をついた。 「ふッ/\/\/\」  小吉はそれを思い出してまた笑った。 「何にがおかしいのだ」 「いや何んでもない」  星がすうーっと大きく流れた。  柳島の梅林の殿村南平の家が近くなると、清明は 「御隠居様、危ないことではござりませぬか」  と、耳へさゝやいた。 「これッ」  と隠居は 「お前はどうして、そうわからぬ。わしが事は江雪様と云え。御隠居というてはならぬとあれ程聞かせてあるに、また、云うか」 「はい。すみませぬ事を申して終いました」 「気をつけなされ」 「はい」  殿村の住居はまだ明々と行燈がついて、一つの窓に、月代を延ばした侍風の影法師が二つ並んで大きく映っている。 「ね、江雪様」  と、清明はまた低い声で囁いた。  隠居は 「心配する事はない。勝さんがついている」  といった。小吉はにこ/\して 「わたしが呼ぶまで、この辺で待っているが無事かも知れないねえ」 「そうか。清明が心配するから、そうさせて貰おうか」 「それがいゝ」  小吉はもう家の方へ歩いていた。  清明は、隠居の手をひいて、そこからまた少しうしろの畑道へ退き戻った。そして野菜をまいて風よけに藁の垣根をしてあるところを見つけて 「こちらにお出でなされませ」  といった。 「うむ」  隠居もそこへ寄って、どっかりと地べたへ腰を落した。 「そ、それではお召物がよごれます」 「といっても、わしは肥っている。一つところにじっとしゃがんでは居れぬわ」  清明はうなずいて 「よろしゅう御座ります。後程すゝぎ洗いに致しましょう」  といった。隠居はうなずいた。が、眼はじっと家の方を射て、息を凝らすように肩を張っている。  小吉は、ぬうーっと殿村の土間へ入って行った。 「おや、これあ、むごくお客だねえ」 「あ、か、か、勝様」  奥の方から殿村が転がるように出て来た。泣きっ面《つら》であった。 「何んの客だえ。大護摩かえ。お前の祈祷は駄目だにねえ」 「いゝえ、いゝえ。あ、あの」  小吉は、そこにいる浪人の一人々々を、妙にこう丁寧に見て行った。 「はっ/\は。違った/\」  と笑って 「これあ、武者修業などと云いふらし実は破落戸《ごろつき》の上前をはねて廻る人達だねえ。おれもこの間、狐ばくちの用心棒に行ったが、あすこにいる者あ、みんな臭せえよ、ばくち場の匂いというは臭せえものだ。この人達あ、その匂いがしているねえ」 「何、何んだとッ?」  五人一緒に立上った。もう刀の※[#「木+覇」]へ手をかけている。 「おや喧嘩かえ」  と小吉は草履のまゝ飛上った。  途端に、奥から、また五人、飛出して来た。 「これで、みんなかえ。もう一人いるだろう」  と奥をすかし見た。  護摩壇の横に、渡辺兵庫が、朱鞘の刀を抱いて、大きな眼で鏡をかけたようにこっちを睨んでいる。痩せた肩が上ったり下ったりしている。能勢の妙見で見た時よりはまたぐんと細って頬骨は高く眼が底深く引っ込んで唇に血の気もないし、膚の色もどす黒い。 「勝小吉だ。どうだ、お前ら、おれに恨みがある筈だ。尤もおれが方では恨まれる覚えはねえと思うがね。おう、渡辺先生、みんな気負っているよ、お前さん、坐っているはねえだろう」  渡辺はやおら立ち上った。と同時に、二、三度、つゞけて軽い咳をした。小吉は一寸首を傾《かし》げた。 「病気かえ」  兵庫は無言で、畳をするような足つきで小吉の真っ正面から近寄って来た。左右にわかれて前にいた十人が一人、二人、三人と、抜刀した。下段のもの、星眼のもの、尤もらしく|だらり《ヽヽヽ》と切っ先きを下げたもの。これへ行燈や裸蝋燭がめら/\と映って、虹が立っている。  じり/\と小吉へ爪先きがほんの目に見えない位ずつ近づいて来た。 「か、か、勝先生」  殿村が堪らないか、そう叫んだ。 「危ない」  と小吉は 「外へ出ていろ」  と叱りつけた。その声は腹へこたえるようであった。 「あ、あなた、危ない。あちらへ行ってはなりませぬ」  隠居もまた畑の方で突立って、殿村の家へ行こうとするのを、清明がうしろから抱くようにして押さえている。 「内へは入らぬ、こちらから覗くだけだ」 「いゝえ、それでも危のうござります」 「隠居はしても岡野江雪、一人位は斬れるだろう」 「いゝえ、なりませぬ。こ、こ、江雪様に万一の事がございましたらこの清明はどうなります」 「そ、そ、それは」 「可哀そうではござりませぬか」 「いゝや、そのような取越苦労はするな。とにかく、おれは見て来る」  家へ近づいたところへ、殿村がころがり出て来た。 「危ない、か、か、勝様が危ない」 「え? ほ、ほ、ほんとに危ないか」 「十一人を対手だ。みんな刀をぬいた」  清明は、隠居の肥ったお腹へ顔をくっつけるようにして、前から力一ぱい抱きついた。 「い、い、行ってはなりませぬ」 「こ、これ放せ、放せというに——いゝえ、困った女子《おなご》だ」  兵庫は、じり/\と小吉の前へ出て来た。 「勝、みんなお前のために江戸に居れなくなった男だ。おれは違う、おれは江戸が嫌やになったから出て行っただけだ。が、考えて見ると、やっぱりお前に追われたのかも知れない」 「おれが何にをした」 「江戸というところはな、塵芥《ちりあくた》のような奴がみんな塵は塵、芥は芥なりにくらして行くところなのだ。それでいゝのだ。お前はそれを住難くした覚えはないか。この十人が十人お前のために江戸を喰詰めた男だ。お前は恐らく顔も知らぬだろう。知っても知らなくても、お前のために江戸で食えなくなった事に間違いはない」 「馬鹿奴、おのれでおのが身の置きどころを無くし、その尻をおれがところへ持って来やがるかえ。こっちこそいゝ災難だ。がおれを斬る気でいるのなら、さ、斬るがいゝだろう。だが、ちょいと断って置くがねえ、おれは御旗本だよ。お前らのからだを流れているくだらねえ血とおれが血とは、ちいーっとばかり違うんだよ」 「うぬッ!」  左右の丈の高い奴が、うまく呼吸を合せて、さッと双方から斬込んで来た。ちゃちゃーんと音がして、火花が散ったが、その刃の下にはもう勝小吉はいなかった。  ものの五尺も飛びすさったと思うと、さっと稲妻のように自慢の国重を抜き放って、しかもこれをずばりと畳へ突立て、そのうしろに膝がしらをぴったり揃えて刻んだ石像のようにゆるぎない姿で坐っていた。 「ほーら見ろえ、うぬらで勝手に怪我をしやがった。一人は鼻が斬れてるじゃあねえか」  とせゝら笑って 「お、渡辺兵庫、さ、おれが斬れるなら斬って御覧な。斬れなかったら諦めて、みんなをつれて、今夜の中にここを出ろ、いや、江戸を出るのだ」  渡辺は頻りに頬を痙攣《けいれん》させている。眼がすわって鼻筋が雪のように真っ白くなっていた。がたがた小さくふるえているようである。  しかし、二、三歩、やっぱり足を畳へするようにして出て来ると、間合を計って朱鞘からはじめてすうーっと抜いた。きらっと光った。小吉は睨みつけている。静かな呼吸であった。  渡辺は、片手だ。一旦抜き下げた刀を一歩程また出て、今度は、徐々に宙を斬るような恰好で上段に構えを変えて行った。   付懸《つけが》け  小吉はにやっとした。  と思ったら兵庫は片手の斜め上段から、急に刀の切っ先きをおろして下段の深い構えに変った。  小吉はまたにやっとした。  そのまま兵庫は動かない。動かないどころか目ばたき一つしない。呼吸をしているのさえわからない。  勝手でぽたり/\と何処からか甕へ水の落ちるのが、不気味に大きく響いて来た。  兵庫の顔色が蒼ざめて、顔一面がてか/\と脂ぎって来るのと共に、ぷつり/\と一粒ずつ響きをたてるように汗が吹出した。  畳へ突立っている池田鬼神丸国重が時々ゆらめく蝋燭の焔にまるで動いているし、殿村南平は腰をぬかした恰好で腕を左右に畳へついてやっと慄えを支えている。  ずいぶん長い刻《とき》が経ったような気だ。立っていた兵庫が出しぬけにふら/\っと崩れかけた。 「駄目だ、おれは斬れない。おれはもう駄目だ」  そう云うと、力なく歩き出して、抜刀を下げたまゝふり返って 「勝、もう二度と逢わん」  そのまゝ外へ出て行って終った。浪人達も上気した眼をうろ/\させて、あわててその後について行った。 「おい、お待ち」  と小吉は立ち乍ら、畳へ突刺した国重をぬくと同時に、目にも見えぬ早業で鞘へ納めた。ぴしッと鋭い鍔鳴りがした。 「心ばかりの餞別を差上げる」  紙入から小粒を出して、ふところ紙へひねると、一番後のひょろ/\した浪人の片手をぐっとつかんだ。対手は何にをされるかと、ぎょっとしてがた/\がた/\慄えていた。 「渡辺さんに伝えよ。もう剣術はお止めなさいとな」 「な、な、何?」 「慄え乍ら空威張りをするはお止し。渡辺さんはな、今おれに向かった先きの斜め上段はこのおれとかつて男谷道場で相対した時のあの構えだ。二度目に下段に変ったが、あれは弥勒寺《みろくじ》で酒井良佑先生に手首を斬られた時の構えよ。それが——どっちもあの時よりぐんとお落ちなされた。剣術は心の持ち方でこれ程にも違って来るものかと、おれもしみ/″\肝に銘じた——と、おのし、間違わずに先生に云え」 「う、う、う」 「何にを唸るえ。これから先きお前らの行くは所詮は雪のちらつく奥州路より外はねえだろう、寒さに向ってどうやら病気らしい渡辺さんには気の毒だが、大切《たいせつ》にしてお上げ」  浪人達は兵庫を真ん中に、一かたまりになっての闇の中を巻くようにして去った。一人遅れたのが、やっと小吉の手をはなされて、あわをくって前倒《のめ》るようにこれを追って行く。 「勝さん、あ奴ら一たまりもなかったねえ」  隠居が、清明としっかり手をとって、真っ暗な中から出しぬけにあらわれた。 「危ないから寄るなと申したに」 「隠居はしてもおれも侍よ」  そういう江雪へ小吉はへら/\笑った。 「助太刀をしてくれる気だったのかねえ」 「はっ/\/\/\」 「あ奴らは、もう二度とこゝへは来ないから安心よ」 「だが、また何処かで悪さをするなあ、きっと」 「そうだねえ。浪人は何にかしなくては喰って行けない。さて何にをしようにも道はないとなれば、所詮あんな事になる。近頃御政道が唯臭いものに蓋の有様で、余り貧しすぎるからねえ」 「お負けに何にもかも賄賂でなあ」 「そんな事はもうあたしらの知った事ではないよ。が、隠居、あなた顔色が余り良くない、少々酒をつゝしむがよくはないかえ」 「いや、酒なんぞは余り飲まないよ。飲みたくも殿様から、幾度、使をやってもとんと金が貰えないのでなあ」  小吉はうなずいて 「殿様も滅法ふところは苦しいが、まかない用人の大川丈助というは大そうなやり手らしいから今になんとかなりやんしょうよ」 「さて、どんなものか」  隠居は大きく舌を鳴らした。  清明は、何んだか後が怖いから暫く小吉に泊っていて下さいと頼むが、小吉は 「おれは毎日のように道具市で稼いでおのが借銭をけえしている身だ。一日だって、こんなところにはいられない」  といって、もう、夜明けに間もないという刻限なのに、柳島から帰って行った。 「小普請《むやく》で置くは惜しい男だ」  後で隠居が呟いた。 「怖いものなしとはあゝいうお人の事でございますねえ」  と合槌を打つ清明へ 「曲った事は爪の垢程もなさらぬから怖いものがないのだよ」  殿村が尤もらしい顔をした。 「おや?」  と隠居は 「何処かで誰かもそういったのをきいたような気がするね。お前は何処できいた」 「わたしが行く摩利支天や妙見の講中などは、みんなそう云って居りますよ」  殿村はそういってから 「いやもう今となっては本所深川《ところ》は元より、江戸中でも、あのようにお顔の利く方はありませんね」 「そうだ。曲った事をしないは、わしも同じだが、こっちはとんといけない。はっ/\は」  隠居は如何にも、うれしそうな笑い方をした。  お昼近く小吉は、岡野へやって行った。丈助は煙ったいものが来たような顔をして、何にかしらこそ/\している中に、小吉は奥へ通った。孫一郎が米屋の娘をかえして一寝入りしてたった今起きたところであった。 「殿様、あなたは千五百石の後嗣だ。柳島の隠居の小遣銭位を欠かさないようにしてあげるが本当ではないか」  顔を見詰めて小吉に云われて孫一郎は 「いや、それは心得ている。用人が出来るだけ事欠かさぬように届けている」 「ほう。隠居は貰わぬといっているが」 「そんな事はないでしょう。御番入の日勤の立替金など諸勘定の控を二冊拵えて、一冊はわたしのところへ来ている。まだ仕上《しあげ》勘定はしていないが、悉く用人の才覚で隠居の方も間違いなく行っている筈ですよ」 「ちょいと訊きやんすがね、わたしは御隠居にも、殿様にも、岡野の屋敷の事は宜しくと頼まれている。どうだ、殿様の気持は今も同じか」 「元より変りはない」 「それでは些か御節介かは知らねえが、殿様の手許にあるその勘定控を拝見したい」 「よろしいとも。わたしは、面倒だから、遂ぞあの控は開けて見た事もない。先生が見てくれるとあればこんな有難い事はない」 「殿様は見た事はないのか」 「あゝ、見ても見なくても同じと思い見なかった」 「ふーむ」  と小吉は少し皮肉に 「流石あ千五百石の御大身《ごたいしん》だ。違ったものだねえ」  にや/\笑って 「勝が家は小高《こだか》だから、銭勘定はよくわかる」  そう云ったが、内心では、とはいうが、おれも実は怪しいもんだよ、とひとりでおかしかった。  孫一郎がくだらない黄表紙などを取散らかしてあるあっちを探し、こっちを探し、その辺をいっそうひどく探したが 「無いねえ」  と首をふった。 「一昨日《おととい》は確かにあったが」  それからまた暫く探したが、結局は何処にもない。その様子をじっと見ていた小吉が 「無いかも知れねえ」  といって、間をおいて 「用人をよんで訊いて見なさい」  とちょいときつい顔をした。  大川丈助をよんだ。 「勘定の手控がここへ来ていたのう。無いが、知らぬか」 「はい。差上げてあるものには、わたくし奴は手もふれませぬ。あれをお無くしなされては後々困りますで御座います」 「そうかは知らぬが、無い。でも、お前のところに確と書留めたものがあるのだろう」 「はい。それは御座います。が、殿様のお手許のは、一々、収支にお許しをいたゞいた証拠になりますもので」 「いや、わかりさえすれば宜しいのだ。勝先生が見たいとおっしゃる、お前の手許にあるをお目にかけてくれ」 「はあ、それはお安い事ですが——勝様、こちらへ持参仕りましょうか」  丈助は落着き払っている。小吉は睨んで 「持って来い」  といった。丈助が立去ると 「殿様、困った事になったねえ」 「え?」 「勘定控が用人の手許のものが一冊だけでは、どう付懸《つけが》けをされて見ても、こっちが、|ぐう《ヽヽ》とも云えねえよ」 「ま、真逆、あの用人が付懸けなど——」 「殿様や御隠居のようないゝ人ばかりだと、世の中に喧嘩も騒動もねえのだがねえ」  孫一郎は目をぱち/\して黙った。  用人が帳簿を持って、如何にも狡そうな目つきで、気配をうかゞい乍ら入って来て、そっと小吉の前へ押し出した。  小吉はそれを引寄せると、膝へのせて、ぱら/\とめくった。 「こっちに控《ひけ》えがねえのだから、見ても見なくも同じだが、勘定仕上はいくらになってるのだ」 「はい。少々気がかりで先程一寸仕上げて見ましたところわたくし奴の御立替金が三百三十九両に相成って居ります」 「えーっ?」  孫一郎が突拍子もない大声で叫んでぐうーっと反《そ》るような恰好をした。 「さ、さ、三百三十九両だと? これ、愚かを申せ。間違いであろう」 「殿様、そのような事を仰せられましては、わたくし奴が当惑を仕ります。殿様お手許のお控さえあれば一目瞭然なのでござりますが」  しゃべり乍ら大川はちらッ/\と上目遣いに小吉を見る。小吉はじっと見すえて、低い声で 「それはお前の総〆だろうが、付懸けの分を差引いて、本当のところを仕上げて見よ」 「え?」 「付懸けを引けというのよ」 「と、と、飛んでも御座りませぬ。勝様、わたくし奴が付懸けなどと、大それた——それは余りな仰せ方でござります。一々殿様の許へお控を差上げて御許しをいたゞいて居りますので」 「おい」  と小吉は気味悪くにやっとした。 「大川丈助、人を盲目《めくら》にするもいゝ加減にしねえか。この屋敷で瞬く間に、そんな大金が何処へ要ったのだ。柳島の御隠居がところの小遣銭せえ不自由というに、お、付懸けはありませんなどと——勝はな、小高もんだ、銭勘定は細けえのだ」 「御無態を仰せられます。いかに先生でも、それは我慢のならぬお言葉でござります。御手許のお控とつけ合せ下されば、御納得が参りましょう」 「ふん、見え透いた馬鹿な事をしやがるわ。お、ある屋敷にこういう話がある、話してやるから、もっとこっちへ寄ってよっく聞け」  大川はほんとに一膝前へにじり出た。だが顔は真っ蒼だ。 「聞けとおっしゃれば、何んでも謹しんでお伺い申します。が、このわたくしに莫大な立替金を仰せつけなされた末に、付懸けなどと因縁をおつけなさる。如何に土地《ところ》でお顔のお広い勝先生でも聞捨てにはなりませぬ。天下に無法は通りませぬ。御支配もあれば御奉行様もお出でなさる」 「まあ黙って聞け。いゝか、ある屋敷の用人が帳簿を二冊拵えてな、一冊を殿様へ上げ、この方はちゃんと書いて置き、自分の手許にある奴には、さんざ出鱈放題の付懸けをして、頃を計って一芝居打った。その殿様は日夜酒に浸って、しかも滅法な女好きだ。近所の米屋か何んかの娘を引きずり込んで腑抜《ふぬ》け見たいになってね、正体もなく寝込んでいる隙に、その用人と娘がぐるで差上げてある手控をそっと盗み出して焼いて終った」 「えーっ?」 「お、大川、証拠の控はなくなったじゃあねえか。しかも、その女ってのあ、用人とは縁つゞき。素人女だが、あばずれだとよ。え、お前、これをどう思うえ。もそっと近く寄れよ、え、もそっとよ」  大川丈助の膝が慄え出して来た。孫一郎はあっけにとられて、まじ/\と代り番こに二人を見ている。   宅番《たくばん》  小吉は、からかい面《づら》で刀を膝脇へ寄せた。 「お前がことを云っているんではないよ。こんな事もあったという譬話だ、が大川、如何にしてもこの屋敷で、ちょいとの間に三百三十九両とは多過ぎたね」  大川は今度は真っ赤になって来た。息をはずませて 「先生」  と脳天から絞るような声を出した。が途端に 「よっくまあつもっても見よ、この金は多過ぎはしねえか」  と押しかぶせた。大川はごくッと唾を呑んだ。そしてじいーっと小吉を見詰めていたが、一膝前へ出た。 「先生、あなたのお言葉はどうしても、わたくしが付懸けをしているというように聞こえますが、それならそれで確かな証拠を出して下され、さんざお金を立替させた上に、難癖をつけようというのは御旗本様のなされ方では御座いますまい。まるで破落戸だ。殿様、殿様からも先生へ仰せいたゞき度うございます」 「いやあ」  と孫一郎は頭をかゝえて 「わしは何にもわからぬ、勝さんと話をしてくれ」  とそっぽを向いた。 「そんならそれで、もう宜しゅうございます。斯くなりましてはわたくしも男でございます。どのような事をしてでも三百三十九両は一文残らず御返済をいたゞきます。然様思召し下さい」 「よし」  と小吉は 「お前と喧嘩をするも面白かろう」  腹をゆすって笑った。 「その代り申して置きますが、立替金は証文に書きかえていたゞくか、さもなければ本日から取立を致します。よろしゅうございますな」  低い声でいう大川は今迄とは違って、俄かに勝ちほこったような皮肉が溢れていた。  そして大川はつと立って、一度、態《ざま》を見ろというような眼つきを投げて、帳簿を小脇にどんどんと座敷を出て行って終った。 「大した奴だ」  と小吉ははじめて感じ入ったようにひとり言をいって 「どうだ殿様、三百三十九両、半分位は本当に借りられたか」  孫一郎は一体いくら立替させたのか借入れたのか雲をつかむような事ばかりいってはっきりしたところがまるでわからない。が、どっち道、そんなに立替させてはいないように思うという。 「当たり前だよ」  と小吉は少し本気で孫一郎に腹が立って、自分の屋敷へ帰ってもごろりと寝ころんで考えていた。 「如何なさいました」  お信は小夜着をかけてやり乍らそういうと 「おれも今度は大層困った。喧嘩が金勘定なのでねえ」 「おもしろう御座いましょう」 「馬鹿奴。何にが面白いものか。おれは、今度はあの大川丈助というにやられるよ。大した奴だ」 「珍らしくお弱うござりますねえ」  小吉が黙っていると思ったら、いつの間にか眠っていた。  次の日。もうお昼に近かったが孫一郎があわてて玄関からやって来た。 「勝さん、丈助は本家の岡野出羽守の屋敷へ行って帳簿を出して立替金をお返し下さらんで困ると訴えたそうだ」 「そうか」  と小吉は頭を叩いて 「これあ、意外にうるさいね」 「もし、こちらで埒があかなければ御支配御老中まで持出すといっていたという」 「まあいゝよ。こうなったら、もう、じっとしてあ奴の出方を見ているより法はないよ。狐か狸か、化け方によって考えるまでのことだ」 「それはそれとして、ゆうべから、女がぱったり来ない」 「米屋の娘か」 「そう」 「来ねえなら投《ほう》って置きなさい」 「お、おのしはそう手軽にいうが」 「では、どうしようというのだね」 「どうしようという事もないがねえ」  一度孫一郎を追い帰してほっとしていたらまたすぐやって来て 「丈助が来てうるさく云う。勝さん、頼む」  という。  行って見たら、羽織袴で、帳簿を包んだらしいものを横へ置いて玄関に坐っている。 「御本家へ伺ってお話を申上げたが、確《しか》とした御返答がござりませぬ。この上は、御支配御老中太田備後守様までお訴えいたします。念の為参上しました」  という。小吉は首をふって 「岡野が屋敷は付懸けの銭を払う程有福ではねえんだ。何処へ出るなと、お前、好きにおし」 「では——」  丈助はすっと立つと、無造作に帰って行った。小吉は一度、呼戻そうとしたらしかったが、苦笑して黙った。 「勝さん、どうしよう」  孫一郎は青くなっている。 「あ奴にそこ迄の度胸はないだろう。やったところで御老中がお取上げはなさるまい」 「そうだろうか」 「御用繁多だ、こんな馬鹿な事にかゝり合っては居れまい」  が、こう多寡をくゝった小吉が、丈助が老中へお駕訴をしたときいて、びっくりしたのは丁度、道具市にいた時だった。 「世話焼さん、この一件はやっぱりおれが負けかねえ」  と笑って頭を掻いた。 「へっ/\/\へ。勝様のお負けなさるもまことに面白うござりますが、そうおさせ申しては土地《ところ》の者の顔がまるつぶれに成りますねえ」 「いやあ、あ奴がような悪智慧の立つはおれも潔よく兜《かぶと》をぬぐ。降参するよ」 「それはまだお早うございますよ。所詮は丈助は岡野様のお屋敷へお預けになって、御頭の遠山安芸守様から御役付が御出張でお調べがありましょう。それで丈助が悪事は露顕いたします」 「いや先ず駄目だろう。第一岡野へお預けとなれば宅番《たくばん》をつけねばならぬ。岡野にはその費用《かかり》の銭がないから困るだけだ」 「お金は出来ましょう。市へ来ている土地《ところ》の者はみなこういう事は飯より好きでございますよ」 「それは有難いが、何んといっても岡野の殿様というが至極の馬鹿だ。前の用人とぐるになっておれに地退ちをさせようとしたり、あゝして平川右金吾を用人にしてやれば、すぐに居れないようにする。まことを云えばおれも腹は立つのだが、隠居の江雪にも頼まれるし、第一、お屋敷にいて唯一人何んにもおっしゃらずに苦しんでいらっしゃる奥様《おまえさま》にお気の毒でこんな事はやるものの、お前さんらに迄、迷惑を掛けては気が済まないよ」 「何にをまあおっしゃいます。その大川という用人の悪智慧が勝つか、曲った事は大の嫌いという土地《ところ》の者の力が勝つか、勝様一つ、|とことん《ヽヽヽヽ》迄やって見ようでは御座りませぬか」 「はっ/\は。やるかあ」 「やりましょう」  二、三日して、雨のしょぼ/\降る中を、丈助は頭の遠山安芸守からの通達で、岡野家へ宅番お預けになって送られて来た。  岡野の一部屋を仮牢の拵えにして、みんな小吉の息のかゝっている剣術遣いが五人、腕を組んでちゃんと用意をして待っているのを見て、真逆にこゝ迄先きの手順はついていまいと思っていた丈助も流石にぎょっとした。剣術遣いの頭株は東間陳助だ。  宅番となると何しろ出入りの者の食事や何にやかやひどく金がかゝる。この騒動でその日その日を忙がわしく過している中に、一度白粉のような薄雪がさらっと降った日があった。  この間に、丈助は二度も宅番の隙をぬすんで逃げ出しては、太田備後守へ御駕訴をした。土地《ところ》の者がみんな集ってこれを厳重にすると今度は押上村に住んでいる丈助の女房が二度もつゞけて御駕訴をした。  いろんな役人が岡野へ出張して調べるが、どうして/\、これこそ全くの小吉の見込違いで、丈助は文字も深いし、悪智慧が先きから先きに廻る上に弁舌も誠にてきぱきとした達者だ、お負けに公事訴訟は驚く程に明るいし、たった一つよりない証拠の帳簿は、ちゃんと自分で抱いているので、いゝ加減な付懸けとわかっていても、調べの役人が歯が立たないどころか来る者/\片っ端からおもちゃにされる。  或時、張番の東間陳助がそれをきいていて腹が立ってとう/\我慢がしきれなくなって丈助を斬ろうとして、役人に叱られた。真っ赤な顔をして、ぽろ/\泣き乍ら、道具市へ来て小吉に口惜しがって訴えた。 「隙を見てあ奴を斬って、わたしは切腹いたします。どうぞ許して下さい」 「馬鹿奴、あんな狐か狸か知れねえような奴と心中をしてなるか。もう少しの辛抱だ、いつの世にも正が邪に負けるというはねえ事だ」 「しかし、出張の役人は、誰方もまるで大川の退屈凌ぎになりに来るようなものです。あ奴は事を大きくすればする程、自分の利益《とく》になるという腹だから、何処まで行っても際限はない。先生、わたしはあ奴を斬ります」 「斬ってはいよ/\こっちの敗けがはっきりするよ。お、東間、斬るならおれが斬る。それ迄待て」 「あ奴一人のために御頭《おかしら》の遠山安芸守様、本多日向守様など俄かの病気|引籠《ひきこもり》でもう避けていらっしゃる。口頭の弁ではとても公事の明るいあ奴には歯も立たないのです。先生、斬らせて下さい」 「よし。それならおれが今夜斬ってやる。おのしは、後学の為め、おれが人を斬るのを見よ」 「え?」  その晩、小吉が岡野の屋敷へやって来た。東間をはじめ五人の侍の外に、御支配から二人|御張衆《おはりしゆう》が出張している。  行灯を座敷のこっちへ置いて、この七人の影が黒く、丈助の坐っている方の畳へ映っている。  ひどく寒かった。小吉は、こっちへ立って 「これあ、また雪だね」  ひとり言にそういって、つか/\と丈助へ近づいて行った。  犬が吠えている。  小吉は立ったまゝで、じっと丈助を見詰めた。丈助は、ふゝンと鼻先で笑うような表情だが、鋭い眼を、小吉の手許から離さない。  小吉は急に笑い出した。 「丈助、宅番は詰らなさそうだね。お前、金を貸したというに、こんな牢屋住居のような事は理に合わないな。侍は勝手だねえ」  といった。 「余り嫌やんなって東間はお前を斬って切腹するというがねえ。馬鹿だねえ」  丈助は口をきかない。への字に曲げてじろッと小吉を見上げたりした。 「寒いから、風邪をひかねえように気をおつけ。三百三十九両、とらなくちゃあ死切れまいから」  小吉はそのまゝで、くるりと踵をかえして帰りかけた。東間があわてて追いすがって 「せ、先生、お斬りなさいませんか」 「丈助の顔を見ろ。如何にも狡そうな——あれあね、おれがいつも話す秩父屋三九郎なんてものじゃあないよ。秩父屋でせえあの通りだ。丈助は放って置いても、天罰で死ぬよ。おれは顔を見た途端に嫌やになった」 「そんな事をいっても」 「おい、斬っちゃあいけないよ、あんな獣のような奴を斬るのは余り馬鹿々々しい。あれでも表べは人間だからねえ」  そのまゝ帰って終った。今日はどんな事になるかと思って内心ははら/\していた東間をはじめ、みんな狐につまゝれたような顔をして、あっけに取られて見送った。  その夜更けからまた雪で、朝になったら、真っ白に積っていた。  麟太郎はいつものように早く出て行った。これを玄関へ送って、こっちへ引返そうとしてお信は、足元がよろ/\っとした。小吉はこっちでこれを見ていて、ぱっと飛上ると、素早く抱えて 「どうしたのだ。こゝのところ余り顔色がよくねえので案じていたが、何処か悪いね」 「いゝえ、何んでもござりませぬ。もう、癒りましてございます」 「そうか」  といったがまた気になって 「やすむがいゝではねえか」  といった。お信は俄かにくす/\笑い出した。 「あなた」 「何んだ」 「|やゝ《ヽヽ》で御座りますよ」 「ほう、子供が出来たかえ」 「そのように御座ります」 「男かねえ」 「ほほゝゝ。それはわかりませぬ」 「麟太郎がひとり切りかと思ったが、同腹《きようだい》が出来るたあ、いゝね。いつ生れるえ」 「さあ、五月ででも御座りましょうか」 「男だね、それじゃあ」 「ほほゝゝ。端午のお節句とはかゝわり合はございませんで御座りましょう」 「はっ/\。そうかねえ」  雪の中を道具市へ行く時に、三ツ目通りの四つ辻で珍らしくぱったり彦四郎と精一郎が家来をつれてやって来るのと出逢った。  小吉はこの日は、羅紗の羽織を着ていた。   羅紗羽織  小吉は、嫌やなところで兄上に逢ったものだと思ったが、咄嗟のことでどうも出来ない。立停って鄭重に礼をした。  彦四郎はいつものように深く眉を寄せ、殊に鼻から頬へかけての深い皺が、彫《きざ》んだようにくっきりして、息を詰めて小吉を睨みながら 「こら、小吉、不埒千万、もういゝ加減にせぬか」  と出しぬけに怒鳴りつけた。 「は?」 「みんな聞いた。山之宿の仮宅女郎屋の喧嘩はまだしも、切見世などというに出入して、世にも不浄な女共の生血を吸っているとな」 「飛んでもないこと——」 「まだ聞いた。古道具市に入りびたり、侍を笠に小商人共の利鞘をそぎ、その上狐ばくちとやらの用心棒もするそうだ。世に爪はじきの無頼者《やくざもの》でも、お前がように子供が物心つく頃には、自然に正道へ戻るという。それに何んだ、お前は」 「違います兄上」 「何にが違う」 「小普請ながら小吉も旗本、切見世の女どもの血を吸うの、小商人の利鞘をそぐのと聞捨てならぬお言葉です。如何にも切見世には悪徒共を取鎮めに行った、道具市には刀の利鈍を鑑定《めきき》に参る。貧乏御家人のくらしの足し前をしているので悪い事だとは思って居りません」 「何? 尻から剥げるような嘘をつくな。それ程くらしが困るならその羽織は何んだ、羅紗の羽織など贅沢至極だ」  精一郎は、中へ割って入るようにして 「御父上、こゝは往来、人通りがございます。何れまた改めての事になされましては如何でしょう」 「いや、こ奴、どれ程われらに恥をかゝせるか程が知れぬ。わしは昨日も御城で同役から、御舎弟は本所深川では随一のお顔だそうでなどと云われた」 「しかし、叔父上にはまた叔父上のお立場もございます事です」  そういう精一郎を押しのけて、彦四郎はまた怒鳴りつけた。 「羅紗の羽織を着ながら、貧乏ぐらしなどとわざとわしに当てつけがましく、何んだ」 「御兄上」  と小吉は、精一郎の方へは、心配しなくともいゝよというようなものを見せて 「わたくしは小高故、ふだんの身装《みなり》が悪いと何にかと融通がつきません、余儀なく着歩いているのです」 「黙れッ! おれに向って口答をするのか。親類の中に誰一人おれが云う事を返す者はないに、お前一人が刃向うは不埒な奴だ。今一言云って見ろ、手は見せぬぞ」  彦四郎は両脚を少し開いて、刀の|※[#「木+覇」]《つか》へ手をかけた。  小吉は黙って彦四郎を見ている。少々逢わぬ間に、ずいぶん老けられたなあ。お目のふちに隈《くま》が顕れ、お顔全体に、やゝむくみの気味もある、痛ましい。そう思った。 「お言葉を返しましたはわたくしが悪うございました。お詫いたします」  彦四郎は忽ちたった今の物凄い剣幕ががた/\と崩れるようにすぐに刀の※[#「木+覇」]から手を放して、まるで別人になったような恰好で、少し傍へ寄った。 「お前が事ばかりではないぞ。あの麟太郎、お前がような父の傍においては、後々が案じられる。おれは、あれを手近く置く事は出来なかったが、恥しいと思っている。しかし精一郎なら大丈夫だ。今日からでも精一郎の道場へ置け」 「は?」 「くどくも云うが断じてお前の側へ置いてはならんぞ。いゝか。麟太郎は男谷道場に置くのだ。お前は、人の世の恥をかきつゞけて死ぬだろうが、麟太郎にその飛ばっちりをくわせてはならぬ」 「は」  彦四郎はそう云うと、急に精一郎へ向って 「時刻におくれては失礼。さ、参る」  精一郎はにこっとして低い声で 「叔父上、麟太郎はもうお手許をはなされても心配はありませんよ」  云い残すと、彦四郎の後について行って終った。  小吉はそこに立って、二人のうしろ姿を見送っていた。彦四郎の肩は落ちて、何にかしら、気力もひどく衰えたように感じられる。  小吉はそのまゝ自分の屋敷へ引返して来た。 「お信」  といって、まじ/\と顔を見乍ら、今の兄や精一郎の話をした。 「また子が生れると、お前も何にやかと苦労だ。麟太郎は兄が云うを幸えに精一郎がところへ頼むがいゝかも知れぬなあ」 「わたくしはまた子が生れて苦労故にお頼みするなどという気持は少しもござりませぬ。麟太郎の為めに、いゝ事なればどのような事でも辛抱を致します」 「精一郎はおれがように剣術の外に取りどころのねえ男とは違い、いゝ」 「麟太郎が立戻りましたなら訊いて見る事に致しましょう。この屋敷も、もろ/\の不浄がやゝともすればあの子の耳に入り勝ちでござります。昨夜も、お父上は今度は岡野の事では余っ程困っていらっしゃるようだ、あれは勝先生の敗けだとみな/\申しているなどとわたくしに話して居りました」 「そうか」  お信はうつ向いた顔を上げて、急に 「あなた、精一郎どのへお頼み申しましょう」  といった。  道具市にいた小吉へ、岡野の本家岡野出羽守のところから、わざ/\駕で鄭重な口上で迎えに来たのは、やっぱりその日の夕方であった。いゝ塩梅に、寒さが少し薄らいで来ていた。  麹町三軒家の出羽守の屋敷の広間へ通されて流石の小吉もびっくりした。出羽守をはじめ孫一郎の支配頭の遠山安芸守もいるし、丈助事件を持て余して病気引籠中の本多日向守もいて、みんな弱り切った顔をしていた。  小吉は出羽守には三、四度逢っている。三千石の大身に似ず、よくさばけた、丸顔な肥った色の白い人だ。 「勝さん、どうも弱った」 「は。丈助がまた何にかやりましたか」 「いやもう、やりましたどころではない、今度は女房が御老中へ御駕訴をした」 「はあ、はっ/\/\、なか/\しつこくやりますな」 「笑い事ではないんだ。この度の一件で大川丈助が宅番となったので住居に残った家内一同が三度の食事も頂戴出来ない。その為めに女房の乳が出なくなった。断乳の御届けを上げてな」 「ふーん」 「三人の子供を宅番になっている間中、孫一郎方に於て引取り養育して貰いたいとの嘆願だ。こう次から次と執念深くやられては堪らぬというて、御張衆も逃げて終うという始末でな」 「子供までからませて来た新手《しんて》には驚きますねえ」 「こんな事でだん/\深間に入って来ると所詮は評定所へ持出す事になるだろう。そうなると嫌やでも千五百石に疵がつく。それで安芸守殿も日向守殿も御配慮でな」 「元々孫一郎殿が酒色にうつゝを抜かし、わたくしの推挙いたした用人を遠ざけるような仕儀からこういう事になったので云わば自業自得と申すものでございましょう」 「そうおのしに投出されては、話に実も蓋も無くなるが、おのしも隠居の江雪とは互に気に入りの仲ときいた。こゝで何にか一ついゝ考えを聞かせてくれぬか」  小吉はにやっとした。 「それはあります」 「あるか」 「は。しかしこの事件は元々金から生じた事故、解決には金が要りますが、あなた様、この金子を孫一郎どのへおつかわし下さいますか」 「金子か?」  出羽守も安芸守、日向守と顔を見合せて眉をしかめた。金子の事となって俄かに難色である。  小吉は肩をゆすって笑った。 「大川丈助は、無智慧のわたくしには荷の勝った大敵で、金無しで掛合は出来ませぬが——」 「さあ、それは」  と出羽守は如何にも閉口の様子だ。 「こゝ迄来て終ってはとてもあの男と握り拳《こぶし》での話はなりません。折角お召をいたゞきましたが、わたくしはこれで失礼を仕ります」  小吉は少し座を退って立ちかけた。 「いや、勝さん、待ってくれ。金を出さんとは云わぬが」 「ではお出し下さいますか」  出羽守はしかめッ面をして、如何にも忌々しいというようにちょっと横を向き乍ら 「出そう」  といった。 「然様でございますか。そう御決心がおつきになれば、わたくしには、また考えもあります。唯、こゝで所望いたしたいは、わたくしに一切をお任せ下さる上は、如何様の仕儀となるも口出しはしないと、御親類総代として一札を頂戴仕りたい」 「うむ」  出羽守の渋い顔を見て、日向守が 「勝さん、おのしは本所深川で知られている義の篤い人だ。出羽守殿も見す/\知れた分家の放蕩の尻拭いは、誠に武家として心よろしくないは当然、唯、家門の恥辱を外々へ晒したくないから、こんな事をやっているのだ、この辺の事を確と斟酌していたゞきたいが」  と口を入れた。 「それはどういう事ですか、やっぱり金は出したくないというのでございますか。何、出したくないというなら一文も出さなくともよろしい。立替金をすっかり払って済ませるか、一文も出さずに納めるか。そのお気持を予め伺って置きたいから、一切御委任の一札をいたゞきたいと申すのです」 「いや、これはわたしが悪かった」  と日向守は頭を下げて 「余計な差出口をして終うた。たゞ、そう思うただけで他意はないのだから、忘れてくれ」  といった。 「皆さまにその御決心が早くつけば、丈助風情にこんなに恥もかゝされず、また宅番などと余計な費《ついえ》をしなくもよかった。しかし出羽守様、御安心なさいまし。勝小吉は小高ものでございますから、三百三十九両などときいただけでも目を廻すのです。御損をかけぬようにやりましょう」 「頼む。実にどうもあの分家は困ったものでなあ」  考えるとそれも尤もな話である。小吉はそう思いながらまた駕で送られた。  しかし駕の中で頬をふくらましてそれをぴしゃ/\叩き乍ら 「三百両や四百両、渋面を作る事あねえじゃあないか。三千石もとんと吝ン坊だわ」  と呟いた。  いつもと同じように東間陳助をはじめ宅番の御張衆がいて、行灯がぽか/\している座敷の奥の方の壁に倚りかかっている大川丈助のところへ、小吉がずか/\と入って行った。  丈助はぎょっとした様子で、坐り直して、腰を浮かせ、いつでも逃げられるような恰好をして、目の色を変えている。 「丈助、なか/\やるじゃあねえか。子供を使っての大芝居には、みんな敗けたわ」  と小吉は、丈助へ顔をくっつけるようにしてどかっと胡坐をかいた。ふり向いて 「おい、東間、刀はそっちへ持って行け。丈助が怖がっている」 「は」  東間がすぐに刀を受取って元のところへ引返した。何あに、いざという時に、ひょいとこっちへ投げて寄こせば、手に取るのを見るか見ない中に丈助の首なんか一たまりもないのだが、先ず気休めのためだ。東間も御張衆も、ゆうべは斬るといっていながら、そのまゝさっさと帰った小吉が、またいつ何にを云い出すかわからないので、多少はら/\している。 「ところで丈助、今夜はちいッと相談だがな」 「な、な、何んでございますか」 「おめえね、この屋敷への立替金をけえして貰えやそれで文句はねえのだろうね——、文句があるならあるで、はっきり云って貰いてえがな」 「金さえ返して貰えば文句はない、が、こうして宅番になって以来、女房子の嘆き、不都合|一方《ひとかた》ではないのだから、元金だけでは引込まれないですね」 「はっ/\/\。無理をいうよ。この屋敷の貧窮がどんな物か、誰よりもお前がよっく知っている。どうだ元金だけで勘弁しろ」 「いやだ」 「じゃあどうしろというんだ」 「詫状を頂戴しましょう。勝小吉という土地《ところ》に顔の利く御旗本が、この大川丈助が付懸けをしたといった。元金をかえした上で、誠に無重宝を申したと一札書いていただきましょう」 「うーむ」 「この上、往来で出逢った時は、きっとそちらから挨拶をなさいまし。この事も書添えて貰わなくては嫌やだ」 「はっ/\/\。丈助、お前は、ほんにやるねえ。いゝともよ、云う通りの証文を書こう。もうお前には頭《あたま》が上がらねえ。考げえて見れあ事件の発端はおれだからねえ」 「その通り」 「正に負けた——だが丈助、も一つ相談があるのだ」   知行所《ちぎようしよ》  小吉は鼻がくっつく程に顔を寄せて行った。丈助は少し逃げようとしたが、うしろが壁で一寸も退れない。 「頼みだよ。怖がる事あねえよ」  といってから 「お前も知ってるようにこの屋敷には勘定控もねえが、それよりもっとねえのが銭だ。そこで相談だ。どうだ。金を渡すは、十二月十九日まで待ってくれねえか」 「え?」 「十九日には間違げえなく渡す。その代り、前金にすぐ十五両渡すよ。勘定済になる間、この屋敷からの扶持は今迄通りちゃんとやらせる。遊んでいて扶持になるじゃあねえか。満更じゃあねえだろう」 「そ、それに間違いありませぬか」 「おい丈助、勝小吉はな、お前がように何処の馬の骨かわからねえ氏も素姓もねえ者とは違うのだ。御旗本だよ。一旦こうと約束をしたからには、間違ってなるものか——はっ/\、おれはとうとうお前のしつこい、しかも滅法|公事《くじ》に詳しいには敗けた、降参だよ。呑込んで承知をしろよ」 「よろしい。それでは十二月十九日を約定に承知をしましょう。その代りすぐに宅番もとく事だろうね」 「してくれといってもするものか、一日々々こっちは大層な物要りだよ。ところでお前、何にか云い忘れていねえか」 「え?」 「約定を違えたらまたすぐ御老中へ御駕訴すると脅かす事だ」 「云わなくとも、こちらは忘れては居りません」 「そうだろうな」  使をやって出羽守から十五両貰って丈助へ渡して直ぐに役所へ届けて宅番を解いた。  小吉は屋敷へ帰って来て顔を見ると 「お信、具合はどうだ」  といった。 「はい、お蔭様で今日は一日大そうこゝろよう御座りました」 「よかったねえ。麟太郎が時は、遂ぞそんな様子もなかったが、今度はお前もくらしの苦労が絶えねえから、知らぬ間にからだが弱っているのだねえ。すまねえなあ」 「ほほゝゝ、あなたはお珍らしい事を仰せられますね」  小吉は、ごろりと肱枕で横になって 「お前、明日、麟太郎を精一郎へつれてお行き。おれは、大川丈助に、さんざぶちのめされて、誰にも彼にも妙に顔を見られるが気まりが悪く、外へ出るはいやだ、剣術よりは余っ程骨身にこたえたわ」 「あなたのせいでもござりますまいに、さようで御座いますかねえ」 「といって引籠ってもいられねえ、これから金の工面をしなくてはならないのだ」  本家の岡野に出させる事に話は定めて来てある。が、所詮は借金になる、今の有様では元より返す的《あて》はないから、このために隠居の江雪も孫一郎も、行く/\大層困る事になる。元々分家の窮状を救うために、出す金ではなく、唯、評定所のさわぎになるのが怖いのと底深い考えもあるに定っている。  孫一郎の千五百石は知行取で村方は武州にもあるし伊豆にも、遠くはなれて摂津にもある。伊豆は近いだけにすでに借上げられるだけ借上げて、百姓はまるで饑饉の苦難だから、この上は一両も取れない。武州と摂津はまだ幾分の余地があると平川右金吾が用人をしていた時にきいた記憶が小吉にある。三百三十九両、何んとしてでもこゝから借上げるようにしなくてはならぬ。 「右金吾がいてくれりゃあなあ」  小吉はそんな事をいった。  ゆうべはお信に麟太郎を精一郎へつれて行けと云いつけていたが、朝になると 「お前、途《みち》でまた気持でも悪くなってはいけねえ。やっぱりおれが行く」  そういって小吉がついて行く事に変った。  お信が小さな鯛の塩焼を、小吉と麟太郎の御膳へつけた。 「麟太郎、うれしいか」 「はい。稽古を励んで一日も早く父上や島田先生をぶちのめすようになりたいのです。その時父上は、ほめて下さいますね」 「あゝ、褒めるとも。おれがお前の草履をなおしてやるわ」 「これが父上母上のお側をはなれて参ります三度目でござりますね」 「はっ/\。そうだなあ。初度《しよど》は御城へ上って青雲を踏みはずし二度目は兄上と喧嘩をして飛んで帰った。はっはっ」 「はい」  麟太郎はうつ向いた。遂いこの間の事だ。やっぱり先生や父上を早くぶちのめすようになりたいといった時に、よし/\とうなずき乍ら眼尻に皺を寄せて溶けるように笑ったあの父の顔が、はっきりと思い出されていた。  寒くて道が悪かった。  小吉は自分で麟太郎の大きな行李を引っ担いでついて行った。道場では精一郎が待っていて 「荷物はこれから門人を運ばせにやるところでした」  と、小吉を見て指さして笑った。 「頼むよ」 「引受けました。が、叔父上、わたしは麟太郎に阿蘭陀も学ばせる所存です」 「阿蘭陀? いゝとも、一切おのしに任せた。おれが子と思わずに、みっちりと仕込んでおくれ。が、男谷彦四郎先生がような年寄りにはならぬようにな。はっ/\は」 「しっ/\」  精一郎は手で制して笑った。  精一郎はこみ上げて来るような微笑を湛えて、その外には何んにも云わなかった。  道場には門人も大勢いる。東間陳助もいた。小吉はこれを側へよんで冗談をいった。 「どうだ東間、あの狐の宅番はいゝ修行になったろう」 「飛んでもございません。いや、もう気が違いそうでありました」 「実はおれもそうだった。人間もあすこ迄しつこく気が廻ると大したものだ。剣をふり廻して威張ってはいるが、おれらなんぞは子供も同然、剣術遣いなどというは、とんと気のいゝものばかりなのだなあ」 「はあ」 「だが、まだ/\後くさりが残っている。またおのしの腕を借りなくてはならねえよ」 「は。何んでも致します」  小吉は精一郎へ向って 「島田虎之助というは、どの仁《じん》だえ」 「今日は参って居ない。何にやら藩侯に召されたとかで」 「よく使うそうだねえ」 「わたくしも及ばぬかも知れませぬな」 「ほう。麟太郎がよく教えて貰うというから一度お礼を申したいと思ってねえ。改めてやって来るも億劫《おつくう》で遂い無精をしていたが、生憎居ねえは残念だ」 「一度伺わせましょうか」 「弟子がおやじのところへ顔を出す男でもないだろう」 「そうかも知れない」  精一郎は、ゆっくりして、みんなの稽古を見て行って呉れといったが、小吉は、そうもしていられない用事がある、東間もまた当分借りたいといって、やがて、東間をつれて二人で道場を出た。  麟太郎は、帰る父へ一寸目礼をしただけで剣術の道具をつけたまゝ道場に立っていた。 「いつの間にか、あ奴もおとなに成りやがった」  と途で東間へいった。 「麟太郎どのは、どうして/\先生、将来は大物になる。男谷先生もいつもそうおっしゃっているが、剣術遣いなどで、まご/\しているような人ではありませんな」 「鳶は鷹を生まねえよう」 「いや、そうではない、先生、麟太郎どのは鷹になる」 「はっ/\、こ奴、おれを鳶にしやがる」 「先生には悪いがこれは本当です」 「こ奴が」  といって、ぴしゃ/\額を叩いて暫く黙ってから 「逆にふっても血も出ない程絞り上げて終ってある岡野の知行所の百姓からこの上三百三十九両、借上げなくちゃあならねえ。おのしに、また一役やって貰う」  東間は不審そうに 「ゆうべのお話では、御本家からというような事でしたが」  と顔を寄せた。 「少々脅かしてな、出させる事にはしてあるが、名代な吝ン坊だ、後がうるさくなる。まご/\すると、孫一郎も詰隠居をさせられて、知行を出羽守に横領されるおそれがあるのだ。役筋の悪い奴にいろ/\繋がりのある人だからな」 「へーえ」 「知行所の百姓には気の毒だが、血も出ないとはいうものの、百姓というは元来が狡猾だ。おれは見事に丈助の狡猾に負けたが、どうしてもその狡猾という奴ともう一遍勝負をして見る気だ。百姓はまだ/\絞れば絞れるだろう。あ奴ら生れつき何んでも隠すから、持っているに相違ないのだ」 「だが、それでは百姓が余り——」 「可哀そうというかえ。おれはね、兄上が代官のときに一緒に信州に行って、あ奴らの狡いはよくよく知っているのよ。江戸のものの狡いなどとは、まるで質《たち》がちがう。と云って別に好き好んで苛めることはねえのだが、今度は自分らの殿様を救うのだといって、恩に着せて借上げてやる」 「どうも驚いた」 「おのし、百姓の出か」 「いゝえ、わたしはそうではないが、縁辺に百姓が沢山いる」 「では、今度はおれに加担をしないか」 「い、いや、いや、例えどんな事があっても先生をはなれる気はない。善悪共にだ」 「はっ/\は。おれをとう/\悪党にしやがるか。借上げるんだよ、奪い取るという話じゃあないのだよ」  それから一寸岡野へ寄った。この騒ぎだというのに孫一郎が相変らず眼やにをつけた寝ぼけ顔で 「勝さんの云う通り武州の知行所の次左衛門という庄屋へ使をやった。明後日は上《あが》って来るでしょう」  といった。 「物のわかる奴だろうね」 「わかるだろう——それにしても勝さん、あの米屋の娘は何度使をやってもいっこう来ないが、わたしは淋しい。何んとかならぬものだろうか」  小吉の眼が光った。ずばっと前へ出た。今にも力一ぱい張り倒しそうに呼吸を詰めたが、俄かに、ふゝンと力をぬいて 「殿様、あなた長生きをするねえ」  といってから 「よし/\、何んとか話してやろう」 「頼む」  小吉と東間は外へ出た。 「隠居の江雪はまだしも、あの男は殴るのも嫌やだ」  地べたへ唾をした。  武州の知行所の庄屋次左衛門はその頃の百姓に似ず、嫌やな掛引などはしないで、小吉の前でずばりといった。 「この上の事はとてもわしらの力では出来ませぬ。借上々々と申されても召上げられるので御座いますから」 「借上金は成崩《なしくず》しに年貢米から差引いたらいゝであろう」 「そのお言葉もこれ迄に何十遍何百遍となく仰せきけられ、唯の一同もお履みなされた事はござりません」  小吉は頭をかいて笑った。 「そうであろうな。尤もだ——が、今度の入要《にゆうよう》は御家の大事にかゝっている。おれは唯地借人というだけで、こうして命がけで骨を折っているのだ。お前、これを如何に見るか」 「あなた様に然様に仰せられましてもわたしら共はなあ」  小吉はきしッと居ずまいを直した。 「勝小吉が頼むのだ。今度の事は岡野孫一郎がいっているのではないのだぞ。どうだ、おれが摂州へ出て行く道中の入用四十両、これはおれが借用だ。十二月晦日には必ずけえすと云っているのだが、お前は、それを信用しないのか。対手は岡野ではない、勝だぞ」 「は、はい、はい」  次左衛門はちょっと剣幕に驚いて、ぺこ/\とお辞儀をした。 「返さなかったら、おれが坊主になって詫をする。御旗本が坊主になるはどういう事か、お前、知っているであろう」 「は、はい、はい」 「どうだ、岡野へではない、勝小吉へ四十両貸すか。それとも、どうしても貸さないか」  次左衛門は眼を伏せて、少し慄えている。小吉が気合をこめて、貸すか貸さぬかと詰寄ったのは、ちょっと凄味が利きすぎたようであった。 「よろしゅうござります。勝小吉さまに御用達いたしましょう」 「おう、そうか。わかって呉れたか」  と小吉は 「有難く礼をいう。おれも余り長くは屋敷を空けられない事もあるが、千五百石の御旗本の浮沈に関する一大事だ。この九日には江戸を発足する予定にしている。中仙道を上るから、気の毒ながら熊谷宿まで金子を持参で出て来て貰いたい」 「承知いたしました。すぐに立帰って村方の者とも相談し、その手順をいたしますでございます」 「有難く恩に着るぞ」  次左衛門は飯も喰わずに間もなく、岡野の裏門から帰って行った。小吉はそこ迄送って出て、斯うなると本当に気の毒なような気持がした。  玄関の座敷に東間陳助が待っていた。 「来る九日おれは岡野孫一郎の家来という事で大阪へ上る。お前も一緒に来るのだ」   山茶花《さざんか》  大阪まで行って帰るとなると日数がかゝる。その間道具市は留守になるので相談に行っていると、すぐ後から東間陳助が、実にうれしそうな顔をして追って来た。 「東間、九日には発足だが、実は読書きのよく出来る侍が一人欲しい。居ないか」 「居ます」 「ほう」  と小吉は眼を丸くして 「妙に返事が結構だな。どんな奴だ」 「先生がこの間狐ばくちで篠田玄斎の用心棒に行かれたでしょう。その時にばくち場にいた三人組——」 「あゝ、あ奴らか、あ奴らあ馬鹿だよ」 「その馬鹿に、男谷道場へ東間陳助をたずねて行けと云われました」 「剣術が修行したいとぬかすからな」 「あれが来ましてね、修行もだが、是非勝先生の身内になりたい、その願いが叶う迄、あなたのところへ置いて下さいといって、三人、わたしのあばら屋に居坐って動かない」 「お前がところに食客かえ、これはおどろいた」 「しかしみんないゝ人間です。早川十郎、大和平蔵、堀田甚三郎。これに綽名がありまして、早川がごて十、大和が油虫、堀田が先生です」 「ふーん。先生とは何んの先生だ」 「儒者です。一と頃、田舎廻りの儒者で食っていたということで、嘘か本当か知らんがなか/\学問が深そうな事をいう。書もうまし——」 「よしッ」  と小吉は手を打った。 「そ奴を連れて行く」  東間は自分事のようによろこんで 「あゝ、あの男も思ったより早く仕合《しあわせ》が来た」  小吉は傍らの世話焼さんへ 「これで揃ったというものだ」  といった。 「然様でございますね。では、わたしも長太さんを迎えに行って参りましょう」 「そうして頂こうか。が、ねえ世話焼さん、あ奴は近頃とんと面を見せないが、生業《かぎよう》の縫箔屋などは表向き、内々は野放図もなく|ぐれて《ヽヽヽ》いると噂をきくがどんな塩梅だろうね」 「へえ、そういう噂はわたしもちょい/\ききますが、酒癖は悪いが、あれで根が至極の好人物だから、勝様の前へ出ては|ぐれ《ヽヽ》た真似などは頼んでも出来ませんでしょう。お供を仰せつけてここら辺で少々お絞りなさいますも宜しゅうございますよ」  東間が堀田甚三郎を連れて来たら、狐ばくちの次の日の黄昏に、松平能登守の下屋敷の塀のところで出逢って、弟子にして呉れと口をきいた三十がらみの痩せたあの男だった。予め話をきいて来たので、天にも登る心地だと、にこ/\にこ/\崩れるような顔つきをしていた。 「後で、弁治がきいたら、どんなに残念に思いましょうね」  と世話焼さんが、しんみりした。 「お前よく云ってお呉れ。あゝして折角その日のくらしが風波一つなく静かにやっている。外からあれを揺ぶってはいけないのだと、勝がいっていたとね」 「へえ。でも、一度上方見物をさせてやりたいような気がしまして、女房があちらですからねえ。わたしも足腰が丈夫ならお供をお願いしたいのですけど、何しろお手足纏いになりますから」 「そんな事はない。が、お前の世話で、毎日この市で、生業《なりわい》をしているものが何十人もいる。お前が四十日、五十日こゝを留守にしてどうなるものか」 「へえ」 「それに御旗本のおれが御上《おかみ》の目を盗み掟を破って江戸を脱け出して行くのだ。後のお咎めで、供をしたばかりにこの市場を閉めよとでも云われて御覧な。それこそ大事《おゝごと》だ」 「へえ」  世話焼さんは、まじ/\と小吉を見上げた。そして、次第に目の中がうるんで来た。  小吉が江戸を出発した日は、寒さはきびしかったが、青い空が鏡のように美しかった。  お信は麟太郎の手をとって、門の外まで送って出た。世話焼さんも来ていた。 「呉々もからだに気をおつけ。それを片時も忘れちゃあならねえよ」 「はい、有難うござります」 「お、麟太郎、お前は、この父がけえって来る迄に島田虎之助の胴を一本革が裂ける程に極《きわ》めて見ろ。けえって来て、それが出来ていたら、こんどからおれは、お前を麟太郎様とよぶよ」  麟太郎は黙って、にこ/\笑って 「島田先生より先きに、いつか父上の胴を一本極めます」 「どうしてだ」 「島田先生より父上の方がお強いでしょう」 「はっ/\。そうかねえ」  それっきりで別れて行った。  途で、考えながら 「おい、世話焼さん、おれがところの麟太郎は、時々人の意表をつく事を云うよ。怖い子だね」  といった。 「はい」 「順当に行けば今は一橋刑部卿の御近侍だものなあ」 「さようでございますねえ」  小吉はふと首をふって気をかえ 「みんな市へ来ていたかえ」 「はあ、堀田さんなどは薄暗い中から見えてました」 「あれも東間が云う通りほんとうにいゝ者らしいな」 「さようでございます」  小吉の来た気配で旅仕度をした谷中観音堂の五助と東間陳助が、勢よく飛出して来た。 「見えた、見えた」  声に応じて堀田甚三郎と縫箔屋の長太も転がり出て来た。上下一行五人である。侍が東間と堀田、云いつけられてすっかり下僕風の拵えが五助と長太である。市場の人達もみんな出て来る。 「御旗本が江戸を脱け出すにしてはちと賑やかすぎるわ」  小吉は大声でそういって歩き出し乍ら、ふり返って、世話焼さんにいった。 「お信がことは頼むよ」 「はい/\。確かに承知仕りました」  少し行った。 「おい五助、お前、ちいーっと見ぬ間に大層肥ったねえ」 「さようで御座いますか」 「もう強請屋はやってまいな」 「御冗談を——堂守の強請屋はございませんよ」 「妹は丈夫か」 「へえ、お蔭様ですっかり元気で、どうやらあ奴を目当の参詣人もたんと殖えているようでございます」 「結構だ。その中にはいゝ人でも出来るだろう」 「ところがあ奴、とんと男嫌えでございましてねえ」 「強請屋の五助とも云われた奴がそれをまともに受けてやがるか、馬鹿だねえお前」 「へえ」 「早くいゝのを見つけてやれ」  板橋の宿《しゆく》を出るまではみんな真面目な顔で、蕨《わらび》をすぎる時に、寺で打つ|四つ《じゆうじ》の刻の鐘をきいた。 「東間、今夜の泊りは何処だえ」 「大宮|宿《じゆく》です」 「あすこ迄あ確かに七里の余だねえ、五助と長太はふだん、のらくらだ、大丈夫か」  二人一緒に口を尖らせた。 「冗談ではござんせんよ。今から閉口垂れちゃあ話になりやせんよ」 「その通りだ。が、な。熊谷宿で金を受取る迄はふところは手一ぱいだよ。酒なんぞは飲めないよ」 「わかって居ります」 「それに人様の前では何処迄も、お前らおれが家来だ、行儀を正しくしろ」 「へえ」 「それから、おれは千五百石岡野孫一郎の家来、左衛門太郎七だよ。間違っても、先生だの勝様だのと云ってはならない」 「へえ、へえ」  といって五助が 「そ奴が一番厄介なんだ。なあ長太さん」 「そうだって事さ、どうにもひょいと口に出そうでその度に冷やっとするんだ」  浦和辺りで日がかすれて、針ケ谷村の松並木が途中で少し登りになって、その真ん中を小川が流れ、土橋がかゝっている。  この土橋の袂に江戸では見た事もない大きな山茶花が、一ぱい花をつけて、これへ沈みかけた冬の夕陽が、地を逼うように下から代赭《たいしや》色に照りつけぱあーっと浮き出していた。美しかった。  こゝ迄来る間、枯れた冬野の遠くに、銀色をした川が帯を展べたように見えていたり、小さな沼があったり、雑木林の漆の葉が、火をつけたように真っ紅だったりしたが、どうした訳かこゝの風景が一番みんなの眼に焼きついた。  次の日、熊谷の宿の棒鼻《ぼうはな》、いづみや作左衛門という旅宿へ着いたのが、やっぱり、もう日のくれ方であった。旅宿の前に馬子が大勢がや/\していたが、その少し手前から松平下総守十一万石の忍《おし》の城下へ入る広い道が別れているので、本街道で稼いでいる馬子達と、こっちから出て来た馬子とが丁度出合ったためだったろう。馬が尾をふって頻りにいななく。  いづみやの若い女中が行灯をつけに出て来た。東間陳助が、馬の間をぬけるようにして行って 「次左衛門という百姓が来ているだろう」  といった。余り出しぬけだったから女中はびっくりし 「へ、へえ」  といったきり、暫く目をぱち/\してから 「お出でで御座ります」  とうなずいた。 「岡野家の者が到着したと伝えろ」 「はい、はい」  女中はあわてて広い土間へ飛込んだ。  次左衛門は、村の者三人と一緒に一刻余りも早く着いて待っていた。小吉は約束の四十両を受取って 「確かに勝小吉が借りた——おい、堀田、その旨証文を認めて渡せ」  といった。  次左衛門は、証書を貰っても 「お間違いはござりませぬな」  と何度も何度も念を押した。東間は腹を立てたような眼つきをしたが小吉は鄭重に酒の膳を出して振舞って帰してやった。 「御本家が出そうというのに、先生は何故あんな百姓へ頭を下げて御借上げになるのですか」  東間が百姓達が帰ってもまだ腹を立てている。 「岡野の隠居が生きている間は、何んとかしてあれにだけはおのが家の潰れるを見せたくないのでなあ。いゝ人間だから可哀そうだわ」 「え?」 「本家の出羽守というのは、前にもたった百両の貸金で分家を一つ喰っているのだ。金で首を絞めて横領よ」 「へーえ」 「芝の愛宕下に岡野右京という五百石の家があってな、こ奴がまた道楽で、とう/\本家に横領された。あれは御支配にも御老中にもいろ/\と用いる手を知ってやがる。だから、三百三十九両、ごっそりとって、一時を凌ぐは世話はないが、滅法後が怖え対手なのだ」 「そうですか」  それっきり、みんな暫く黙った。 「ところで堀田、お前、ほんに字がうまいね。あれなら田舎廻りの儒者は充分に勤まる。ばくち場の用心棒など凄味な事をやるよりは余っ程いゝじゃあないか」 「はあ。わたくしは、時と場合、都合次第でどちらでもやります」 「講釈も出来るか」 「は、大学孝経ならばうまくやります。馴れて居るから。何しろ田舎の大百姓に泊込んで、近所の者を集めて、嘘でも本当でも、面白おかしくやればいゝ。対手は根っから文盲ですからな。一晩やれば五日や十日は遊んで歩ける位の銭はみんな包んで出します」 「出さなかったらどうする」 「仮病をつかいましてね。十日でも二十日でも逗留するのです」 「はっ/\、こ奴は驚いた」 「それでも出さなければ、実は武者修行だといって威張るのです。大抵出しますよ」 「東間が相棒には、いゝ人間が出来たものだ。はっ/\」  その夜、はじめてみんなに少し酒をのませた。  小吉は 「堀田、酒は好きか」 「さあ、好きと申しますかどうですか、いくら飲んでも酔わぬ方の質《たち》のようです」 「暴れるかえ。暴れると、おれは酒が嫌い、東間は短気だから、斬るよ」 「それは困る」  とどっと笑って終った。   木曽路  冬枯れの中山道を上って来る。  途中で、霜柱のぞく/\立った谿合《たにあい》の村を通る事があったり、峠路で吹飛ばされるようなひどい風に苦しんだりしている中に、江戸をはなれて十日目に木曽の宮《みや》の越《こし》と福島の間で、これはまたいやッという程のひどい目に逢った。  宮の越を出る時は晴れていた。それが村を一つ過ぎて小野村の大原という小さな川の橋へかゝる頃に、まるで待伏せをしていたように、俄かにお天気模様が変って、黒雲が空を駈け廻って、ひどい大粒な霰が凄い勢で叩きつけて来た。  みんな、少し登り坂になっている街道を息をのんで夢中で駈けたが、これが途中でまた土砂降りの雨に変ってやっとの思いで福島へのめり込んだ時は、みんな褌までびしょ/\になっていた。  一里廿八丁の間、よくもまあ根《こん》よく一瞬も休まずに降りつゞいたものである。  甲子屋という旅宿へ着いて、上り端へ崩れるようにどっかりと腰を落して小吉は流石に大きく息をした。 「おい、熱い素湯《さゆ》を一杯呉れ」  旅宿の亭主へそういって 「東間、おれは脚気がある。二、三日前から少し妙だったが、心配をさせまいと我慢をした。この雨ではひょっとするとやられたかも知れない」 「そうですか。すぐお休みなさるように手配をいたします。お顔のお色が少しお悪い」  旅宿の者が素湯を持って来る。それをのんでいる間に、みんなで草鞋を解いた。五助と長太はまるで小吉の脚の辺りを嘗めるようにして 「大丈夫でございますか。え、大丈夫で」  ぶつ/\ぶつ/\呟き乍ら顔を見上げた。  座敷へ落着いて、夜具へ入ったら、とにかく一と先ず胸の詰まるようだった気持も鎮まったし、からだも暖まって来た。 「これから熱い湯《ゆう》へへえって、ぐっすり眠れば、明日はもう元気になるだろう。お前ら、今夜は酒でもお飲み」 「はあ」  みんなうれしそうな顔をした。 「飲んでも喧嘩はならないよ。堀田、いゝかえ。間違って暴れでもしたらすぐに斬っ払うよ。それから長太、お前も昔から余り酒はよくない男だ、同じだよ」  小吉はねていたのを起きて、階下の風呂へ行って来て、夜具へ坐ると、毎夜旅宿へ着けば、欠かさずやるように刀の手入れをはじめた。国重を抜き放って、打粉をしながら 「道中、雨に打たれるは刀には禁物だねえ。東間も堀田も御覧な、すっかり苦しそうに冷汗をかいている」  これがすんで御飯をたべたら、二度程一寸軽い吐き気がしたが、小吉は何んにも云わなかった。  五助と長太が座敷の廊下へ出て行って額をよせて、ひそ/\と相談をしている。東間も出て来た。  空は星である。 「いかに山ン中だといっても、天下の御|関《ばん》所。七千五百石山村甚兵衛様の御陣屋のあるところだ。医者位はいるだろう」  という長太へ 「先生が医者を呼べと一とこともおっしゃらねえに、そんな事をして、出すぎやがると叱られやしねえか」  と五助はいっそう顔をくっつけて 「だがこの福島が江戸と京の丁度真ん中だという。これからの道をどうするんだい。心配《しんぺえ》だあな」  とさゝやいた。 「そうだ。おれもそれを考えるんだが、どうだ今夜一と晩、じっと御様子を見ていてな、明朝少しでも変った事があったら、発足を取りやめて医者を呼ぼうではないか」  東間がそういう意見なので、五助、長太はとにかくそれに従う事になった。  流石に木曽だ。夜更けてしん/\と身に沁む寒さは堪らない。興禅寺という古いお寺の錆のある鐘の音が、江戸とはまた違って、ぐーんと間をおいて杜切れるように静かに八つ聞こえた。  眠っていた小吉がふと目をさました。 「五助、何んで起きている」  行灯の横に、掛夜具をかぶって、五助が、じっと小吉の方を見詰めているのである。 「へえ」 「へえじゃあないよ」  といってから小吉は 「有難う。が、心配はいらない。明日がある、寝るがいゝ」  この僅かな問答の間に寝ていた東間も堀田も襖一枚の隣にいる長太もむく/\と首を持ち上げて終った。 「これからまだ七十里の道だ。無理をしてはいけない」 「はい」 「寝るがいゝ、おれもこれで一通りは鍛《きた》えてあるからだだ、生《なま》じいな事で倒れはしないよ」 「はい」  それから一刻半もして、また小吉が眼をさました。今度は行灯のところに長太がいた。もう夜明けに間もない。小吉はわざと気がつかぬふりで眼を閉じた。  明けの六つが鳴ると、小吉は元気で起きた。少し目まいがして、足が吊ったが 「お前らの介抱で、ゆんべはぐっすり眠ったせいか、さっぱりとしたわ」  わざと平気な顔で朝の膳についた。  用意がすんで、出発も小吉が先きに立った。土間の上り端《はな》で、五助が草鞋を結んでくれて、小吉はそこへ立って、とん/\と大地を踏んだが、途端に思わず、よろッとした。 「あッ!」  五助が抱きおさえた。  小吉は苦笑してふり払って 「馬鹿奴」  それっきり、つッと土間を出て行った。  外で空を仰いで目ぶしそうな目付をしながら 「今日はお天気は大丈夫だろう」  大声で笑った。  東間がゆうべの中にみんなへ云いつけて小吉を包むようにしてゆっくり歩く。 「五助は、滅法界《めつぽうけえ》な強請屋《ゆすりや》でね、おれが父上も一度強請られかけたが、改心したとはいうもののいつ地金を出さないとも限らないよ。みんな気をおつけ」 「人間は誰でも一生涯に大なり小なり必ず道に踏み迷う事があります。わたしのあの頃が丁度それですよ。今はもう真底《しんそこ》からの観音堂のいゝ堂守、昼の間はお御《み》堂へ集って来る子供達の遊び仲間で、わたしが遊んでやらぬとみんな泣きべそをかきますよ。まるで仏様でございますな」 「ほう、坊さんみたいな事をしゃべれるようになったねえ。お前がそんなお説教をするとは偉くなったもんだ」  と小吉はからかった。  駒ヶ嶽がこの木曽谷と信州とに跨がって右手から掩いかぶさるように迫っている。街道を横切って、綺麗な小さな流れが幾つもあって、やがて木曽の桟橋《かけはし》の嶮岨にかゝる。  たった二里半にひどく手間どって、上ゲ松へ着いたらもうお昼であった。尾州家陣屋の屋根に真っすぐに陽がさして、茂った森から森へ鴉が群れて飛んでいた。  小吉は途中でやっぱり三度ばかり少し足が吊って立停ったし、吐気もした。ひどく気持は悪いが成るべくみんなに気づかれないようにして、一生懸命、冗談を云い/\笑って歩いて来た。  上ゲ松の笹屋という中食宿の土間で昼食の時に、五助はとう/\泣き出して終った。 「何んだ五助」  と小吉はちらっと見て 「江戸の女房が恋しくなったか」 「か、か、勝様、あなた様は、ど、ど、どうして、わたくし共へ、物をお隠しなされますのでございましょうか」 「ほう、何を隠したえ。おれは、物を隠して置く事の出来ねえ奴だ」 「そ、それが、それが嘘でございますよ。勝様はだいぶおからだがお悪いのです。それを隠している——か、か、勝様、こ、こ、これからすぐ江戸へ引返しましょう」 「何にをいう」  と小吉は額を叩いて 「もう道は半分の上も来ている。向うへ行くも江戸へ帰るも同じだ」 「それは同じでございましょうが、いゝえ、他国でお悪くなられたりしては大変でございます。第一|御《ご》新造《しん》さんやお坊ちゃまに申訳がございません。帰りましょう。しかも御自分の事で大阪へいらっしゃるのではありません。他人の事です」  五助は泣いて土まみれの手でこするので、駄々ッ子のような汚ない顔になった。 「何んてえ顔をしている」  と小吉は笑いながら 「他人事《ひとごと》で出て行くのだから滅多な事では帰られないのだ。五助、おれはな、途中でぶっ倒れたら、戸板で運ばれてでも大阪へ行くよ」 「そ、そんな事をおっしゃって、か、か、勝様」 「まあいゝ、おのれのからだはおのれが一番わかるものだ。おれはまだ/\倒れはしない。安心おしな」  五助は、東間や長太の方を怖い目をして睨んだ。 「東間さんも何んです、長太兄イも何んだ。何にをあっけらかんとしているのだ。さ、勝様を引っ担いでも、江戸へかえりましょう」 「と云って五助お前」  と東間がいうと、これへ喰いつくような恰好をして 「こ、こ、この方はね、わたしらにはどうしても無くてはならないお方なんですよ。他人事《ひとごと》に無理をおさせ申して、大阪くんだりへ出て行って、もしもの事でもあったら、江戸の人達へ何んといってお詫をしますえ。本所深川《ところ》の人達は元よりのこと、江戸中の剣術遣いの先生方が、黙って許しては置きませんよ。東間さん、あなた勝様を苦しませて、それで、のそ/\とまた江戸へ帰って行く気でいるのでございますか。わたしが実は斯う斯ういう始末だったと話したら、あなたがいくら強くても、その日の中に殺されてしまいますよ」  ひどい早口でまくし立てた。 「待て」  と小吉が二人の間へ入って 「よし、お前らそう云うなら、難所はおれも駕にしよう。な、五助、そうしたらいゝだろう」 「駕?」  考えて 「わたしは、それでも嫌やだ」  と顎を突出して、つーんとそっぽを向いた。 「五助、お前、とんと強情だね。云う通り、おれは戸板へのっても大阪へ行く覚悟だよ。侍がこうと引受けて出て来た仕事だ。途中から引きけえす訳には行かないのだ」 「ですけれどね、そのお引受なさったお対手にもよりけりです。道楽の果てが、御父子共、あんな次第はわたくしも知って居ります。殊に唯今の殿様などは米屋の娘を——」 「こらッ」  小吉は怒鳴りつけると共に、ぱっと平手が五助の頬に鳴った。 「岡野孫一郎は御旗本だぞ、おのらの口端《くちはし》を入れる方じゃねえ」 「へ、へえ、へえ、へえ」  五助は土間へくた/\と坐って泣いて終った。  五助は涙を拳で払いながらその手を土間へつくと 「申訳ない事を申しました」  と平伏した。小吉は 「いやあ」  何んだか自分も俄かに涙が出て来る。 「五助、勘弁しろよ」  それっきりでじっとして 「大川丈助の悪智慧が勝つか、ところの者が勝つか、やって見ましょうという世話焼さんらに迷惑をかけまいと今は本所《ところ》にもいず、落着いて観音堂にくらしているのを有無を云わせず引っ張って来たお前だ、それをぶったは重々おれが悪かった」 「か、か、勝様、飛んでもない、そんな事を仰せられては、いっそ悲しくなります。身の程知らずお言葉にさからったりしてわたしが悪うございます。どうぞお許し下さい」  それからほんの僅か経って、とにかく其処を発足した。小吉はその時から妙にこう自分のうしろで、本所深川の人達が、負けるな負けるなと叫んでいるような気がした。妙な事だと思った。 「が、おれはもう負けているのだ」 「は?」  思わずいったひとり言を東間が小耳に挟んで顔を向けた。 「何んでもない」 「そうですか——しかしまあ大川丈助という野郎は飛んだ苦労をかけますね」 「お蔭で上方見物だ。楽しみではないか。土地《ところ》の人達が足を踏ん張って力んでいるに、こんな心掛けではまことにすまないがねえ」 「はあ」  小吉は急に気を紛らすように 「おや、滝が見えるね」  といった。東間もうなずいて 「碑《いし》がたっています。小野滝というようです」 「この辺はもう小野というところか」 「おゝ」  と急にまた東間は指さして 「先生、あすこの崖下に山茶花の大きな木がある。薄紅色の美しい花です」  といった。小吉も見た。如何にも見事な山茶花であった。一ぱいに花が咲いて、その右側に滝が銀色に光って落ちていた。  この一行が大阪の八軒屋へ着いた頃は、幸いな事に一同が寿命を縮めて心配した小吉のからだ具合の悪かったのもいつの間にかよくなったようで、とう/\一度も医者にかゝらず、木曽路六十九次を過ぎて来て終った。  着いた日が雨、次の日も雨。みんな旅宿で骨休めをしたが、この間に縫箔屋の長太が、小吉に内緒で、そっと台所へ行っては、断わるのもきかず、茶碗で冷酒をのんで、おまけに嫌やがる女中をからかったりした。   御願塚  晩飯に小吉は笑い顔で 「おい、長太、あしたはいよ/\本陣へお乗込みだ。伊丹も近し、こゝら辺は何処へ行っても酒がうまいというから、事が終ったらいくらでも飲ませてやる。おれがいゝという迄は確《しか》と慎しめ」  といった。 「へ?」  長太は顔色を変えて目を丸くした。 「何にを驚く、おれはみんな知っている。いゝか、おれらが行く岡野が知行の村方《むらかた》御願塚というは、大阪からたった二里半だ。貸しましょう、はい借りましょうというんじゃないのだよ。嫌やがるのを知っていながら借りに行く。しかも対手が、繁華な場所に近いから自然悪ずれのしている慾の深え百姓共だ。並々の事じゃあねえんだよ」 「へ、へえ」 「おれがいさゝか肚を据えてかゝる仕事だ。お前、そんな心掛けではどうにもいけない。いゝか、今からきっと慎しめよ」 「へえ」  流石に恐縮の長太を見て、みんな笑った。 「しかしお前、おれが前《めえ》をごま化しても飲む程そんなに酒が好きとは知らなかったよ」 「へえ。相すみません」 「みんなまた江戸へかえるのだ。旅の恥のかきすてもいゝが人間が酒位のことで、詰らねえ襤褸《ぼろ》を出すは見っともねえぞ」  長太はとう/\両手をついて終った。小吉は大きな眼を据えて一度ぐっと睨んだがそれっきりもう何にも云わない。  次の日大阪へ出て、そこから御願塚の村方へやって行った。時々頬を刺すような風が流れて来たが、江戸と比べて気候がいゝのか、あちこちに椿の咲いているのがよく目についた。  右も左も平らな畑地の真ん中に、広い道が通っていて、その真っ正面の森の中にこの村方五百石を支配する岡野の代官陣屋の黒い門と白壁をぬった屋敷が見えていた。 「あれですね」  東間陳助が勇み立って指さすのを、小吉は叱る目つきで 「静かにしていろ——おい、五助、お前、飛んで行って勝様のお着きだと触れよ」 「へえ」  五助が門を駈込んだと思うと、かねて知らせで仕度をして待っていたと見え、代官山田新右衛門が大きな丸髷を結った内儀と二人紋付姿ですぐに出て来て、腰をかゞめて門の前に立った。  小吉はつか/\と出て行くと、対手は 「御苦労に存じ上げます」  と夫妻共腰を折るようにひどく鄭重な礼をした。小吉は 「勝左衛門太郎七、御迷惑に参りやんした、宜しゅう」  と声の調子を張って一礼した。  代官の山田は到れり尽せりのもてなしをする。小吉の着いた時はもう風呂もわかしてあって、東間が堀田へ 「代官屋敷というのは上等の旅籠も同じだな」  などと囁いた。堀田は 「わたしは田舎廻りで知っているが江戸の主筋から出向いたとなるともっともっといゝもてなしをしますよ」 「そうかな。だが、こっちがお辞儀をしても、向うはすぐに頭が下がらない、下がらないどころか、妙にこう反《そ》るような恰好をするな。あれは、ふだん威張っていて、逢う者には、みんなにお辞儀をされ、こっちで先きにする事がねえから、それが癖になっているのだな」 「そうですよ。代官は何処でもみんな物腰が似ている」  夜の膳へ酒がついたが、小吉が嫌やな顔をして睨んだので、みんな一口のんだだけで、代官の頻りにもてなすのを辞退して早く床へ入って終った。  大阪からほんの僅か離れたところだけれど、夜になると、まるで物音一つ聞こえない程静かになる。寝る前に東間が一寸代官陣屋の黒い門の外へ出て眺めたら、畑の向うに点々と灯が見えて、山里へ来ているような気持がした。  次の朝、小吉は羽織袴で正座について代官と要談にかゝった。江戸の岡野家の様子、今度の大川丈助の付懸け一件、このまゝでは事が次第に大きくなって、主家へ疵がつくようになるというような話をして 「真実《まこと》はざっとこんな次第だ。おのしと、わたしがいろ/\話して見たところで何んにもならない、ともかく村方を呼出して貰いましょうか」  とにこ/\にこ/\これ迄にない笑顔だったのが、最後のところで俄かに一寸怖い目つきをした。  それに代官が、動悸《どき》っとしたが、出しぬけに 「勝様は剣術をなさいますか」  といった。 「おゝ、おのしはとんとお目が鋭い。実はその外には何んの取得もない人間でね」 「はあ」 「だから出世が出来ない」  と笑った。  昼頃に村方のものが羽織袴で七人やって来た。みんなの前で、小吉は 「山田さん、詳しい事情は後であなたから話して貰うとして、とにかく主家興亡の入用金だ。何んとでもして貰わなくてはならぬ仕儀に詰っているのだ」  といった。  代官は村方を見廻した。一番先きに坐っているのは、表は朴訥だが内心は如何にも狡猾そうな五十すぎた男であった。小吉がちらりと見る。こ奴、どうも面《つら》が丈助に似ている、掻廻しゃあがるな、そう思った。案の定、ひどく鄭重に一礼してから少し嗄れた声で、ゆっくり/\ 「申上げます。実はすでに七百五十八両の御用立を致して居ります。御承知の通り五百石の貧しい村方、これ以上は一文の仰せつけも御受け致し兼ねまする」  という。 「待て、七百余両といったが間違いないか」 「はい。一々控がございます」 「おれは江戸で五百両足らずときいている。お前何にかの間違いではないか」 「お間違いはそちら様でございます」 「そうか。よし、いずれにしても主家の大事だぞ。よっく考えて改めて呼出す迄に確とした肚を定めて貰おう。詳しくは代官と打合せて引退れ——時にお前は」  と小吉はその百姓を指さして 「何んというか」 「はい。茂左衛門と申します」 「そうか。よし」  小吉は瞬きもせずに暫くじいーっとその顔を見詰めてからすっと立って、そのまゝ自分の居間に当てた座敷へ足早やに行って終った。 「おい、東間、堀田。少し村方を歩いて見よう。一緒に来い」 「は」  次の間にいた二人がすぐに仕度をしてついて来た。 「岡野の殿様が五百両の用立金というから、そのつもりで来たら、七百五十八両もあるとよ。元元いゝ加減の屋敷だが、おれも閉口したよ。その上、村方の奴らも、度々の事だから、こっちを小馬鹿にしてかゝっていやがる。何にかあ奴らの驚くような事をして見せてやらなくては、話はうまく行かねえ様子だ。迂闊な事は出来ねえよ」 「はあ。それで如何になさいますか」 「まあ、ほったらかしで、ぶら/\と四、五日も村方の様子を見よう」 「そうですか」 「江戸もんは、気が短けえのでとかく物事を仕損ずるというからな。はっ/\」  三人は村をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりした。小吉は 「おい、まだ/\村方は出せるねえ」 「わたしも然様《そう》見ました。百姓達も内ふところは結構、あたゝかい」  と堀田も然様云った。 「田舎廻りに馴れている儒者どのも、見たか。有難いね」 「先生、田舎へ行ってその村が貧乏かどうかという事を見るには、第一にその家その家の戸障子ですよ」  堀田甚三郎の語るところによると、戸障子が破れっぱなしでこれが風にぱた/\していたりひどく煤ぼけたのは貧村、切張《きりばり》してあるのはその次。冬場《ふゆば》のかゝり端《ばな》にもう張替えてあるようなのは多少金があり、庄屋名主などが松の木などに手入をしているようなところは余裕《よゆう》の村だという。 「こゝは障子が殆ど戸毎に張替えてあります。先ず相当なものだ。五百両や六百両は大丈夫用立させられますよ。遣方《やりかた》によっては小千両召上げられましょう」  堀田は得意になってそんな事をいったが、小吉は無言でうなずくだけだった。  その夜、代官山田新右衛門を小吉は自分の座敷へよんだ。 「こうしているも退屈だから、江戸の剣術の話でもしようと思ってね」 「は、有難う存じます」 「それはそれとして、これ迄江戸からこゝへ出役の者は大抵どの位の入用になるね」 「そうですなあ」  と代官は、頻りに羽織の紐をいじり乍ら、そんな事をきく小吉の気持を測ろうとしてか、盛んに眼ばたきをした。 「出役は大抵用人と供が一人位なものだろう」 「そうです。上下お二人で——」  と息を切って 「先ず一日十八匁ずつかゝります」 「そうか。それは贅沢だ。みんな主家を思う心が少ないからそんな事をする」  小吉はその夜中に、一旦寝たみんなを自分の座敷へ集めて、そっと耳打するように話した。 「こゝでは厳しく倹約をするのだ。その代り、金をやるから、そっと伊丹の町へ出て、村方の者に気づかれないよう極く内密に酒食をしろ。酔っ払って歌などうたってけえって来たりしやがったら、直ちにその場で斬っ払うぞ」 「わかりました」  みんな一斉にうなずいて頭を下げた。  次の日から小吉をはじめ、いろ/\肴が膳へついても食わない。一箸もつけずに綺麗にして、五助と長太が、代官の住んでいる方へ持って行った。 「こちらは若い者だ。御肴は代官殿のお年を召したおふくろ様へ差上げろと仰せで御座います。何分にも江戸の御主家も切迫の場合、明日よりは決して斯様《かよう》の御饗応はなされませぬようにとの事で」  こんな口上である。  それでも二、三度はやっぱり立派な肴をつけたが、小吉は断った。代官はそれをしなくなった。  五助が代官所のものからきき出した話では今度は上下五人のお方で一日十匁ずつ、これ迄には無い事だといって代官はひどく喜んでいるとの事であった。  あれっきり金の話はしない。毎日々々、村内をぶら/\してくらしている。 「先生、こんな事では埒があきませんな。何んとかしなくてはならんでしょう」  東間が、そういった。 「お前、もう江戸へ帰りたくなったか」 「いや、そんな訳ではありませんがね」 「それならも少し黙っていろよ。村方の出方を見ているとな、こっちが金談を申出さないを幸いに、退屈をさせてこゝを追出す算段をしているようだ」 「金談をやい/\やったらどうでしょうか」  小吉は考えて 「どっちにしても、も少し様子を見る。が全く退屈だなあ」 「一手|遣《つか》っていたゞきましょうか。わたしも近頃は稽古をしないので、からだの節々が痛くなって来ました」 「それにお前下ッ腹が少々ふくれたね。江戸へかえって精一郎におれが皮肉を云われるから、それでは遣うか——おゝ、そうだ、代官にいって、村方の者にも稽古を見せてやろう」 「これは面白い」 「木剣にしろ。木剣が折れる程に打合って、田舎ッぺえの胆を潰してやるか」  この木剣稽古は物凄かった。小吉と東間と堀田が、小吉を軸にして三人が輪になって打合う。まるで木剣が渦を巻くようにくる/\舞って、時々、それが触れ合う響きが、遠くへ坐って見ている茂左衛門ら村方の者は元より、代官の山田新右衛門も、毛肌が立って慄え出した位であった。  この稽古が終ると、一息ついて今度は小吉と東間の二人が相対した。稽古着も袴も代官からの借物で、全くの素面素小手。互にぴたりとつけている木剣の、小さくぴくッぴくッと動くのが、じいーっと呼吸を詰めてまるで生きているようである。  東間が打込んだ。小吉はさっと飛ぶ。と同時に間髪を容れずに稲妻のように摺《すり》上げて斬込んで行った。 「やッ」  気合と共に、危うく受けた東間の木剣が真ん中から裂けたように、二つに折れて先きの方が天空へ鳶が舞うように高く高く飛んで行って終った。  東間が飛びすさって、そこへ坐って手をつく。小吉はから/\笑って代官を見て 「山田さん、すぐ折れるようなこんな木剣で稽古はいけないよ、怪我をするよ」  といった。山田は元より、村方の者達も、みんなべっとりと額に脂汗をかいて、暫くは口を利けなかった。  その夜、東間がさゝやいた。 「先生、薬は利いたでしょうね」 「さあ、どんなものか。丈助以来おれもむごく狡猾になったから、まだ/\手は考げえてあるよ」   御紋服  しと/\と雨が降って来た。  小吉は真面目くさって云いつけた。 「おい、東間、今夜は退屈だからおれが昔からの名将智勇の侍のはなしをしてやるといって、代官を呼んで来てくれ。こういう話は一人でも聴手の多い程やり甲斐のあるものだ。内儀も子供らも一緒に来るようにな」  東間が不思議そうな顔で立つのを 「お前、おれを軽んじていやがるな」  と、叱ったが、小吉は自分でもくすっと笑った。東間はあわてて 「と、と、飛んでもない事です」  と恐縮した。  半刻ばかりして、みんな揃った。代官の子もちゃんと衣服を着替えて二人来た。小吉は一刻近くも関ヶ原の戦の話をした。  大よろこびでみんな帰ってから、堀田が小さな声でそっと小吉へきいた。 「先生、はじめて伺ったが、あれは本当のお話ですか」 「はっ/\。本当にきこえたか。こら堀田。あれをほんとに聴くようではお前の儒者も|いかさま《ヽヽヽヽ》だな」 「は?」 「あれはみんな出鱈放題よ」 「おゝ、これは驚いた」  と横から東間が膝を打って 「作り話だからこれ悉く初耳だ。先生、明夜もおやり下さい」 「こ奴、おれをおのが退屈の肴にしやがる気か。だが、やるよ。飽きる程聴かせてやる」  堀田も大よろこびで 「実に前代未聞の関ヶ原、どうぞ、頼みます」  といった。小吉は、一寸、真顔になって 「お、夜はおれがやるが、堀田、お前、あしたから昼前に、得意の大学孝経の講釈をやれ。みんな呼んで聴かせるのだ」 「承知いたしました」 「あ奴ら悉く無学で本当も嘘もわからない。充分面白おかしくやれ」  云われる迄もなく堀田は、そんな事は心得たものだ。次の日から昼は堀田、夜は小吉のはなしが続いて、余り仕事もない田舎の代官陣屋の者達は大よろこびであった。  二、三日したら代官がそっと小吉に耳打をした。 「百姓共が内々相談をしている。わたしには頻りに銀主《ぎんしゆ》を探しているように見えますがな。茂左衛門が申すには路用位は何んとか致しますから、勝様に、いゝ加減のところで諦めて江戸へおかえりを願ってくれないかなどといっている。が、勝様、わたしはもう一押しだと思います」  小吉はぽんと代官の肩を叩いて 「山田さん、あなたがそうして味方になって呉れるは誠に有難い。わたしはとっくに睨んでいる、この村はまだ/\五百両や八百両は出せる筈だ。主家の大事というに飽迄いゝ加減をいうと、今に百姓ばらに一泡を吹かせて出させてやるよ」  夜小吉の話をしている時、二日ばかり縫箔屋はいつもその席にいなかった。尤も五助と縫箔屋には、暇があったら、村中を出歩いて無頼《やくざ》な奴などにも付合い、心して村方の様子をさぐるように云いつけてあるから、東間も堀田もそう思っているが今夜も居ない。  小吉は居間へ戻ると怖い目をして五助へいった。 「長太奴、碌な事はしていねえな」 「へ、へえ、でも別に」 「大層ぐれていやがると江戸でみんなから聞いていたが、真逆におれが目の前で尻っぽを出す程すれっからしちゃあいまいと思った。おれもとんだ自惚よ。今夜は、あ奴は何処へ行っている」 「存じませんが——実を申しますと、この四、五ン日村方の者を寄せて、何処かの堂宮でばくちを気付《きづ》いているような態《ふう》が見えます」 「どうせそんな事だろう。昨夜もけえって来ておれが目を逃げるようにして寝部屋へ入ったが、ぷーんと酒の匂いがした。おれがあれ程云ったに、あ奴め」 「今夜よく云ってやりましょう」 「いや、黙ってろ。放っておいても人間というは、自分の尻は自分で拭わなくてはならなくなるものだ」 「へえ」 「それにつけても最初の中は岡野が家来で、左衛門太郎七などと呆けていたが、おれからしてが、いつの間にやら地金が出て、素姓も代官には知れて終った。縫箔屋が化け切れないも無理はない。代官はお前らおれとの間柄も唯の家来ではないと気がついているから、どの道、こっちも生優しい事では引込めねえ仕儀となったようだ」  といった時に、小吉はちょいと首をかしげて聴耳を立てた。 「何んだ」 「何んでしょう。火事でしょうか」 「見ろ」 「へえ」  五助が飛上って障子を開けて四方を見たが火の手はない。東間も堀田も駈込んで来た。 「寺で早鐘をついているようですが」  そういう東間へ 「そうらしいな」  とにやりとして 「おい五助、縫箔屋のばくちは、いかさま賽《さい》でも使いやがるか」 「へ。やるかも知れません」 「そ奴がばれたのよ。あ奴、今にこゝへ転がり込んで来る。村方がこゝを取巻いて。これは一騒動になるだろう」  小吉のいった通りだ。縫箔屋は、額から血が頬まで垂れて、着物の片袖はもぎ取られたような恰好で 「せ、せ、先生、先生」  泥だらけで泣き乍ら転がり込んで来たのが、小吉がまだ言葉を切らない中だ。  小吉はみんなの立騒ぐのをじっと見て 「おれは知らないよ」  といった。 「せ、せ、先生、申訳ごぜえやせん。ど、どうぞお助け下さい」  縫箔屋は小吉の膝へ頭を突込むようにして平伏した。 「いゝや、おれは知らない。そうでなくても百姓らは、ちょいとした落度でも見つけたら何んとかそれへ難癖をつけてかえそうとしているのだ。いかさま賽で銭を取ろうなどという吝ン坊な量見はおれは嫌えだ。手前《てめえ》江戸っ子ではなかったのか」 「す、すみません、先生、悪うございました」 「おれに詫びても仕方がねえ。え、長太、さ、これを」  小吉はうしろに架けてあった国重の刀を鷲づかみにすると、ぐんと縫箔屋の鼻っ先きへ突出して 「貸してやる。寄せて来た百姓共を斬っ払え。こゝは御旗本岡野孫一郎の五百石を支配する代官陣屋だ、斬っ払って支《つか》いない。それからお前はあわてる百姓の目の前で見事に立腹でも切って見せるのだ。死ねなかったらその時はおれが介錯をしてやる」 「せ、せ、先生、おゆるし下さい。に、二度と、こんな事は致しません。ど、どうぞお助け下さい」 「いやだ」  寺の鐘はまだ鳴っている。百人位の百姓がぐるりと代官陣屋の小吉の泊っているところの裏表へ押しかけているのがわかった。  小吉は、元より縫箔屋が受取ろうともしない刀を、立ち乍らすうーっと腰へさして、黙って門の外の百姓の方へ出て行った。  暗い中に、もう、竹槍などを持っている者がある。しかし流石に小吉の姿を見ると、ざゝッと潮の退くように後ずさりをした。 「おい、茂左衛門、隠れていねえで出て来いよ」  にや/\しながらそういって 「何あんだ、居ねえのか」  途端に、ぷうーっと大きな屁を一つ放って、くるっと踵をかえすと、そのまゝ悠々と内へ引返して終った。茂左衛門というのは初対面でずるそうな奴だと小吉の睨んだ例の村方の総代だ。  百姓達は、それから少しの間、暗いところで、ごそ/\ごそ/\何にかやっていたが、いつの間にか、みんな居なくなった。  その時は小吉はもういつものように肱枕でねころんでいた。 「しかし驚きましたな先生、あの時の一発は」  と東間が首をふるのへ小吉は 「本所もんは品《ひん》が悪いよ」  と笑った。  次の日も村方が大勢寺へ集って、頻りに評議をしているということを代官が小吉へ告げた。 「茂左衛門が音頭取だろう。何にが出来るものか、投ったらかして置け」 「茂左衛門は寺へ行っていないようです」 「狡猾な奴だ。隠れて糸をあやつっているのだ」 「そうでしょうか」 「今夜御覧よ。あ奴ら、この近辺へ来て何にかとこっちに腹を立てさせるような雑音をはくだろう、こっちが怒って刀をぬき誰かに浅疵《あさで》でも負わせたら、そこが付け目、その騒動のごた/\で、申入れた借上金を有耶無耶にして追帰して終うつもり。茂左衛門というは猿智恵だ」  その晩は、思い出したように、ぼつ/\雨が降ったり、そうかと思うと、真っ黒い空へ星がぱらーっと出たりしたが、小吉が云う通り、次から次と、三、五人ずつやって来ては、大きな声で、小吉一行の悪口をいった。五助が辛抱しきれなくなって飛出して行くと、みんな脱兎のように逃げて終って姿もないという。 「あれらはこの辺で、もう手はないだろう」 「そうでしょうか」  と堀田は首を曲げて 「これが段々にこうじて一揆のような事にでもなれば、こちらもお咎を受ける事にならぬとも限りませんね。いゝ加減のところで見切りをつけたらどうでしょう」  と低い声でいった。 「おれは、引込む位ならはじめから出ては来ない」 「でも」  とこんどはまだ疵痕の生々しい縫箔屋が 「先生、この辺の百姓は案外|悪性《あくしよう》でございます」  という。 「ふん、悪性がお前のいかさまで銭を捲き上げられるか」 「へえ」  縫箔屋は、びっくりする程大きくお辞儀をして黙った。 「云って置くが、みんな百姓が怖くなったら江戸へかえっていゝんだよ。おれ一人になってもやるつもりの事はやって行くから」  じろりと一人々々の顔を見廻して行く小吉は微笑はしているが、怖かった。  次の日はまた寺へ前の日より多勢集っていると代官が知らせた。 「そうか、東間ついて来い、行って見る。お、五助、荷の中から御紋服を出せ。百姓らに葵の御紋を拝ませてやる」  小普請でも徳川《とくせん》の御家人《ごけにん》だ。小吉のところは御紋服を拝領してある。何にかの際にはと思ってこれを持参してこっちへ着いてから新しい行李に入れて床の間に置いたが今日はじめて着た。直径《さしわたし》三寸の余もあるびっくりする程大きな葵の五つ紋である。  羽織は着ず、この袷の姿。白っぽい袴をつけ、五助に髷もきっちり結い直させて小吉は東間一人を供に肩を張って出て行った。 「次第では斬ってもいゝですか」  と東間がそっときく。 「馬鹿をぬかせ」  小吉はぷつっとそういった。  昨夜の雨のためか、寺迄の道は少し悪かったが、お天気がいゝので暖かかったし、遠い山々も、野っ原も洗ったように綺麗であった。  寺は知っている。その前方《まえかた》に森があって、葉色が少し焦茶に見える杉の並木道が、だいぶ長い間つゞいている。  寺の本堂の外にも、二、三人ずつかたまった幾組かの百姓がいる位だから、ずいぶん人数は集っているのだろう。  小吉は真っ正面を向いて、反り加減に手をふって大股に歩いて行く。東間は、小吉の着ている御紋服がまことに恐れ多いというような風《ふう》を装って、少し腰をかゞめて直ぐうしろに従った。  寺の門を潜るとみんなこれを見た。俄かに汀に波の寄せるようなざわめきが起きたと思うと、忽ちそれが人の渦を巻いた。  小吉はその辺に人の居る事などは目にも入らぬという態で正面《しようめん》切ってどん/\本堂へ近づいて行く。  百姓達は、ばら/\ばら/\先きを争って蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。庫裡へ駈込む者もあれば、裏手の竹林へ飛込んで行く者もある。が、本堂へ入ると、奥の方に茂左衛門がたった一人落着き払って目玉をぎょろ/\させて坐っていて、じろりッと入って来た小吉を見上げた。小吉は突立ったまゝで、いきなり叩きつけるような凄い大きな声で 「百姓、頭《ず》が高いッ」  と怒鳴りつけた。  茂左衛門は流石に動悸っとした。 「土百姓奴、三つ葉葵の御紋服が目に入らぬか」 「は、はっ」  このひとことで茂左衛門は一度がくんとのけ反って今度はぱっとうつ伏したが、もう口も利けなくなった。 「御紋服に無礼の段、許さぬぞ」 「お、お、お待ち下され、お許し下され」  がく/\しながらやっと畳へ肱でからだを支え慄え声で手を合せた。   御肴  小吉は睨み下ろして 「茂左衛門、はじめて正体を現したな。村方をあおり立てる張本人はお前だと、おれは初対面からそう思った。狡い奴の顔はすぐわかる。ふん、みんな逃げたに、こうして一人が残ったは、おれに何にか云い分があっての事だろう、聞いてやる、申せ」  といってからまた一声張った。 「だが、気をつけて口をきけ。御旗本は伊達に刀はさしていないぞ」  茂左衛門は、口を利けない。慄えがだん/\烈しくなって、襟首を見ると、蝋のように真っ蒼だ。  小吉の肩がちょっと上った。鼻で笑っている。 「今日のところは許してやる。二度と百姓共を煽ったりしたら、今度こそ首はない。しっかりと性根を据えて動け」  そのまゝ小吉は踵をかえした。東間が何んだか気ぬけの顔つきで首を突き出すようにしてついて戻った。途《みち》で 「先生、あれはもう参りましたろうか」 「さあ。どんなものか。大川丈助がように唯の狐ではなさそうだが、いかなものでも御紋服には恐れ入る」 「まるで気を失ったようでしたな」 「おれもいさゝか気味悪くなった。脅すを止したが、あれの襟ッ首が、おれが大嫌いな鯖の肌に見えて、ぞッとした——おゝ東間、あれは鳶だろう」  空高く鳶が輪を描いて流れている。青い空に銀色に二本の筋のような雲の間をくゞって飛び交うように二羽いる。  こんな事があって二日ばかり経った。代官が 「茂左衛門がお寺の本堂で倒れて、戸板で自分の家へ送られそれっきりずっと寝込んでいるそうです」  と告げた。 「百姓が余り近々と御紋服を拝したからだろう」  小吉はおかしかった。  次の日また代官が 「茂左衛門は思った程悪くはなく、見舞の者が頻りに出入をしている」  と云う。 「先ずそんなところだろう」  と小吉は平気で 「ところで日和《ひより》もよし、今日は大阪へ出て来る。後を頼みます」  と、間もなく、五助一人を供につれて発足した。  一と晩泊って帰って来た。 「大阪はどちらへお泊りでした」  と代官がきいた。小吉は顎を撫でながら 「何あにね、西町奉行の堀伊賀守利堅は子供の時分からわたしの剣術の相弟子でね。江戸では極く懇意にしたものだから、こんな近く迄来て知らぬ顔をしてるもどうかと思ってちょいと逢いに行ったのさ」 「お、お、御町奉行様があなたの——」 「いやもう大層よろこんでね。どうしても泊って行け、話もあるというので、とう/\引留められて終った」 「は、は、然様でございますか」  代官山田新右衛門の顔色がちらっと変った。 「逗留中はちょい/\来て、剣術の手直《てなお》しをしてくれというが、実はこっちはそれどころではないといって、岡野の話をしてね」 「は、はあ、はあ」 「それに伊賀守は岡野の隠居江雪とは先代の小四郎様が碁敵で滅法懇意だ。この岡野の事で、金を借上げに来ているが、僅かな物がなか/\出来ず、困っている、といったら、伊賀守はそんな事はあるまいといっていたっけ」 「はあ」 「わたしもいよ/\困ったら伊賀守にでも泣込むつもりだ」  この話が、何処をどう廻ったものか、忽ちの中に村中にまるで野火のように凄い勢で広まった。  その日東間が妙な顔をして 「先生が堀伊賀守様と御懇意なら、その方からの鶴の一と声ですぐお話が纏まりましょう」  という。 「伊賀守は相弟子、おまけに用人の下山弥右衛門というのは、本所《ところ》のもんで、おれがいろ/\と世話をした云わば身内のようなものだが、おれは偉い奴に物を頼むが嫌いでねえ」 「ほう」 「町奉行の力を借りれば、この村から五百両千両、泣いたって吠えたって借上げるは世話はねえが、おれはおれの力で飽く迄借上げてけえる気よ」 「それも面白い」  と横にいた堀田甚三郎が手を打って、わたしのこれ迄の生涯にこんな面白い事はない。すっかり勝先生に惚れましたといった。 「へん、汚ねえ奴に惚れられたものだ」  三人でどっと笑って終った。  三日目である。  百姓が一人、代官のところへ飛んで来て、振返り振返り指さし乍ら頻りに何か報告をしている。  それが、丁度小吉の居座敷から見える。くすっと笑った。  冬枯れの村道を十人余りの供廻りで、吊台《つりだい》の荷を担ぎ、立派な侍が先立ちでこっちへやって来る。その村道《むらみち》に沿ったあちこちの家から、百姓女子供迄があわてて飛出して、わかりもせずに唯お辞儀をしてこれを見ている。  一行は真っ直ぐ代官陣屋の黒い門を入って来た。 「大阪西町奉行堀伊賀守より、当屋敷御逗留の勝小吉先生まで御使者でござる」  と玄関で切口上で呼んだ。  取次が出て代官が出て、小吉の居座敷へ伝えに来た。 「伊賀守が田舎で口に合う品もないだろうから送るとそういっていたから、有難く頂戴して置けばいゝのだ。何あに、おれが出る迄もない。東間、お前、出て頂戴して呉れ」 「承知いたしました」  代官は、それでは御奉行様に御無礼でありましょうというような顔をして、眼をぱち/\している。  東間が出て行って、使者の侍に応対した。対手はひどく鄭重に粗末な品乍ら勝先生にお召上り下さるようというような口上を述べて、吊台をそのまゝ置いて引返して行った。  大阪を離れる事僅かに二里半だが、数え切れない程の箱肴だの盤台|盛《も》りだの、村はじまって以来、見た事もない立派な料理が山のようであった。  代官は元より、門の外から百姓達が、怖る/\そうーっとこれを覗いている。  百姓達は首を縮めた。 「あの勝様というお方は御奉行様と御懇意だ。み、み、みんな、茂左衛門旦那の指図で、竹槍などを担ぎ出して、飛んだ事をして終ったなあ」 「お目に留った者はまご/\していると、その中に首を斬られるようなことになるかも知れない」 「だから、わしらは、大丈夫か/\といったんだ。困った事になった。茂左衛門旦那はわずらってるし、おれらまあどうすればいゝんだ」  そっちに一とかたまり、こっちに一とかたまり、こんなひそ/\話をしているのを、東間や堀田が外へ出る度にちら/\耳にするようになった。  小吉は、代官に居座敷へ来て貰って 「伊賀守は二千五百石、しかも御奉行だ。大仰に出来ている。しかしこんなにむごく肴を貰っても、われ/\だけではいくら冬でも腐らせるだけの事よ。山田さん、この肴はね、みんなあなたに任せるから、あの茂左衛門というのが患っているというし、少々そっちにも見舞にやり、あなたの御親類や村役の者、余ったらそれ相応のところへわけてやっていたゞき度いね」 「誠に見事な御肴には驚き入りました。お言葉で村方の者がどのように喜びましょう。有難い事です」  村中の者がこの肴を、御奉行様の御肴だといって、神棚へ供えてから、頂いて食べたという話を、五助と縫箔屋があっちこっちで聞いて来て報告した。顔を見合せて 「もうこっちのものだ」  と東間が堀田へ囁いた。 「これではいかなしぶとい百姓でも金を拵えなくてはなるまいな」 「先生はもうちゃんと見通しはついていられるんだが、面白がってからかっていられるようなところも大きにあるねえ」 「そうでもなかろうが」  と東間は一寸考えて 「いろ/\手はあるといったね。あゝいう言葉をおれははじめて先生からきいた。考えて見るとお前さんの云う通り先生は狡猾な奴らを対手に遊んでいるのかな」 「百姓らも満更の馬鹿ではない。下手をやって一揆にしては、御旗本の知行所だけに自分らの首が危ない。精々竹槍を担ぎ廻る位のところだから、わたしらもまことに面白い」 「江戸で狐ばくちの用心棒をやり、先生のようなお方に睨まれるよりはなあ」 「はっ/\は。そ奴は云わぬ事、云わぬ事」  堀田が手をふった。  その堀田甚三郎唯一人が供を仰せつけられたのは、それから三日後ちであった。小吉が出しぬけに能勢《のせ》の妙見大菩薩への参詣を云い出したのである。  江戸でよく世話を焼いた大横川の妙見の御本体で豊能《とよの》の郡東郷村の南、妙見山上に鎮座している。御願塚からは池田村へ出て登りだが五里ちょっとの道程《みちのり》だ。  代官は 「勝さんは妙見を御信仰ですか」  という。 「そうだ。就ては山田さん。神仏というはどういうものか見せて上げたい事がある。今度いろいろわたしに敵対をした悪徒共だけ一人撰りにして行きたい。茂左衛門は病気なれば詮方もないが——。あなたも迷惑だろうが一緒をして下さい」  代官は少し迷惑そうな顔をした。 「わたしはね、今日は岡野孫一郎の家来では行かない。もう知ってる事だろう。御旗本勝小吉で行くのだ」 「は」 「御紋服だよ。無礼をされては、そっちはどうでも、わたしは腹を切らなくてはならないからね。そのつもりで」 「はあ」  代官はいよ/\顔をしかめた。しかし供をしないという訳には行かない。その上小吉がまた妙な事を云い出した。  空は青々と晴れている。それに一同雨具の用意をせよという。  代官は笑い出して 「勝さん、此節は日和がよろしいので五、六日は先ず雨は降らんでしょう。雨具は不要です」  といった。 「いや必らず大雨がある。わたしが祈ると必らず雨が降る。みんなへ雨具は是非持たせなさい」 「真逆そのような——」 「もしも降らなかったら、わたしはその日の中に早々に江戸へ引揚げるよ」  代官ばかりではない。堀田も狐につまゝれたような気持で、間もなく代官陣屋を出発した。村方の百姓が七人。それに荷物持が一人、雨具を引担いだ供が一人ついた。  小吉は途中でまたちょっと足が引吊って、ふら/\と前倒《のめ》りそうになった。堀田が心配して寄るのへ 「やっぱり脚気がよくなさそうだが、何あに妙見へ祈るとすぐに癒る。それ迄は少し億劫《おつくう》だから駕にしよう」  小吉は池田村から駕にした。 「おい、堀田、おれが刀の池田鬼神丸国重は、先祖から代々この地で鍛えている。ちょいと寄って見たいが、からだがこんな醜態《ざま》だから寄れないは口惜しいよ」 「そうですね、何れにもせよ御無理をなさらぬがよろしいでしょう」  池田で少憩、これから妙見山の登りが次第に急になる。麓の茶屋で駕を出て、頂上まで廿五丁ある。いゝ塩梅に暖かで、御紋服の袷一枚で、肌の襦袢がびっしょりと汗になった。  登るに従っていゝ眺めだ。大阪、尼ヶ崎、摂津の浦々が絵のようだ。堀田が心配顔にそっと寄って来て 「先生、雨の模様はありませんね」  と低い声でさゝやく。 「黙って見ていよ。おれが祈りがどれ程のものか今に肝をつぶすだろう」 「そうですかあ」  首をふった。代官をはじめみんな、内心では、このお天気に雨など降って堪るものか——笑っているのだが、何しろ小吉は御紋服を着ている。妙な様子でもしたら手討にされても文句は云えない。遠巻きにしてやがて妙見の本堂へ着いた。天明七年に能勢頼直というのが本願したという僅か十一坪余の建物だが、何処となくどっしりとしている。  小吉はいきなり水行堂へ入ると 「おい、堀田、謹しんで御紋服を捧持せよ」  といったと思うと、あっという間に素っ裸になって、寸刻の猶予もなく忽ちざあ/\と水垢離をとり出した。江戸でいつも馴れている。  村方の者はあっけに取られて固唾を呑んだ。   白い椿  小吉は水行を終り、御紋服を着て肩を張って静かに本堂へ上って行った。堂には十三、四人も参詣人がいて何にやら頻りに祈っていたが、小吉の御紋服を見ると、みんなあわててこそ/\と尻込みして堂の外へ逃げ散って終った。  小吉はずばりと本尊の正面へ坐って、拝んだ。流石に形が極って何んとなく威がある。堀田をはじめ代官や村方のもの達も、ずっとうしろからこれを見ていたが、時々、小さくからだを左右にふったり、頭を下げたり上げたりする様子が、みんなにはだん/\妙にこう不気味な妖気というようなものを感じさせて来る。  小半刻余の祈りがつゞく。堂内はしーんとして水を打ったようだ。小吉は、ぱっとうしろへ飛びすさった。みんなぎょッとする。と同時にこっちへ向いて 「さ、拝《はい》が終った。帰る」  じろりと一瞬に閃めくように目を配った。  間もなく山を下った。行逢う人達が御紋服におそれて、道をよけて土下座をするものなどもある。  この下りの道の中頃まで来て、小吉が代官を見て急ににや/\した。 「山田さん。あれを見よ。あなたは日和だから五、六日雨は降らぬといったが、有馬の六甲山から雨雲が出て来たではないか」  指さした。如何にも今迄拭ったような青空に墨をぶっつけたような真っ黒いものがぽたりと湧いて来ている。 「合羽持の男はもうすぐ荷が軽くなって仕合なことだね」 「はあ」  と代官はいったが、村方の一人が少し口を尖らせるようにして 「例え雲が出ても雨は降りませんでございます」  と口を入れた。 「はっ/\。そうか。その言葉を忘れるな。どっちにしても、山下の旅宿までは降らせたくないものだ。堀田、急ごう」  小吉はとっ/\と踵《かゝと》で踏みこたえるようにして、急ぎ足になった。そうしている間にも、あの雨雲が忽ちにして、空一面にひろがって来た。小吉は肩をゆすって笑を堪えた。四、五丁下りると、そこにさっき乗捨てた小吉の駕がある。これへ小吉のからだが入ったか入らないに、もうぽつりぽつりと大粒な雨が落ちて来た。 「お、雨ですね、山田さん」  堀田がそういった。 「はあ」  代官は妙な顔をして村方を見廻した。みんな眉を寄せて、いやあな顔をして、云い合せたように首をふって考え込んだ。  ぽちりと落ちたと思ったら、あっという間もなく盆をくつがえしたような雨になって、同時に、ざわ/\と谿《たに》を鳴り渡って風が吹いて来た。  山を下りたところから旅宿《りよしゆく》まで三丁余ある。小吉は駕だが、外の者は、こゝへ着く迄にずぶぬれになって終った。  旅宿の土間で堀田が 「不思議でございますな」  といった。小吉は 「何にが不思議なものか。御旗本が祈りの拝《はい》をすると妙見菩薩は必らずききとゞけられるのだ。それにしても風がだん/\激しくなって来たな」 「は。ひどい吹降りで、おまけに大層冷えて来ました」  篠つく雨を、風が左し右し、次第に物凄い。  それっきり夜になっても止まない。  小吉は炬燵を入れさせて向い側に堀田が入り 「粒撰りな悪徒の百姓ばかりが来ているのだ。いつ何にをやり出すか知れない。油断をするなよ」 「先生、そんなお考えで、いつも刀を側近く置いていられるのでしたか。何あに、あ奴らもうすっかり屈伏して頭をかゝえて居りますよ。さっきもごた/\話しているのをききますとな、勝様とおっしゃるは誠に奇妙なお方だ、雨の降るのを出発の前から知っていられた、御旗本というは違ったものだ、お祈りをなさると立ちどころに神様の受納があると見える。此方が百日詣ってもこんな事は出来ないなどといって居りましたよ」 「どうだ、お前もわかったか」 「へっ/\へっ/\」 「何にがおかしい」 「しかし先生は全く不思議なお方だ」  夜っぴて風が唸り、雨が降った。明方の|七つ《よじ》になって、やっと、風が静かになったと思うと同時に雨がぱたりと止んで、朝は嘘をついたようないゝお天気になっていた。  小吉は相変らず駕で帰る途中多田権現へ詣った。今の多田院《たゞのいん》、源満仲の廟のあるところで鷹尾山法華三昧寺だ。流れの水が綺麗で山又山がつゞいている。平野の出湯《いでゆ》も近く、昔銀を掘った名残が、思いがけない山の中腹にひょっこり口を開いていたりしてとても景色のいゝところだ。その日の|申の刻《ごごよじ》時分に御願塚へ帰って来た。 「疲れたわ」 「余りお顔色がよろしくありません。すぐおやすみなさっては如何でしょう」 「そうしよう」  東間のいうまゝに、風呂へ入るとすぐに床を敷かせてねて終った。  夜になって代官が機嫌伺いにやって来て少し声をひそめて 「いやもうあの雨の事で村中はすっかり驚きましてな。あゝいう偉いお方とは知らなかった。これは茂左衛門旦那が何んと云ってもどうかして金を拵えなくてはならぬと、どうやらそれが出来そうな気配になって来ました」  小吉は、そうですか、と然《さ》り無げに 「この村方は滅法な百姓ばかり揃っている。あなたも定めし日頃お骨の折れる事でしょう」  といった。代官が帰って東間と堀田が 「いゝ事になりましたな」  と喜んで入って来た。  小吉は渋っ面をして 「お前ら、とんとお人好しだな」 「でも」 「狐がような百姓だ、いつどう変替《へんがえ》するかわかるものか」  そういった通り、次の夜、代官がまたそっとやって来て告げた。 「村方が二つにわかれました。金を出そうというものと、出すまいという者でやかましく争っています」 「出すまいというは茂左衛門の一味だろう」 「そうです」 「よし/\。まあほったらかして置け、成るようによりは成らない事だ。詰《つま》りの考えはおれにもある。その時に目に物を見せてやる」  次の朝、小吉はひどく早く起きて、こんどは堀田一人を留守に置き、東間と五助、長太の三人を供にして大阪へ出て行った。  途で 「お前らも毎日の骨折だから今日は日本橋で芝居を観せてやる」 「え? 芝居ですか」 「帰るのは明日の昼だ。お前ら芝居を観たら、旅宿《はたご》で充分に酒を飲め」 「へえ。で、先生は」 「おれは奉行がところの下山弥右衛門へ行って来る」  一度旅宿へ着いて、こゝからみんなは芝居へ行き小吉一人で下山のところへ行った。  次の日、みんな平気な顔で御願塚へ帰って来る。村方を通ると、もう大阪行の話が隅々まで伝わっていると見えて、きょろ/\した眼つきでこっちを見て、不意に鄭重なお辞儀をしたりした。  その次の日の朝だ。  この前のような御肴の荷が大阪からやって来た。おまけに、堀伊賀守の手紙がついて来た。前と同じに御肴は代官をはじめみんなへ分けてやって、その度に、堀田がその手紙を一くさり宛読んできかせる。 「どうだ、勝先生御膝下へと書いてある。此度の件村方について余り苦労ならば何んなりと申し伝えてくれというのだ。お前らは、御奉行様の御手蹟など拝した事はないだろう。謹しんで拝見しろ」  目八分に捧げて、これを見せる、村方の者は誰一人、まともに顔を上げる者は無かった。 「ところで茂左衛門はまだ病臥か」  一人へきいた。 「はい。その後余りおよろしくないようでございます」 「そうか。それはいけないな。が、実はな、今日は勝様の御内の御悦事《およろこびごと》がある。村方として祝着を申さなくては相済まん事だから、戸板にのっても是非参るように申伝えよ」 「はい」  代官が直ちに、堀田へきいた。 「今日勝さんの御悦事と申すは本当ですか」  堀田はもっともらしい顔をして 「お、そう/\、今あなたへ申そうとしていたところだ。その通りです。今日は申刻《さるのとき》過ぎから村方一同へ御酒を振舞われるについて、入用をあなたにお渡し申して尼ヶ崎から上等の酒肴を買って吸物その外万事念を入れて拵えていたゞくよう申付けられて居りました。献立書はこれです」  云い乍ら、ふところから堀田が例の達筆で大きな紙へ書いたものを渡した。 「今日はこれから伊丹の牛頭天王へ参詣されるから、早く風呂を焚かせて下さい。お顔もよく当り、髪を結えと、家来へ申しつけて居られた。御悦事と申しても並々の事ではなさそうですな」 「はあ。如何なる御悦事?」 「それはわからない。わたし共にも仰せにならない」  百姓達や代官が引取った後で小吉は居座敷の方をすっかり片づけさせて、やがて風呂へ入ると、みんなを連れて出かけて行った。  途で東間がきいた。 「先生、今夜は本当に何にかあるのですか」 「あるとも」  と小吉は大声で笑って 「おれが面白い芝居をして観せてやる」 「え?」 「何があっても驚くな。妙見の時は滅法うまく行ったが、今夜は芝居とは云え、のっぴきならなくなるとおれが命にかゝわるかも知れねえ」 「えーっ?」 「そうなったらお前ら、おれが舎利を持って江戸へけえれ。小吉が、みんなへの約定を果せなかった為めに、こういう姿になってお詫をしているといってな——第一が無理をさせ四十両借上げて来た武州の知行所の次左衛門に見せるのだ」 「い、いったい何にをなさるお気ですか」  流石の東間も泡をくった。 「幕が開く迄待て。だが伊丹での買物は諸麻《もろあさ》の上下と白無垢だ。はっ/\、おれがお前らの前で、切腹を見せる」  みんな、眼をぱち/\して息が止った。  小吉は笑い乍らどん/\歩いて行く。追いかけてきくが、笑うだけでもう何んにも云わない。  伊丹の呉服屋白子屋で買物をした。上下|三具《さんぐ》、白無垢二つ、岡野の紋付の羽織も頼んだが、これはすぐには出来ない。その日の|八つ《ごごにじ》迄に——但し紋は岡野の家紋|鳩酸漿《はとほおずき》の染抜きは間に合わないから|こくもち《ヽヽヽヽ》という事で拵えて置く。それでは家来がとりに来るからという事になってすぐに帰路についた。代官陣屋へ帰ったら|午の刻《じゆうにじ》過ぎていた。  小吉は、堀田へ 「座敷の床の間へ白い椿の花を生けろ」  と命じた。いかさま儒者だが、堀田は心得があるし、伊丹から戻りの道々で大体の芝居の筋書も自分なりによめたような気がしたので、云いつけられる通り白い寒椿を生けた。 「うめえな。花瓶の肌へ白い色が映っているところが実にすが/\しくていゝよ」  と小吉が首を曲げてよろこんで堀田を見た。 「江戸へけえったら、足を洗え」 「そうは行きませんよ」 「どうしてだ」 「どうしてでございましょう。それはわたしから先生へ伺います」 「へん」  小吉はそれっきり黙った。  そうこうしている中に村方の者達がぞろ/\と代官陣屋へやって来た。料理もすっかり出た。|七つ半《ごじ》になって、まだ真っ青な顔色だが、百姓の肩に助けられて茂左衛門も来た。眼が少し吊上って余っ程の決心をしているらしかった。みんなを白い椿の生けてある座敷へ招き入れた。忽ち村方で一ぱいになった。  小吉はいつもの服装でにこ/\しながら出て来た。 「やあ、みんなよく来てくれた。わたくし事の悦びで、招いたところ一同揃って、まことに忝けない。今日は一つ自分の家にいるつもりで、くつろいで呑んで貰いたいのだ。茂左衛門、先ず、そなたから一盃進ぜよう」  小吉は盃を持って前へ行った。東間が武骨な手つきで酌をした。  外は次第に薄暗くなる。風もなく、星がきら/\しだしたのが、障子を開けた空に見える。 「充分に飲んで、追々と隠芸もして貰いたいな。わたしも江戸の吉原で覚えた流行歌《はやりうた》を歌おう。もう上下《じようげ》無く打ちとけて倒れる迄のんでくれよ」  だん/\酒が廻って来る。  その中に妙な|どら《ヽヽ》声で泥っくさい草唄を歌い出す者が出て来る。小吉が吉原の唄をやる。東間も堀田も踊ったりした。五助も長太も猪牙《ちよき》で行くのはの住吉を踊った。が辛いのは縫箔屋の長太、酒は堅く禁じられているのでしらふで酔った真似だ。  百姓は次第にがぶ/\飲み出す。安莨を吸う。座敷の内はもう/\として、息苦しい。こうした村方取持にくたびれた東間と堀田が云い合せたように二人、庭へ出て並んで小便をした。 「百姓共、金の話とは違って、一文の銭も出ねえ馳走酒だから、喜んで喰っていやがる。あんな奴らの機嫌などをとっているのはわたしはもう嫌やになった」  東間が、如何にも忌々しそうにいった。   侍の最後  堀田も同じようなしかめっ面をした。 「如何に馳走酒だといっても、よくまああゝがぶ/\恥も外聞もなくのめるものだ。しかし本当は、そんな事より、一体先生はこれから何にを遣り出されるかその方が心配ですねえ」 「そうよ。妙見の時だってうまく雨が降ったというから良かったようなものの若し降らなかったら、どうなさるお気《つもり》だったろう。先生のなさる事はいつも奇想だからね」  東間がそういうと、堀田は笑い出して 「雨が降らなかったら、お前ら、がや/\ぬかしやがって、人を軽んずるから神様がこっちの拝《はい》をお受けなさらない、お前らは太い奴だと、|むき《ヽヽ》に見せてお叱りなさる肚だ。よく怪しげな祈祷坊主などのやる手で、先生はお終いのところ迄、ちゃんと筋立をつけていると、わたしははじめから睨んでいたら、案外うまく行きました」  といった。 「しかしだな」  と東間は 「先生だって魔法遣いではない。どうして雨が降ったのだろう」  首をふった。 「それはわからない。だが、先生の祈りと、雨とは何んの関係もなかったのでないですかねえ」 「はっ/\はゝ。おい、堀田、そんな事をいうと先生に張りとばされてすぐに破門だが、真実《ありよう》はそんなところかも知れないなあ」  二人が暗い中で暫く深い息をして、座敷へ戻ったら、酒は片づいて村方の者は今度はみんな茶漬を振舞われていた。  やがてみんなくど/\と礼を述べて次の間へ退る。小吉は、堀田へ 「さっき申した通り仲間《ちゆうげん》に、水を汲ませて、庭先へ運ばせろ」  と云いつけた。今日新しい手桶を三つ買わせてある。 「は」  堀田が立って行く。すぐに仲間が手桶を運んで来た。  小吉はまた素っ裸になった。庭へ下りると、その桶の水をざあ/\と浴びた。木曽路この方、からだの調子は余り良くないのは知れている。それなのに——と五助や縫箔屋は泣きべそをかいて、水のとばっちりの来るようなところにしゃがんでおろ/\している。  充分浴びると、座敷へ上って、東間や堀田に手伝わせて出来たての白無垢を着て、その上へ葵の御紋服を付けた。座敷の真ん中へ蒲団を重ねて敷き大きな蝋燭をともした燭台を左右へ並べさせた。蝋燭の火がぽか/\と瞬くように揺れる。  床の間の白椿が薄昏《うすぐら》い中にくっきり見える。 「おい、みんなを呼べ」  堀田が酔った紛れに銘々に勝手な事をがや/\いってまだみんな帰らずにいる一と間へ行った。 「御代官をはじめ村方の皆々、勝様から申渡される事がある。一同、御座敷次の間まで出られますよう」  と声をかけた。代官は一度頭を下げたが、みんなをちらりと見渡して 「仰せではありますが、このように御馳走を頂戴いたしすぎてまして村方の者は何れも酩酊《めいてい》している。仰せ渡しは明日にしていたゞき度いが」 「いや、それはいけません。明日は大阪の堀伊賀守様へ参り、四、五日あちらに御逗留の予定だ。こうして一同寄っていられるこそ幸いだから、是非座敷へ出て、謹しんで勝様の仰せ渡しをきかるべきでしょう」 「そうですか」  暫くして、とにかく、みんな次の間へ出て来た。茂左衛門は苦虫を噛み潰した顔つきで、代官山田新右衛門のうしろに隠れるように首をたれている。  堀田が次の間から 「一同、出まして御座います」  と座敷へ声をかけた。小吉の目配せで東間が立って来て、間《あい》の唐紙を左右にさっと開けた。ふと見ると、さっき迄の唄をうたったりしていた小吉とはがらりと変って、御紋服着用の肩の張った姿である。 「はゝーっ」  代官をはじめ、みんな平蜘蛛のように平伏した。  小吉はじっとして口を開かない。みんな首筋を、ぎろりと大きく光る小吉の眼に射りつけられているのを感じた。  代官が一度、顔を上げようとしたが、たゞ上げようとしただけで、またいっそう畳へ顔をくっつけた。しーんとしている。  小吉が口を切った。 「外の事でもない」  それっきりまた暫くじっとしている。みんな何んという訳もないのに、重い物を頭の上へぐんぐんぐん/\積み累《かさ》ねられて行くような気持がして、息苦しくなって来た。 「先頃から、皆々の地頭岡野孫一郎が此度の大川丈助一件の思いも及ばぬ災難について申述べ懇《ねんご》ろに金談に及んだが、皆々は下知の趣を聞入れず、地頭を甚だ軽んじている。誠に以て不届千万。此上申すも無駄であろう。よっては、唯今を以って、金談は相断るから左様心得よ」  小吉は早口にそういって 「茂左衛門、どうだ」  と重ねた。茂左衛門は、顔を上げない。しかし低いがはっきりした声で 「有難う存じます」  と答えた。  小吉は、茂左衛門を見下ろした。 「有難いか」  といってから 「もうお前《まえ》らも察したろうが、わたしは岡野の家来ではない。御旗本だ。御旗本というはどんなものか、お前ら妙見の雨で知れたろう。どうだ、知れたか——それとも知れねえか」 「へゝーえ」  村方の者は、古ぼけた畳へまるで人の背中を敷き詰めたようになって終った。 「その御旗本が岡野の余儀ない頼みで、病気のからだを無理をして上《のぼ》って来た。言葉を低く、頼んでいると、今迄の用人と同じに見くびって更に取合わねえ不埒者奴。それのみならず御旗本に対して、寺の鐘を打ち、一揆同然の竹槍三昧、聞捨てならぬ雑言も度々《どゝ》だ。何んと心得て左様の扱いに及んだか、その仔細をきこう。さ、答えて見よ」  が、答えるどころか、身動きもしない。 「次第によっては堀伊賀守へ談じ、厳しく糺明する。さ、性根をすえて挨拶に及べ。茂左衛門どうだ。お前は御願塚一の智慧者というが、田舎ッぺえの猿智慧をどれ程の物だと思っている。さ、速かに挨拶に及べ」  茂左衛門の首筋がぴく/\と動くだけで、顔も上げない。  小吉が見ていると、ぽたりと涙が一つ畳へ落ちた。  隣りに坐っているのが、顔を伏せたまゝで小さな声で茂左衛門と何にか囁き合った。そしてその男の方が怖る/\眼を上げて 「此段はわたくし共が重々の心得違いでございました。何卒御慈悲にお許し下さいまし」  といった。真っ青で生きている人間のようではない。ぶる/\慄えてかち/\歯が鳴っているのである。小吉はそれを見ただけで急にこう、何んだか可哀そうになって終った。いろ/\苛《いじ》めつけてはいるが元々は孫一郎が悪いのだ。五百石の知行所から七百両の余も借上げて、今度また少なくとも五、六百両位は出させようという。考えるとこっちも気がひける。が、何分にも切羽詰っている。邪であろうと非であろうと、このまゝ引揚げては行けないのである。 「お前らは慾の外には何にもない、隙があれば支配であろうが地頭であろうが馬鹿に扱おうとしている。が、考えて見ると目先のことよりは見えない根が大の愚昧者だ。許してやろう」  といってから 「しかし山田さん」  代官へ真っすぐ向き直った。 「百姓共の騒動の無礼は許してやるが、あなたをはじめ村役人に別段の頼みがある、きいてくれるか」 「はあ」  やっと返事をした。代官も最初《はな》っから小吉の剣幕に胆を失っている。 「外でもないが、今度は金が無いといよ/\岡野は潰れる。百姓共も代々この土地に安住していられるは岡野の恩ではないだろうか。自分の算段ばかりをして目前に主家の潰れるを見て平気とは禽獣にも劣るとわたしは思うがどうだろう」 「は、はい、はい」 「千両や二千両の金は、一言堀伊賀守へ頼めば直ぐにも出来るのは知れている。が岡野が潰れ、殿様の孫一郎が地借をして肩身を狭く世を送るとあっては元の知行所の百姓共も余り大きな顔は出来ないのだ。世の笑い物、義心の者には唾を吐かれる、わたしは村方の者にそんな思いをさせたくないから、金談を持ちかけ、その功名にしてやりたかったのだ。が、それもこれも今は無駄である。あゝ——おれの志は無になった」  言葉を切った。そのまゝで、またずいぶん長い間重い沈黙をつゞけた。 「といって、おれはこのまゝで江戸へ帰る事には行かないのだ。見す/\岡野の悲惨を知っていながら、駄目だったと御旗本がどの面で御膝下《おひざもと》へ帰れる。よって、今夜此処で自殺をして江戸へ申訳を立てる」 「えーっ」  座敷の隅から隅まで何にか噴出すようなざわめきが起きて、村方の者はみんなほんの少し顔を上げた。 「山田さんや村役の者、まして茂左衛門へ頼みたいというはこのわたしの死骸の事なのだ」  山田も村役もいよ/\歯の根が合わない。 「わたしの伜麟太郎というは日本一の剣術遣い男谷精一郎がところで修行をしている。わたしが死骸はこの辺の地に埋めずに江戸表へ運んで斯々《かく/\》の次第で自殺をしたと詳しく話して引渡してやって貰いたいのだ」  小吉はまた黙った。 「それから——おい、堀田、お前はさっきおれが此度の一|埒《らち》を詳しく認めたあの手紙を持ってすぐに江戸表へ出発し、岡野孫一郎へ渡して呉れろ」  また黙った。 「東間、お前はかねて約束をしてある通り、|たいぎ《ヽヽヽ》だろうが介錯をせよ。その上で江戸へかえり、おれが妻子へよく此一条を話して呉れろ」  また黙った。寺の鐘が鳴った。さっき迄星が出ていたのに、妙にこう暖くなって雨がぱら/\と落ちて来た。 「五助、長太。お前らにはおれが預けてある金はみんなやる。明日にも立退いて心のまゝにするがいゝ」  小吉はそれから、今度は厳しい声でまた 「山田さん」  といった。  代官はいきなり脳天をぶたれたようにぎくっとした。 「はい」 「最早この上云う事はないが、わたし如きが血で御紋服を汚しては恐れ多い。一先ずあなたが預って、わたしの死骸と共に粗相のないよう江戸へ届けて貰いたい」  小吉は、ぱっと御紋服をぬいだ。内は白無垢である。堀田が心得て傍から広蓋《ひろぶた》を持って進んで御紋服を受ける。咄嗟《とつさ》に小吉は刀を東間へ渡して 「性根をすえて静かに首をぶち落すのだぞ」  そういってから、じろり/\とみんなを見渡した。 「頼み事は相違無く心得ろ」 「は」  堀田が平気な顔でいった。小吉は脇差を抜いて、用意をしてある白木綿で巻いた。悠々として 「こら一同、許すから顔を上げて、御旗本が自殺をよく/\見て置け」  と今度は調子高に怒鳴りつけるようにいって、白無垢の胸をひろげ脇差を取直した。 「か、か、勝様」  代官が真っ先にその手許へすがりついた。東間と堀田は、思わず顔を見合せて、にやりとしそうになって、あわてた。 「侍の最後に邪魔するな」  小吉は叱りつけると代官はひるんだ。 「東間、介錯しろ」 「は、はっ」  しかし東間は今度は平伏したきりになって顔も上げない。 「馬鹿奴、たった一人の首をぶち落すも出来ねえか」  大声で叱った。 「はっ」  東間は是非ないというような顔つきでやっと立って、うしろへ廻って、すうーっと国重の刀を抜いて、静かに右肩に|※[#「木+覇」]《つか》を押立てるように構えて行った。二尺九寸五分、重ね厚の刀は淵のように青い肌だ。  茂左衛門と外に村方の者二人、一方からは代官が押しかぶさるように東間へかじりついて行った。外の三人が気違いのように、小吉の腕へしがみついた。 「し、し、暫くお待ち下さいまし、一同が一言申上げる事がござります」  堀田がそれに間髪をいれず、横から 「早く申上げろ」 「へえ」  茂左衛門が、はあ/\急《せ》わしく呼吸をしながらいった。 「先達より仰せの儀は残らず畏まりました。わたくし共、家財を売払っても確と御受け仕りましたから、ど、どうぞ、御生害の儀はお留まり下さいまし。お願い申しまする」  小吉は苦笑した。 「今になって何にをいう。心を落着けおれが自殺の態を見よ。邪魔だ、手を放せ」  振払った手が、力余って、うしろ脇に東間へしがみついていた代官の膝の辺りを打った。代官はよろよろっとしてそのまゝどかーんと尻餅をついて、何にか云おうとして口をぱく/\させている。腰が抜けたのだ。   気合《きあい》  暫く深い息をしていたが、涙がぽたり/\と頬をつたって落ち出した。茂左衛門もその外の百姓達も死人のように息が詰っている。 「か、か、勝様」  代官が子供のようにしゃくり上げて 「わたくしが悪いのです。かえり見れば御代官を勤め乍ら何事も行届かず、この仕儀になりましたはわたくし重々の不重宝《ぶちようほう》です。このお詫にはわたくしの首を斬って江戸へお送り下さい」  やっといった。小吉は 「何にをいう」  怒鳴りつけて 「此度の事は村方の者が私慾のみにして地頭を軽んずるから生じた事だ。毛頭《もうとう》あなたの為めではない。な、山田さん、わたしが伜の麟太郎というは親がいってはまことに妙だが実によく出来、剣術遣いの間でも先ず鳶が鷹を生んだと滅法な評判だ。末は必ず立派になるとみんなに折紙をつけられた。麟太郎さえあればわたしがように出来損いの人間はどうなってもいゝことなのだ。それに如何な大川丈助もわたしが死んだと聞いたらば、よもやこの上の非道はせず一件も手軽に済ませてくれるだろう。わたしが死ぬ」 「そ、そ、それはなりませぬ。あなたを殺してはこの代官も生きては居られませぬ」  茂左衛門が小吉へ向って手を合せた。 「ど、どうぞお許し下さいませ。さ、宇市も源右衛門もお詫をしなされ」  茂左衛門のすぐ側にいるこの二人の百姓は、茂左衛門の指図で、実際にはこの二人が百姓を躍らせている事は、かねて小吉は睨んでいる。 「おい、お前ら泣いているが、ほんとに詫びる気か」 「は、はい、決して嘘いつわりは申しません。どうぞ御生害だけはお留まり下さいまし」 「よし、人間誰も死にたくはない。お前ら、ほんとに頼むのなら止めてもいゝが、その代りにはお前らが連署で、身命に替えても仰せつけの金子は調達するという証書を差出せ。どうだ、出来るか、出来まいッ」 「いゝえ、出来ます。早速差出します。一寸御免を」  と煽動者三人が座敷の隅へ寄って首を集めすぐに証書を書いて、小吉の前へ差出した。 「就きましては金子《きんす》は何時迄に差上げましたら宜しゅうございましょう」  と茂左衛門は、消え入るような声でいった。 「明日|四つ刻《ごぜんじゆうじ》迄だ」 「四つ刻まで? へ、へえ、畏まりました」 「御旗本の自殺を見るが嫌やなら確と間違うな」 「はい」  堀田が茂左衛門へ顔をくっつけるようにしゃしゃり出て 「こら、こうなると若しお前らが間違ったら、わたしら迄が切腹をしなくては納まらない事になるぞ。そうだろう、侍《さむらい》たるものが勝様の自殺をあっけらかんと側で見ているという事は出来ない。わたしも東間さんも切腹する。詰まりは五助も長太も下郎ながら追腹をするだろう。いゝか、地頭の使者の主従が枕を並べて五人も死ぬ。それでこの御願塚村が何事もなく済むと思うか」 「わ、わ、わかりましてございます」  茂左衛門がもう物を云う気力も無くなっているのか、代るようにして宇市が答えた。妙に鼻の尖った茂左衛門よりも年上の男であった。 「出精《しつせい》しろよ」  と堀田は念を入れてから 「勝様、お聞きの通りでございます。どうぞ御脇差をお鞘へお納め下さい」  とその前に両手をついて頭を下げた。 「そうか、間違いはないな——はっ/\は、わたしは村方の衆に、一命を助けていたゞいた。恩に着るよ」  改めて大きな眼でじいーっと茂左衛門を見詰めた。一、二度息をしたと思ったら、すっと立って、いきなり、床の間へ寄って 「やッ」  凄い気合で生けてある白い椿を、まるで計ったように真ん中から、真っ二つに斬って、脇差を閃めくように鞘へ納めて終った。  花は花弁が一つも散らず、半分はそのまゝ花器の枝に残り、半分が床へぽったりと落ちていた。  次の朝。|四つ《じゆうじ》前に茂左衛門があれから帰ってすっかり寝ついて終ったというので宇市と源右衛門の二人が、三宝へ金を五百五十両載せて、縮むようになって小吉の前へ差出した。源右衛門は、まだ四十前の肥った男だ。これが 「仰せつけの六百両の中残り五十両は、みな様江戸へお戻りの前に、必らず江戸の飛脚問屋|島屋《しまや》までお届け申して置きますでございます」  と口をきいた。 「よし」 「就ては勝様までお願いの儀がございます」 「何んだ」 「はい。御承知の通り、毎年、岡野様おくらし方として三百三十両差上げて居りまするが、来年は此度のお借上もあり、百姓共も難渋仕りますので何卒致して当村方の分は二百両にしていたゞき度いので御座います」  言葉が終るか終らぬに 「馬鹿奴」  と先ず叱りつけておいて 「暮し方は一文の減じもならぬ」  と少し膝をすゝめて、この上、重ねて何にか云ったら、唯事では済まぬというような顔つきで睨みつけて顎を天井へ突出してそっぽを向いた。  こんどは代って宇市がふところから、訴状を出して前へおいた。 「村方一同の者の訴状でございます」 「訴状? 何んの訴状だ」 「御家来の長太様が村方小前の者などを無理にも勧誘し、いかさまの賭博を開帳致しまして、一同合算金子十三両詐取いたされました。よりまして、この金を一同へ返させていたゞくか、当人身柄を村方へお引渡しいたゞきたいので御座います」 「ほう、十三両も欺し取ったか、長太はさて/\良からぬ奴だ」 「はい」 「もう大体、大阪へ上った用件は済んだが、もう少々仕残しがある。これを片づける迄はあ奴はやはりこちらでは入用でな。御用済次第、暇《ひま》を出し、あれの身柄を村方へ引渡し遣す。金をとるなと、或はまた斬るなと殺すなと、当方は一切かゝわらぬからその時勝手にするがいゝ」 「有難うございます」  丁度この時、当の縫箔屋の長太が襖一枚の隣りで東間陳助の着物のほころびを縫っていた。びっくりして、さあーっと顔色が変った。東間が脇に腹ん這いになっていた。 「おい、先生はお前を村方へ引渡すとよ。お前、可哀そうに石子責《いしこぜめ》にでもなるか。悪い事はするものではないな。これがいゝ手本だ。おれもこれからは身を慎しまなくてはならぬ」  といって、肩で笑った。  長太は慄えた。 「と、東間先生、あ、あれは本当でしょうか」 「先生は嘘はつかないから本当だろうよ」 「あたしを百姓へ引渡す?」 「そうだろうね。先生は、お前が百姓共から巻上げたあの金で伊丹へ女を買いに行った事も御承知だから」 「え?」  長太はとう/\泣き出して終った。その声が小吉の方へも聞こえた。やがて宇市、源右衛門が帰ると、こっちへ来て 「長太とも子供の時よりのおなじみだが、お別れだなあ」  といった。 「せ、先生」  長太は小吉の脚へむしゃあぶりついた。 「せ、先生、それは余りお情けねえじゃあございませんか」 「そうかねえ、おれは然様《そう》は思わねえがね。いま、東間と云っていたが聞こえたよ、悪い事をすれば必ず報いがあるとか。この村方も半刻《いちじかん》後ちには、善悪の報いがはっきりする。身分に応じて上下、羽織袴で出頭しろと云いつけたら、あ奴ら、ぎょっとしていたっけ。金は来た。もうこっちは強い一方よ」 「そうですか、何にをなさいますか」  長太の事などは問題にせず、東間がそれをきいたが小吉は答えなかった。  半刻後ちに、代官は上下、総代以下羽織袴で座敷へ揃った。不安がみんなの顔に溢れている。  小吉は突っ立ったまゝで 「地頭岡野孫一郎代理で申渡す」 「ははあーっ」  みんな平らになった。 「茂左衛門、宇市、源右衛門、村役|長百姓《ちようびやくしよう》を召上げる。今日以後|水呑《みずのみ》と心得よ」 「えーっ?」 「新村役其他委細は別紙に認め置いた。此度金策の者は残らず名字を許すぞ」  小吉はそういって、さっき堀田が認めた奉書を代官へ手渡して 「骨折過分につきその方へは居屋敷荒地一箇年九斗余、並びに岡野家紋服、上下一具を遣わす」  そういうと、もう、みんなへうしろを向けて、自分の居間へ戻りそうにした。  が、またふと思いついたように 「山田さん、紋服は|くろもち《ヽヽヽヽ》の儘だが、後で伊丹の白子屋で仕上げさせて差上げる。それからね、明日、此度上阪の一同五人で京都へ見物に行くから人足を云いつけ、夫々へ先触れをしておいて下さい」  それっきりで引込んで終った。  長太は畳へ伏せて泣いている。小吉はうしろからその尻を、ぽーんと蹴飛ばして 「馬鹿奴、泣く位なら|いかさま《ヽヽヽヽ》賽なんぞを使いやがるな。うぬのようなを江戸っ子の面よごしという」  といった。  歎願の百姓達へは京都の見物をしてまた御願塚へ戻り、こゝで長太を引渡す、その先きは煮て喰おうと焼いて喰おうとお前らの勝手だという。そう云われればそれで仕方がない。  この晩、宇市と源右衛門が、水呑百姓の風態で、また訴状を持って、代官の介添で小吉のところへやって来た。この年の暮に百五十両渡すという孫一郎の証書だから、勝様がお出でになった序手《ついで》故お返し下さいというのである。 「今、金を借上げて帰るというに、そんな金を返済出来る筈がないではないか。お前ら、水呑に落されたのを根に持って、また喧嘩を売って来たのか。売るならいつでも買ってやるが——」 「飛んでもございません」  と源右衛門が、苦い面で 「われ/\水呑などとは異なりそちら様も天下の御旗本でいられます。唯、証書面の通り御実行いたゞき度いだけでございます」 「そうか。よし、その証書を見せよ」 「はい」  代官は源右衛門から証書を受け取って小吉へ渡した。小吉は広げて、ためつすかしつし乍ら 「山田さん、わたしは元々鳥目の気味だが、こっちへ来てとんだご苦労をしたためか、近頃はいっそひどくなったようだ。どうもよく字が見えないよ」 「はあ、しかし証書は間違いはありません」 「そうかねえ。どれ/\」  小吉は、だん/\そこに出ている燭台の方へ近づいて行った。裸の蝋燭の焔へすかしている中に、その証書が、急にめら/\と燃え上った。 「あッ!」  みんな顔色を変えて立上る。小吉は、その火がめら/\と燃えるに任せ乍ら 「静かにしろ。こら宇市、源右衛門、お前らは今日まで悉くおれに敵対して来た不届な奴らだ、本来なら斬っ払うべきだが、助けて置いてあるのだぞ。どうやら、証書は煙になったようだ。煙はおれが確かに腹へ吸込んだ。文句があるか」 「はッ。恐れ入りました」  小吉は、それっきりでさっと居座敷へ入って終った。東間がにや/\していた。 「一と言で百五十両|ふんで《ヽヽヽ》終った。おれも昔はこんな奴ではなかったが、丈助以来、むごく悪智慧が働くようになったものだよ」 「はっ/\、先生も思い切った事をなさる」 「こういう事は剣術よりは余っ程気合の入れ方がむずかしい。東間、覚えて置け——が江戸へけえっても、この一件だけは、おれがところのお信や麟太郎へ告げちゃあならねえぞ」 「さあ、如何でしょう、わたしは口が軽いから」 「こ奴め」   木綿一反  東間は頭を押さえて 「しかし先生、此度はとことん迄百姓を叩きましたな」 「何、百姓を叩くものか。おれは無法は許すが、狡いは嫌えだといつも云うだろう。おれは、人間の狡猾というものと喧嘩をして見ただけだ。が、やっぱり敗けた」 「え?」 「代官は人がいゝから甘く勘定していたが、おれは百姓奴ら、とゞの詰まりは金を出さねえ事に肚を極め、内密にその談合がついていると見抜いたから、自殺の芝居を打ったのだが、御旗本が、あんな奴らからあゝ迄してやっと金を借上げるなんぞは、大敗けよ。おれは本当に嫌やんなった。東間、おれがようなのは江戸で剣術でも遣い歩いているが一番気楽でいゝなあ」 「そうでしょうか」  次の日、|七つ《よじ》発ちをして京へ向った。五人揃って歩き乍らも、長太は何にかしらびく/\している。しかし出発の時は、村の者は、その長太について何んにも云わなかった。  京は三条の橋際へ旅宿をとって、こゝで三日ゆっくりと休息した。静かで、冬枯れの山も美しく、加茂の流れのせゝらぎも銀糸を流したように綺麗だったがその底冷えは、小吉のからだに、骨へ徹る程にひどくこたえた。 「みんな駕で帰ろう。長太駕を五挺、旅宿のものへ云いつけろ」 「へえ。御願塚まででございますか」 「御願塚? あすこはもう用はすんだ。みんなで真っすぐ東海道を江戸へけえる」 「え? で、で、では、あたしは」 「ほう」  と小吉はわざととぼけて 「帰りたくねえなら帰らなくともいゝよ。御願塚村へ行って給金無しの一生奉公でもするか」 「せ、せ、先生」 「泣きゃがるな馬鹿奴。その代り、今度江戸で汚ねえ真似なんぞをしやがったら、すぐに腕を折ってやる」 「へ、へえ、へえ」 「はっ/\。お前が一緒に江戸へけえったと知ったら百姓共、地団駄を踏んで口惜しがるだろうなあ。いや、その面が見えるようだ。第一、代官もおれがこのまゝけえって終うとはこれっぽちも気がつかなかったようだから、あれも全くのお人好しだよ」  出発の日は朝からの糠雨であった。この雨の中に煙る東山の峰々の風情にいくらか心をひかれたが、とにかくひどく寒い。みんなの吐く息がもく/\と煙のように見えて小吉は余り口も利かなかった。  雨の日、風の日、曇り日、晴れた日、寒い日、暖い日。相州へ入って大磯で泊った旅宿の庭の梅が雪が積ったように真っ白に咲いていた。川崎の宿迄着いて丁度師走の八日。  翌日は江戸入。静かな晴れた日で、品川宿から見た海はまるで春が匂って、房総の山々も手に取るように近く、舟の白い帆は一つ/\が、鏡へ映っているようであった。  帰って来たら余り早かったので岡野のものはびっくりした。小吉は自分の屋敷へ足も入れず、みんな引きつれて玄関で、盥を持出させて、足を洗って上った。東間や堀田はともかく、五助と長太は裏口へ廻ろうというが 「云わば御使者のおかえりだ、玄関からへえるが当たり前だ」  小吉はそういって、引っ張り上げた。  孫一郎は奥座敷に炬燵をしてそれへ老人のような恰好で入って、今日も顔も洗わないのか、薄汚れて眼やにをつけて唯おど/\していた。玄関の次の間まで出て来て迎えたのは奥様《おまえさま》だった。 「唯今立帰ったよ」  小吉のそういうのへ、孫一郎は、まるで何処かすっかり緩んで終っているというような物の云い方で 「御苦労でした。で、しゅ、しゅ、首尾は」 「おい、殿様、その前におっしゃる事があるでしょう。この人達は」  とうしろに平伏している四人をふり返って 「わたしと一緒に命がけで苦労をして来たものだ。一言、御言葉が然るべきだ」 「そう。御苦労に思います。で、首尾は」 「ま、そう首尾はときかなくても、勝がこうしてけえって来たのだ。うまく行かずに帰る筈はないでしょう」 「うまく行ったか」 「確かに六百両借上げて来た」 「えーっ? 六百両」 「が、みんな殿様へお渡しは出来ねえ。路用に借りて行った四十両は武州領の次左衛門にけえす。それから今度の路用はみんなで六十七、八両かゝったから、六百両の中から二十七、八両は減っているよ。それからもう一件御本家へ十五両けえさなくてはならない」 「結構々々——。勝さん、わたしはね、大川丈助の三百三十九両の片がつけば後はどうでもいゝ。おのしの好きなように使って下さい」 「馬鹿を申されてはいけませんよ。年の暮を鼻先にして、屋敷の諸払、柳島の御隠居への御手当。殿様、こんな事では足りないかも知れないよ」 「ほう。そう/\、忘れてた——あの米屋の娘にもいくらか遣わし度い」 「え? 米屋の娘がまた来ているのか」  奥様《おまえさま》が極まり悪そうな顔をして下うつ向いた。 「あれが来ないと、どうにも淋しくてねえ」  孫一郎は平気な顔でそう云うので、東間も堀田もかねてきいているから、思わず顔を見合せて軽んずる笑いをした。 「しかしね」  と孫一郎は 「武州の百姓奴らは、勝様が御上阪なされても百両も所詮むずかしいとぬかし、本家の出羽守も五十両出来たら、勤めを退くなどといっていたが、六百両とは全くよく出来たものだ」  他人事《ひとごと》を云ってるような顔つきであった。  孫一郎は今になって実はどっちでも良かったのだと云ってるようでもあり、いつもながら張合がない。  大川丈助を迎えにやって、金を渡してその日の中にすっかり話の片をつけ、次の日は堀田甚三郎が、名代で、武州熊谷の次左衛門へ金をかえしに出発する手筈をちゃんと定めてから、小吉は残りを一文残らず紙へ並べて孫一郎へ差出した。 「これで、おれの肩の荷は下りた」 「そうです」 「え?」  と小吉は、おれも馬鹿だが、孫一郎というは底が知れないと、そう思って 「明日か明後日は柳島の御隠居に逢いに行く。その時御手当を預って行きましょう」 「いくらやればいゝか」 「親御に対する子の勤めだ。それがわかったら自然金高はわかりましょう」 「わからぬ。云って下さい」 「取敢えず五十両差上げたらどうです」 「え、取敢えず五十両? それは多い。三十両でいゝであろう」  小吉は何にも云わなかった。  屋敷へ帰った時はもう日が暮れていて、お信は行灯を引寄せて、麟太郎の肌着をぬっていた。  こんなに早く帰府出来るとは思ってもいなかったのでびっくりしている。小吉は立ったまゝで 「からだに変りはねえか」  といった。 「はい、お蔭様でわたくしは何事もござりませぬが、あなた様は、道中御難儀はなされませんで御座いましたか」 「いろ/\あった。今度ばかりは、おれもほんとに疲れた」 「御苦労様でございました。唯今、御飯のお仕度を仕ります。先ず、お茶を一ぷく」 「有難う」  お信が茶を出した。小吉が静かにそれを喫し乍ら、珍らしく沁々とした調子で 「お信、貧しくもやっぱりおのの家が一番いゝものだね」 「さようで御座りますか」 「あれから麟太郎は来たか」 「いゝえ、唯の一度も顔を見せませんで御座います」 「そうか、あ奴め」  とにこ/\笑って、お信が勝手へ立つと、例によって不行儀に肱枕でごろりと横になった。 「今度はな、まるで出鱈放題《でたらほうだい》をやって来た。だが、妙見へ雨を祈ったら、よもやと思ったにほんとに大降《おおぶ》りに降ってね。驚いたよ」 「はい?」 「だから今夜は横川へお礼詣に行くよ」  二日ばかり経つと、小吉は妙に疲れが出たようで起《た》ち歩くのも少し億劫《おつくう》になった。 「きのうは一日ゆっくりお休みなされと申上げましたにお聞入れがなく道具市へ行って、大勢の人にお逢いなされたのがお悪かったので御座りましょう。今日はもうお出ましなさらぬがおよろしゅう御座います」 「いや、柳島の隠居がところへだけは参る気だ。殿様が三十両上げるという。隠居も困っているだろうからね」 「でも、何にも今日明日と申す事もござりませぬで御座いましょう」 「おれは性《せ》ッ急《かち》だ。やる事はさっさとやって終わなくては安まらねえからねえ」 「さようで御座いますか——おや、お庭から奥様《おまえさま》がお出でなされた御様子でございますよ」  踏石《ふみいし》づたいに、小さく響く奥様の足駄の音は聞き馴れているから直ぐわかる。 「おゝ、そのようだな。奥様も、やっと御安心なされたろう」  小吉の言葉が終るか終らぬに、奥様の声がした。小吉は内から障子を開けて 「丈助がいなくなって、また庭木戸が開きますか。さあ/\」  と笑って、ちょっと見ると、何にか包物を捧《さゝ》げるように持っている。頭を少し下げただけで黙って縁から座敷へ上って、いきなり、うつ伏してわあと声を上げて泣いて終ったものである。 「如何なされました。何にかまた殿様が——」  きくのへ、奥様は首をふって 「か、勝様、お恥しいッ」 「何にがでございますか」 「こ、こ、これが」  と、包物をすっと小吉の方へ押して 「あなたへの孫一郎の御礼でございます」 「お礼?」 「大阪まで御苦労をおかけして、そ、そ、そのお礼。とにもかく、御覧下さいまし」 「拝見いたしましょう」  小吉は、その包物を解いた。手織らしい木綿の反物が一反、水引がかゝっていた。 「はっ/\。結構な物だ。奥様、恥しいという事はないでしょう」 「たゞそれだけ——勝様、どうぞおゆるし下さい」 「いやあ」 「その為に唯今までも口論をいたして居りました、が、あ、あ、あれは本当に気が狂うて居ります」 「奥様、これでいゝのだ。勝小吉はですね、千両万両お礼を下さるといっても、行き度くなければあんな事をやりに大阪くんだり迄、出ては行きません。これで結構、これで結構だ」  岡野の奥様は顔を伏せたまゝ、お信がお茶をすゝめても、身動きもしない。 「奥様に、そう心配をおかけしては却ってこっちが心苦しくなる。さ、どうぞ、お顔をお上げ下さい。わたしもからだ具合はよくないがこれから柳島の御隠居がところ迄行って参ります。どうぞごゆっくりお信とお話をなすってやって下さい。五月にはまた子が生れます」  といって次の間へ立った。着物を着替えるためだ。お信もそこへ来る。 「着物位は一人で着れる。お前は唯のからだではねえ。今迄のように、おれが事に気を遣うな」 「はい、でも」 「いゝよ」  仕度をすると、小吉は奥様へ鄭重に一礼して出て行った。雪駄の裏金の音が暫くちゃッ/\と聞こえる。  岡野で金を受取って、入江町から長崎町へ抜けて、丁度南割下水の尻、北中之橋の袂へかゝるところで、向うから、少し背中を丸くして、こせ/\と急ぎ足にやって来る大川丈助とぱったり出逢った。 「おい、丈助。金は受取ったろうな」  小吉は大きく声をかけた。大川は余っ程ぎっくりしたらしいが、急に腰を折って 「おや、これは勝様、いやもう此度は誠にどうも有難うござりました。お蔭でお金は返していただきました。その間の御扶持お手当、まことに助かりましてございます。改めて勝様のお屋敷へも御礼に上りますが、しかし流石は勝様、よく僅か五百石の御願塚からお金が出来ましてございますなあ。それはそれは本所深川、おなじみの者共は大層な評判でございますよ」  ぺこ/\うるさい程にお辞儀をして 「それにつけても唯今も清水町の角で米屋の亭主に逢いましたが、勝様も百両金の御礼は取られたろう、それが当たり前だなどと立話を仕りましてな」  といってから 「え、もし勝様、お気持によっては殿様お気入りの娘から百両がおろか二百両も差上げるように申させましょうか」  小吉の眼がぎろッと光った。丈助は、はっとしたと同時に 「で、では、また何れ改めまして」  一旦尻込みをしてからだをくねらせて、小吉の横をすりぬけるようにして行って終おうとした。  途端に小吉の手が、ぱっと丈助の肩先きをつかんだ。 「こ、こ、これは勝様、な、な、何にをなされます」  お天気の日で、往来をいそがしそうに人が通っている。二人の気配に、みんな自然に立停って、じろ/\こっちを見ている。 「おい、丈助」  と小吉は顔をぐんと寄せて 「てめえには、もう、こっちは些かも弱え尻はねえぞ」   他行留《たぎようどめ》  丈助は飛上るようにした。もう飛蝗《ばつた》のように引っきりなしに頭を下げて 「そ、それはもう」  とやっといった。 「おれは奥歯に物の挟んだは大嫌えだ。何にか言分があったらみんな云え」 「あ、あ、ありません」 「そうか——が、てめえが方になくってもおれが方には言分がある」 「え?」 「てめえ今おれに、百両礼を貰ったといったが、こら、てめえ勝を見損ったか」 「そ、それは、わたしの、あれだけの事をなさったのだからとあなた様への本当の気持を申しただけでございます」 「どうだ、てめえ、あの三百三十九両は付懸《つけが》けだろう」 「と、とんでもない」 「嘘つきめ、正直に云えッ」 「あれは間違いはありません」 「よしッ」  小吉は、ぐっと丈助を引寄せた。と同時に肩を放した手がぱっと腕へかゝって、ずる/\と川っぷち迄引っぱったと思ったら、すっとからだが低くなった。大川丈助が、まるで天へ飛びでもするように、高く輪をかいて、大横川へ投込まれたのは、殆どそれと一緒であった。  観ていた者達が、思わず、あッと声を上げた。そして、誰からとなく川っぷちへ駈け寄って見ると、真っさかさまに川底へ頭でも打込んだものか、まるで川泥の中から出て来た人間のような姿で、あわててもがき浮んだ丈助を、こっちへ立って腕組みをして、にや/\これを小吉が見下ろしている。 「さ、揚って来いよ、も一度、投り込んでやる」  忽ちにして大変な人だかりだ。  丈助はやっと川岸杭《かしぐい》のところ迄泳ぎ寄って、足をついたら、水は胸迄で立てた。 「丈助、揚れ」 「か、か、勝様、許して下さい」 「何にを詫びる。貸した金をとって詫びる事があるか。さ、揚れ」 「ど、どうぞお許し下さい」  何しろ十二月だ。丈助は土色の顔をして、がち/\歯を鳴らし乍ら、川の中から小吉を見上げている。揚って行ったら、恐らくはまた投り込まれるに定っている。揚るに揚られない。 「許して下さい」 「揚れ、揚らねえと、小便を引っかけてやるぞ。おい、見ている人達、こ奴は大川丈助という|ひん《ヽヽ》用《よう》師にもまさる悪い奴だ。こんな奴をこの界隈にほうって置いては誰が何時どんな迷惑をかけられるかも知れないよ。みんなで一緒に頭から小便をひっかけておやり——さ、丈助揚って来ねえか」  小吉は本当に小便を引っかける気のようである。袴の前へ手をかけて、何気なくひょいと、法恩寺橋の方を見た。すぐ鼻先だ。左手に平河山法恩寺の天を突くような高い杉の立木が二本見えて、大きな寺の屋根の甍が反りかえってきら/\している。  今、この橋を寺の方からこっちへ渡って来る二人のさむらいがある。 「あッ、精一郎とせがれ奴だ」  小吉はびっくりする間もない。まるで急坂へ毬をころがしたような勢いで、清水町の露路の内へ逃込んで終った。  小半町のところに小さな稲荷の祠《ほこら》がある。あわてて、そのうしろへしゃがんで一生懸命息を殺している。 「あゝ、助かったわ。も、ほんの少しで丈助へ小便を引っかけているところを、せがれ奴に見つかるところであった。見つかっては取りけえしがつかねえ。あ奴におれが真似なんぞをされて堪るもんか。そ、それにあの精一郎がまた、妙にこう皮肉な奴だからねえ」  川っぷちの人のざわめきがまだこゝ迄聞こえて来る。  精一郎と麟太郎は丈助の川の中に立っているところ迄来た。麟太郎は唯笑い顔でじっと見下ろしている。 「岡野家の用人大川丈助という人ですよ先生」 「そんな事はどうでもいゝ。さ、行こう」  精一郎は真面目な顔である。 「先程のはやっぱり父上でございます」 「何にをいう、そんな事はない」  精一郎は、麟太郎の手を引くようにして、足早やに行過ぎた。  丈助が川から揚って、ぶる/\ぶる/\慄え乍ら何処かへ行って、それから、集っていた人達がみんな散って、四辺が静かになる迄には、それでも小半刻位はかゝったろう。この間に、稲荷のうしろに隠れていた小吉は 「勝先生だ」 「剣術遣いの勝小吉という人だ」  と誰かがいっている大きな声を飽きる程繰返し繰返し耳にして、四辺からからだを押しつけられるような思いがした。  柳島の岡野の隠居江雪は、からだ中に大層むくみが来て、とかく立居もきついというので、小吉が行った時は臥ていた。清明が枕元へ坐って、その手を頻りにさすってやっている。  殿様からの三十両を出して、実は御願塚は斯々の次第だったと話すと、隠居はすっかり喜んで 「あすこの百姓共は、大阪という繁華な土地が近いだけに、人の顔色を窺っては狡猾な事ばかりやる奴らだ。それをこっちが知らぬと思っているのが心憎くてね、わしも何にかあ奴らの猿智慧の裏をかいてぐうという程苛めつけてやる法はないだろうかと、そればかりを考えていた事があったよ」  といった。  隠居は 「今度は膝の辺りをやってくれ」  と清明へ云いつけてまた改めたように 「しかしあ奴らの狡猾はわしの智慧ではどうにも出来なかった。おのしがわしの思いを達してくれた。あゝ、いゝ気味だった」  といった。小吉は苦笑して 「あなたがような地頭では百姓も実は可哀そうなのだ。五百石の村方から七百五十八両もすでに借上げてある。隠居、こうなると本当の狡猾はどちらだかわかりませんよ」 「はっ/\。そうかねえ」 「そこへわたしがような奴が乗込んで、妙見へ祈って雨を降らせたり」 「え、おのし、雨など降らせる事が出来るのか」 「そんな事は出来る訳はない。雨は降る時には降り、降らぬ時には降らぬ」 「ふーむ」 「その上で、大阪町奉行の用人の下山弥右衛門、ほら、隠居も知っているあの剣術仲間の男さ。あ奴とぐるで度々奉行の名前を使ったり、偽せの手紙を出させたり、それで足りずに御紋服をひけらかして、切腹の芝居までして脅かすのだから、考えて見ると百姓も堪らない。が、わたしはあ奴らの文盲で狡猾ばかりが現れている面を見ると無性に癪にさわってねえ——人の面を見て腹を立てるなどは馬鹿の骨頂と、お信にはいつも叱られるが」 「面白かったろう」 「何にが面白いものか」 「が、勝さん、おれももうそんなに長くは生きられないようだよ」 「どうしてです」 「息切れがしてねえ」 「酒が過ぎるのでしょう」 「清明もそういうが、もうこの世の中に楽しいという事が無くなって終ったような気がしてね。しかし勝さん、余命いくばくもなしと諦めるとこれまた気楽なものだ。ほっとしたというか、生きている一日々々が楽しいというか、この味は、やっぱり、そこ迄行きついた者で無くてはわからんねえ」 「そうですか」 「わしは、いつ死んでももう悔ゆるところはない。実に仕度い放題をした一生だった。わしが死んでもね、勝さん、悲しんで下さる事はないよ、当人が死ぬという事について、ちっとも悲しくも口惜しくもないのに他人が悲しんだり、くやんだりするのはおかしいからね」 「それでは、あなたが死んでも悲しまぬ事にしよう。だが、奥様《おまえさま》や殿様は」 「奥も、わしが死んだら、むしろ、安心するだろう。孫一郎などいっそうの事だ。わしは、みんなに迷惑だけをかけた男のようだから」 「この清明が悲しむよ」 「いや、これも悲しまない。やっぱり、わしに迷惑をかけられていた一人らしいから」  清明は泣いていた。小吉は 「まあ、そう諦めれば、人間も本当に気楽だろう。あなたは、折角そこ迄気楽になったのだから、このまゝ長生きするも面白いね」  と冷やかし半分の顔つきで云った。 「それもそうだ。生きる気もないが、別に死ぬ気もないからね」  隠居はくす/\いつ迄も笑う。  柳島を帰ったのは、もう黄昏で、少し暖いような気がしたら畑の道に靄《もや》が立罩《たちこ》めて、それでも途中で振返ると、隠居のいる家の表の八重紅梅が薄紅い霞を流したようにぼんやりと見えていた。  その道を駈けて来る草履の足音が聞こえる。一本道である。ぱったり逢った。 「あゝ先生」 「世話焼さんか、何んだえ」 「御新造《ごしん》さんから云いつかりましてね、お迎えです」 「子が生れるか」 「お子様は五月でございますよ。実は亀沢町の男谷様から度々の厳しい御使だそうで」 「ほう、兄上から——何んだろう。逢ったらきっときまってお叱言だが、真逆さっき大川丈助を大横川へ投り込んだ、あれがもう知れた訳でもねえだろうに」 「大川丈助を川へ」 「はっ/\、面白かったよ。尤もこんな事で溜飲を下げるようじゃあおれも案外小さな江戸っ子だとしみ/″\自分で思い知ったがねえ」 「いや何、近々にみんなもあ奴を袋叩きにした上で水雑炊を御馳走する手筈になって居りますんで——松五郎頭なんぞは、御留守中にも毎日その催促にやって参りましたよ」 「もう止せ/\。あんな奴は放って置いてもどうせ碌な死方はしねえものだ」  流石に小吉も急ぎ足になって、入江町の屋敷へ帰ると、お信に云われて、お茶一ぱい飲まずにその足ですぐ亀沢町へやって行った。  彦四郎は相変らずである。  自分は大きな座蒲団を二枚も累《かさ》ねて敷いて、立派な大名火鉢を横に、膝の前には紫檀に銀拵えの莨盆を置いて長い煙管《きせる》で莨を吸い乍ら、平伏する小吉をいつ迄も大きな眦《まなじり》の切れ上った目で睨みつけていた。 「御旗本が御支配頭の御許しもなくみだりに御府内を離れてよろしいかどうか、文盲とは申せ、お前は、それ式の事も知らぬか」  狡みつくような声だった。小吉ははッとした。心の中で、はっ/\、とう/\摂州行きの尻がばれたか、支配頭から叱言が先ず兄へ来たな、そう思って 「はゝッ」  と平伏した。 「御支配頭戸塚備前守様から、本来|一間住居《ひとまずまい》を申しつくべきではあるが」  彦四郎は少しの間息を切った。落着いた顔をしているが余程興奮している。  彦四郎はそれからごくり/\と二度つゞけて唾をのんだ。 「御筆頭松平伊勢守様、何事か有難きお口添があり、他行留《たぎようどめ》を仰せつけられる事になったそうじゃ。明後日《あさつて》お呼出し、申渡されるが、確と覚悟を極めて出頭、仮初《かりそめ》にも見苦しい振舞はあるまいぞ」 「はゝッ、恐入りました。しかし——」  小吉が何か云おうとしたら 「黙れッ!」  と怒鳴りつけた。 「お前も、もうやがて二人の子の父ともなるというに、御旗本なら御旗本らしく、正しい日常を過す事は出来ぬのか。そのような事でどうする。子は父の姿をそのまゝに映すものじゃ。がそれは今更云うても詮ない事であろう。唯、御支配頭の前で、決して狼狽|弁疏《べんそ》など、未練がましくあってはならぬ。いゝか。男谷彦四郎が実弟、精一郎が叔父、麟太郎が父である事は、片時も忘れるな。それだけじゃ、退れッ」  本当に小吉は顔を上げる事も出来なかった。そのまゝ、退って廊下へ出て、はじめてほっとした。  明後日から他行留になるとすれば、またいつ裟婆の風に当れるかわからない。自分では恥しい事をしたとは思わないが、掟を破ったのは間違いないから仕方がない。心の中では肩肱を張ってはいるが、妙にこう淋しくなって、その足が知らず/\精一郎の道場の方へ行った。  激しい気合が聞こえる。竹刀《しない》の音、木剣の音。小吉は、そうーっと門を潜って、道場の武者窓へ近づいて行った。  ひょいと覗く。麟太郎が、若い侍の真っ正面から、さっと矢のような突きを入れたところであった。対手は一度のけ反って、危うく立直ったが、つゞけ態《ざま》にまた麟太郎が突きを入れたら、今度は仰向けにどーんと道場へ打倒れて行った。 「凄え」  小吉は思わずいって口を押さえた。  今度は精一郎が麟太郎をよんで、何にか手をとって教えてから、自分で小《こ》竹刀《じない》をとって道場へ下りた。 「やッ!」  また麟太郎の突きが出た。元より軽ろくかわされると同時に、精一郎の小竹刀がぴしッと胴へ打込んだ。  麟太郎はよろよろっとした。が小吉は、精一郎は甘やかしている、今の打込みは真物ではない、あれは型を教えているようなものだ。麟太郎がぶっ倒れて、起上れない程に打込んでやらなくては、その技があ奴の身につくものではない——そう思って、いっそう武者窓へ顔をくっつけて覗いた。   雲雀《ひばり》  一度道場へ入ろうとしたらしかったが、思い返して窓をはなれてそのまま竪川の方へ行った。町角にぼんやりと辻行灯がともっている。  道具市の世話焼さんにも明後日からの他行留を話して置かなくては、突然《だしぬけ》ではみんなが困るだろうし、それに岡野の家もいゝ用人が見つかる迄は、仮りに堀田甚三郎でもやって置かなくては、あの殿様がまた何にをやり出すかわからない。  小吉はふところ手をしてぶらりぶらりと来る。時々小さな石ころを川へ蹴飛ばして、それがぽーんと静かな音を立てる。川へ映っている町家の灯がゆら/\と動いた。  道具市で、いよ/\こんな訳だからいつになったらやって来られるかわからない。そのつもりで居れというと、世話焼さんがびっくりして、頬をふくらませて頻りにいう。 「勝様をそんな事にして岡野の殿様が黙ってはいられないでしょう」 「あれは人の前では碌に口も利けない男だ」 「だ、だって勝様、お、お、女を口説く——」 「それは滅法うめえようだが、唯それだけより出来ない。世の中にはあゝいう人は沢山いる」 「といって、勝様だけが馬鹿な目を見ていられる事はないでございましょう」 「いや御府内を無断で出歩いたは正におれだ。外の者に罪科《つみとが》はねえのだ。大層すまねえが、とにかく東間がところへ行って、あれと堀田甚三郎を呼んで来てくれ。おれはどうも脚がだるくていけない」 「ようござんすとも」  世話焼さんはすぐに飛んで出て行く。  やがて二人が寝呆け眼でやって来た。 「もう寝ていたのか」 「いゝえ」  堀田はあれから熊谷宿へ行って来たりして、すっかり旅の疲れが出て、ぐう/\ねて許りいるもんだから案外元気な東間までそのお付合をしてねてますという。 「呑ん気な奴らだ。鼻っ先きにお正月というにおれは明後日から他行留だわ」 「えーっ?」 「堀田、お前、当分岡野の用人をやれ。あの屋敷は用人が入用の工面をしなくてはならないが、当分は金があるから心配はない。お前は貧乏屋敷の用人には打ってつけだから行け」 「はい」 「東間は、おれが代りに江戸中そちこちの道具市、それから入江町の切見世の女どもを見廻ってやらなくてはならねえよ」 「はあ」  それから小吉は少しじっとして、ふところから紙入財布を出すと 「摂州行ではさんざお前らに骨を折らせたが、ありようは知っての通りだ。これで二人で飲んでくれ」  五つ六つの小粒を出した。小粒がきらっと光ったと同時に 「先生」  東間が先ず泣声で小吉の膝へしがみついた。  大きな男がぽろ/\涙が頬へつたって落ちる。 「せ、せ、先生、わたし共はききました」 「何にをきいたえ」 「せ、せ、先生が此度の礼に岡野からたった木綿一反を贈られたという話を」 「ほう、滅法早えな、それはおれがところのお信の外は知らねえ筈だが」  とにや/\しながらいった。東間は 「例の米屋の娘の口から吹聴されているらしく、岡野の殿様は、うまく行ったと自慢気にいっているそうです」 「これッ」  と小吉は突飛ばすようにして大声で叱った。 「馬鹿奴!」 「そ、それなのに、わたしらが先生からお金など頂戴出来ません」  小吉は、ぱっと東間の袖へ小粒を投込んでおいてから、堀田へ向いて 「少々遅いが、夜も朝もない屋敷だ。おい、おれと一緒に岡野へ来てくれ」 「は」 「東間は道場へ行った時は、力一ぱいで、おれがところの麟太郎をぶちのめせ」 「は?」 「精一郎は少し甘やかしている」  この三人が肩をならべて出た。 「ね、先生、その米屋の娘というものが大難物だと思いますが、これに対しては、用人としてどんな扱いをしたら宜しいのでしょう」  堀田が歩き乍らきいた。 「お前が好きなようにしろ、気に喰わなかったら庭へでも投り出してやれ、尻はきっとおれが持つ」 「わかりました」 「が、対手は女だ、面《つら》に怪我はさせるなよ」 「は」  孫一郎はもうねていた。米屋の娘がまた来ているという。 「丈助奴、まだこの屋敷を喰い物にする気だ」  小吉は眉をひそめてひとり言をいって、とにかく女中に殿様を起させた。  ひょろ/\したような恰好で庭へ向いた座敷へ出て来た。真っ白い筒袖の寝巻に同じ白の細い帯をしめたまゝだった。 「殿様、勝はね、摂津行の尻が出て明後日から他行留だ」 「そうですか」  全く自分に無関係なもののようなきょとんとしたような顔をしている。 「この堀田甚三郎は、摂津で共に苦労もしたし、文字も深し腕も立ついゝ用人だ。これを屋敷でお使いなさい」 「よろしい」 「云って置くが、入用の工面は出来ませんよ」 「え? そ、そ、それは——」 「殿様、あなた、用人に入用の工面をさせ大川丈助の二の舞を踏んで、千五百石を潰してえのか」  小吉はぎろりとした。  彦四郎が明後日だといったから、小吉はその心づもりにして、支配頭からの呼出しを待っていたら、明後日どころか、いよ/\年の暮も押迫ったというのに、今にも来そうで、さて何んの沙汰もない。 「兄上、一ぺえ喰わせたな」  お信を見てにやりとして、そのまゝいつもの通り道具市へ行った。道具市はこの頃が書入れである。むん/\した人いきれと、莨《たばこ》の煙でまるで霧の中にいるようだった。  が、小吉は今日は刀の鑑定《めきき》の外に一両近い稼ぎになって、笑顔で帰って来た。 「まだ沙汰は来ねえかえ」 「まだで御座います。が、信は今日、道場へ参り精一郎殿にお目にかゝりました」 「道場へ? お前、とんと馬鹿だねえ、そんなからだで——第一あすこは女なんぞの行くところじゃあねえよ」 「精一郎殿は叔父上の他行留は、父上がいろ/\御奔走で、年が明けてからという事になった様子ですと申されました」 「ふーむ。年の内にそうなれば、借銭の云訳が出来たにねえ。兄上も余計な事をするものだ——。そうかえ、精一郎に逢ったかえ、おれもあれに云ってやる事があった。はっ/\/\。お前、内心は麟太郎が顔を見に行ったのだね」 「ほゝゝゝゝ」  お信は笑っただけでもう何んにも云わなかった。  新しい春になった。それでも麟太郎を一日も帰してはよこさない。噂では男谷の屋敷で精一郎の次の席について屠蘇《とそ》を祝ったそうだ。家の者達の年賀を少し反り加減に一人々々びくともせずに受けた麟太郎の立派な態度が、早くも屋敷中の評判になって、これがまた道場の者達から、小吉の耳へも入った。  小吉は 「そうかえ」  今にも溶けるような顔でにこ/\した。  やって来るみんなが 「他行留なんて、初春と共にとっくにお流れになったのですよ」  といってよろこぶし、小吉もひょっとしたらそんな事になったかも知れないと思っていたら、二月に入って早々にとう/\御支配頭戸塚備前守から使者が立って牛込船河原町逢坂の屋敷へ呼ばれた。備前守は千二百石で意地の悪い人だったが、彦四郎からの手が廻ったので小吉の出方によっては何んとか穏便にしたい気持もあったらしかった。  が出て行った小吉はこの人の顔を見ると、最初《はな》っからむか/\っとした。夢中になって御番入《ごばんいり》の日勤をやって、冷めたい板敷に平伏していたあの頃のいろ/\な対手の態度が、急に思い出されたからだ。  備前守は押しつけるように、ひどい早口で、しかも吃りで摂津行の糺問をした。ところ/″\はっきり聞きとれなかった。小吉は 「確かに参りました」  と突っかゝるようにいった。  備前守は、頬をぴく/\して、こめかみに青い筋が太く見えた。余程の癇癪持《かんしやくもち》のようだ。 「た、た、他行留ッ」  そういうと、すっと立って、そのまゝ奥へ入って行く。 「旗本も千石以上になると云い合せたようにみんな嫌やな人間になる。妙なものだ」  小吉は心の中でそう呟《つぶや》いて、これもさっさと退って外へ出た。  お天気が良くてそよ風が今迄の窮屈だった頬をそうっと撫でる。気がつくと、門の内側の植込みに大きな雪柳の花が目立って真っ白に咲いていた。 「いよ/\他行留だ。これからはとんと退屈なことだ」  胸を張って大気を一ぱいに吸って大手を振って逢坂を御濠端牛込御門へ降りて来る。  丁度この降りる途中に田中玄仲という医者があって、その隣りに狭い間口の、古い茶道具などを売っている店があった。どっちを向いても武家屋敷の塀《へい》ばかりのところだから、これが大層目についた。  小吉も世話焼さんの道具市へ行っている中に、自分では気がつかないが、知らず知らずこういうものが、いくらかわかるようになっていたのだろう。  立停って内を覗き込んだ。  あかい禿頭のおやじが、何にか丸い壺を抱くようにして頻りに布でふいている。 「古い瀬戸かねえ」  いきなりそういって来た小吉を見て、びっくりして 「おう、これは/\勝先生」 「おや、お前さん、誰だったかねえ」 「御尤《ごもつと》も。本所の三ツ目の道具市で三度程お目にかゝりました」 「勘弁おし。とんと人の顔を覚えられぬ質《たち》でねえ」 「その説はお刀のおめきゝをいたゞきまして大層儲かりました——おい/\」  と奥へ 「お茶を持って来な」  といった。小吉は瀬戸の壺を受取って頻りに眺めながら 「売物かえ」  おやじのうなずくのへ 「ほしいが銭の持合せがねえ。三ツ目の市の世話焼へ廻しておくれな」 「へえ/\、宜しゅうございますとも——もし何んでございましたらお金などはいつでも結構でございますから、お持ち下さいやして」  小吉はへら/\笑った。 「たった今御支配頭から他行留を受けて来たところでね。謹慎の身が道具を持っての往来は天下の御威光を軽んずる恐れがある。市の方へ頼むよ」  小女がお茶を出したが、それも手にせず外へ出た。途端に高い空で、雲雀のさえずりが耳に入った。 「すっかり春だな。本所《ところ》と違いこの辺は江戸の真ん中だが、雲雀が揚っている。世の中がどうとか斯うとか云われても、長閑《のどか》なものだ」  お信は心配していたが、小吉は案外平気な顔で帰って来た。 「おれが脚気も余り良くねえし、他行をしねえはおれが為めには却って都合よ。これが番入でもしている役人なら、大変なさわぎだが、別に立身出世を望む身でもなし、どっちにしても四十俵に疵はつかねえ。はっ/\呑ン気なものだ。が雲雀の揚る春だというに明日から座敷に閉じこもるはとても退屈だろうねえ、それが今から|せつない《ヽヽヽヽ》よ」 「ほゝゝゝ。あなたにせつない程退屈をさせて下されば宜しゅうございますがねえ。今日もお留守の間に東間さんをはじめ、世話焼さんから、花町の松五郎|頭《かしら》、縫箔屋さん、みなさん、引っきりなしに見えまして御座いますよ」 「仕立屋の弁治は来ねえかえ」 「そう申せばあの人は見えません」 「馬鹿が、おれが、摂津へ縫箔屋や五助をつれて行き、てめえばかりをのけ者にしたと滅法ふくれているそうだが」 「さようで御座いますか」 「それはいゝが、道具市へ行けねえとなるとまた屋敷は貧乏になる。お前に気の毒だねえ」 「何んの悪い事もなされずに然様になりまする事なれば、どんな苦労も貧乏も、信は少しも心にかゝりませぬ」 「すまねえね」  途端に勝手の方で世話焼さんの声がした。これで今日は三度やって来た。  小吉は顔を見るとすぐ 「牛込の逢坂下で、古い瀬戸の壺を見つけてね。何んとも云えねえいゝものだったよ。市へ持って来るように頼んだから、来たら頼むよ」 「か、か、勝様、そ、そんな事より、御他行留の事はやっぱり、さようで御座りましたか」 「あゝ。おれがように、じっとしていられねえ男には何よりも退屈が辛いと今もお信と話していたところさ」 「や、やっぱり、さ、さ、さようで御座いましたか」 「御旗本が自儘に関所を越えるのは不埒《ふらち》千万と、大声で叱られたわ」 「へえ」  といってから暫くうつ向いて世話焼さんはいつになくもそ/\した口調で 「で、ですけれどもねえ勝様、困りました、勝様に引込んでいられては。あの市場が成立ちませぬ」  といった。   御見舞  次の朝起きて、うっかりして、ひょいと出かけようとして、お信にとめられた。 「ほい、忘れた、他行留は地内から出れねえのだった」  小吉は苦笑して、ごろりと縁端へ横になったら、もう、世話焼さんが、若い男に刀箪笥を担がせてやって来た。 「いくら外へ出さえしなければ彼方《あつち》からやって来る分は差支えねえといっても、こ奴は何んだか妙な塩梅《あんばい》だねえ」  そんな事を云い乍らも、刀を六|口《ふり》七口|鑑定《めきき》をしてかえした。  世話焼さんが門の外で、誰かと大きな声で挨拶をしている。それが止むと入れ代りに、松五郎がやって来た。 「何んだ」 「へえ、実は日頃面倒を見ていたゞいている中組八番と北組十二番の頭手合《かしらであい》に頼まれやしてね、こちとらが行ってまたお叱りをいたゞいてはと、お前に頼むと申しやすんでね」  松五郎は持って来たふくさの包をうや/\しくといて水引のかゝった金包をすうーと小吉の前へ出した。 「これは何んだ」 「へえ、頭手合からのお引籠《ひつこもり》中の御見舞金でごぜえやす」 「馬鹿野郎!」  小吉は天井板が割れる程の大声で、 「おれは御旗本だぞ、お前ら屁を見たような人足から見舞われる程|しけ《ヽヽ》てはいねえ」 「へ、へえ、そ、それはもう御尤《ごもつと》もでごぜえやすが、しがねえ奴らが本当に御心配申しているんでござんすよ。先生、これを買ってやっていたゞかなくちゃあ、余り可哀そうだ」 「知った事か」 「みんな御門前へ来ています」 「え?」 「そこへ、お手にしてはいたゞけなかったと、おめ/\この松五郎もけえれやせん」 「ほんとに来てるのか」  小吉は立ち上るとつか/\と玄関へ出て行った。門の外にずらりと並んでいる。 「おい、こら、お前ら、とんと出すぎた奴だ。さっさとけえれ」 「せ、せ、先生」  波が打寄せるようにみんなの声が一緒に小吉の胸を打った。  その中から、すっと抜け出して来たのは、帰ったとばかり思っていた世話焼さんで、つゝっと小吉の側へ寄ってさゝやくようにいった。 「有難うよと、受取っておやんなさいまし。勝様、それが、ほんとうではございませぬか」  小吉はうつ向いた。力んではいるが瞼がうるんでいるのだ。 「そうなすってやって下さいましよ。小前《こまえ》の者の心をお汲みなさるが、本当のお侍ですよ」  世話焼さんが、何にか目くばせをした。鳶の者達は無言で一斉に腰を折る程に頭を下げて引取って行って終った。小吉はみんなが見えなくなってから、はじめて 「有難う」  といった。  松五郎頭と世話焼さんが肩をくっつけるように並んで帰って行く。 「頭手合《かしらであい》が入江町の切見世の奴らに話したらみんなで御見舞を集めにかゝっている。あれ程世話を焼いて下さって、これ迄、一文の銭もおとりなさらねえ、少なくても二十五、六両は寄るだろうと云っていた。が、さて、これを誰が差上げに行くか。あっしは、もう先生は怖いから嫌だよ」  と松五郎頭はそういった。 「頭は可愛がられている。怖えはないでしょう。でもそれは年の功であたしが引受けました。全く切見世は先生のお蔭で安穏《あんのん》に商売をしているようなものだからねえ。あんなところに定って|たか《ヽヽ》って来る蠅を見たような句駄羅《くだら》ねえ|ごろつき《ヽヽヽヽ》が、唯の一人も影も見せない。みんな先生の息がかゝっていると知っているからだ。血の通った人間ならば、斯ういう時に御見舞を差上げるのは当り前ですよ」 「そうなんだ。いや御見舞どころか、この先きはね、世話焼さん。あすこでは見世の長屋へ割りつけて、盆と暮には一棟弐歩宛、残らずで七両弐歩、大見世の四軒は別にして年弐両ずつ差上げる事にしたいと話は定っているんだよ。唯、困るのは誰が、どういううめえ口で先生に受取って貰うかと、それでみんな苦しんでいる。いゝ智慧はござんせんか」 「さあてと——盆暮に定って差上げるとなると、それは|てらかすり《ヽヽヽヽヽ》も同然、表向き土地《ところ》の親分扱いだからこ奴はちいーっと面倒だよ。松頭」 「あっしも、そうだと思うがね」 「この間ね、先生は大阪へ上ってお留守だったが、前町の長崎町の往来へ見世を出して何にか薬草の商いをするという若い衆が、先生へ付届けをしたいからと、あたしんところへ来てね。こっちが困りましたよ。あんな商いは香《や》具|師《し》だ。そんな付届けは受取れないから追帰したが、この分だとこれあとどの詰まりは、それも受取っていたゞかなくては所詮は本所《ところ》の締りがつかなくなるのだがね」 「何しろ本所も大横川界隈となれあ、まあ他町《よそまち》には見られねえ気っぷのところだからねえ。旗本屋敷が沢山あって、質《たち》のよくねえ仲間折助がうよ/\している。仲間部屋では、そっちでもこっちでも毎夜ばくちが出来ているし、茶屋小屋で暴れる奴も毎夜の事だ」  そんな暴れ者のある度に、小吉は出て行かなくても、息のかゝった誰かが行って取鎮めるから、界隈で恩に着るのは当り前である。  いつかも、東間陳助が、入江町の柳屋という茶屋で暴れている浪人二人を川へ投り込んで、弐歩お礼を貰って却って恐縮した事があった。  出す方はどうしても差上げたいという。取る方が要らないという。仲へ入って世話焼さんも松頭も度々困った事だが、先ず、今日はうまく行った方である。  それはいゝとして、次の日から、小吉の屋敷はまるで道具市のようになって終った。 「麟太郎がいねえからいゝようなものの困ったねえ」  小吉が首をひねった。お信は 「でも、年をとった皆さまがお若いあなたを親ででもあるようにしているのを見て、わたくしは楽しゅうございますよ」 「馬鹿をぬかせ。あれが若え女でもある事か、道具屋なんぞ、がや/\集って何にが楽しい」 「と申しましても、他行留では、女どもの居るところへお出でなさる事も出来ませんで御座りましょう」 「はっ/\。まことに切《せつ》ないねえ。が、麟太郎は、どう思っているだろう」 「存ぜぬかも知れませぬ」 「そうだとうめえね。御支配頭だって、馬鹿ではねえから、その中には、おれが所業も許して呉れる事だろう。が、兄上があの通りだから、おめえがおやじはこれ/\の始末だと、麟太郎を叱っているかも知れねえ」 「真逆にそのような事はなさらぬでございましょう」  一日々々、春が深くなって来る。  堀田は毎日やって来て岡野の様子を話すが、このところ暫くお見えなさらぬと思ったら奥様《おまえさま》がまた大層おからだがお宜しくないそうだ。 「それにしても、ね先生、あの殿様というお方は、よくまああゝして昼も夜もおやすみになっていられるものですなあ。縦の物を横にもなさらない、全くどうかなさってますなあ」  流石の堀田もほと/\あきれている。 「お前も立身して千五百石頂戴しろ。そうすればいかに知行所から無理な借上をして、人を困らせても若い女を対手に昼も夜もねていられる」  小吉は腹をゆすった。 「じょ、冗談でございましょう。千五百石が三千石頂戴し、誰に手をついて頼まれたって、あんな真似は出来ません。わたしも旅から旅を廻っていろ/\な人間も見て来ましたが、あゝいうお方は二人とありませんな。あのお姿を見ただけでも、からだ中がむず痒《がゆ》くなりましてね。一つ——」  という堀田の出端《でばな》を小吉は 「おい、逃げようとてまだ逃がさねえよ」  と押さえた。  そう素早く先《せん》を取られたのではこの上|仕掛《しかけ》ようもありませんが、実にどうもあんな屋敷の用人などは、いくらたくさんの御扶持を頂戴しても到底《とて》も永くは勤まりません。先生お身内の平川右金吾という人が逃出して未だに行方不明とききましたが、その人の気持はわたしにも実に良くわかります。逃げでもしなくては法が無かったでありましょう、と、堀田もほと/\嫌になっているらしい。  この日は朝っから音もない糠《ぬか》雨であった。  堀田は、叱られたりなだめられたりして帰って行ったなと思った途端にまるで前倒《のめ》り込むようにして小吉のところへ引返して来た。 「どうしたえ」  落着いた小吉の顔を見て 「先生、た、た、た、大変ですよ」 「ほう」 「柳島の御隠居様が駕《かご》で見えて、殿様と書院で大層な口論です。あれでは抜刀にも及びかねない」 「馬鹿! そんな物をほったらかしておいて、おれがところへ来る奴があるか」 「は」 「父と子が殴り合いの喧嘩をしたり、眼を打たれて血を流し、とう/\屋敷を出て行った程の人達だ。孫一郎というは気違いなんだ。早く行って留めろ」 「は。御隠居は刀の※[#「木+覇」]に手をかけ、先生の事を何にやら頻りに早口に申して居られましてな。多少舌がもつれてよく聞きとれませんが」  小吉は刀を鷲づかみにして、堀田がもそ/\している中に、もう庭木戸を肩で突破るようにして岡野の屋敷へ飛込んで行っていた。  隠居は、ます/\ぶよ/\に肥って、皮膚《はだいろ》は水底のように真《ま》っ蒼《さお》で、これが刀をぬいてふりかぶっているし、殿様も、刀を抜いているが、奥様《おまえさま》がその腕に取りすがっている。お髪《ぐし》はあぶら気《け》もなく、鬢《びん》がぼさ/\に乱れて、痩《や》せて、腕には血の気もない。この人が絞るような声で泣いている。  仮りにも千五百石の天下の御旗本父子だ。世の中にこんな地獄のような有様があるものか。入って行った小吉も棒立ちになった。腕を組んで射るような目つきで唯じっと見ている。  隠居はこれに気づいてどうやら、いっそう気が強くなったのだろう。眼を光らせて 「そ、そ、それへ直れッ」  怒鳴ったが、はあ/\ひどく烈しい呼吸で足元もふらついているようだ。 「岡野家の主は、わたしだ。隠居の身で何にをいう」  孫一郎もわめく。  小吉は怒鳴った。 「おい、馬鹿もいゝ加減になさるものだ」  そういってから 「奥様《おまえさま》、そのお手を放しておやりなさい」  奥様は 「か、か、勝様々々」  と泣き叫び乍ら云われるまゝに、しがみついていた殿様の腕を放してやった。心の中では、もう勝さんが来れば大丈夫だと思ったのだろう。 「おのれ、親を親とも思わず——」  隠居はいよ/\威丈高に、刀を大上段に振りかぶって、ひょっとすると本当に斬る気かも知れない。  小吉はその腕を押さえて逆にねじった。隠居は一とたまりもなく刀を落して 「な、何にをする」  小吉の方を睨んだ。 「何にをするもないものだ。あなた方は由緒ある寄合席の御旗本だ。父子喧嘩も程々になされ」  隠居はがくっと膝を折って、そこへぶっつけられるような恰好で胡坐になった。 「殿様も殿様だ、親御に向って何んという事をなさる」 「隠居が当主へ余計な指図をするからだ」  孫一郎は口を尖《とが》らせて、持っている刀を、隙があったら振上げようとでもする様子である。  小吉は、すぐにそれを引ったくって、ぽーんと庭へ投げてやった。何にか白い小さな花の咲いた芝草の上に、蛇でもはったようにじいーっと刀が横たわっている。 「何にをする」 「侍は親を斬る為めに刀を持っているのではねえだろう」 「余計なお世話だ」 「そうか」  と小吉は苦笑して 「殿様は、父子喧嘩をする時は、ふだんと違って大層強くなるね。眼やにをつけて、米屋の娘がいなけれあ淋しくてねえなんぞといっている時とはまるで別人だ。ふっ/\。いつもそれなら岡野の屋敷もいゝのだがねえ」  じろりと睨んで、その眼を隠居へ移したら、隠居は、はあ/\はあ/\ひどく荒い息遣いで、両手をひろげて、ぶる/\慄《ふる》わせながら、畳へ逼《は》うように前倒《のめ》りかけて、奥様が、それを力一ぱい支えていた。 「どうなされた」 「う、う、う、う」  隠居は、そう唸《うな》るだけで、唇からたら/\と余唾《よだれ》がたれて、それでも頬をゆがめて一生懸命笑っているようである。  小吉ははっとした。眼の底を亡き父平蔵が中風で倒れた時の事がちらりと閃《ひら》めいた。 「奥様、お床を延べられて、御隠居を、御隠居を——」  そう云い乍ら、隠居を自分が抱くようにして膝を枕にしてねせた。   死場所  どうも隠居はいよ/\中風が本当に出たようだ。おなじみの篠田玄斎に来て貰ったら、やっぱりそうだという。しかも玄斎は隣座敷へ小吉をよんで 「そんなに長くはないかも知れないよ」  と耳打した。 「何にを——外科医者がわかるまい」 「いや、いくら外科医者でもこれ位はわかる。直ぐという事もあるまいがな」 「よし、おのしも、往《お》うさ来《く》るさには寄って診てくれ」 「いゝとも」  小吉は隠居へ付きっきりで、殿様を見向きもしない。奥様も隠居の枕辺へつきっきりだが、それから半刻《いちじかん》ばかり経ったら清明がやって来た。 「御隠居様はお駕《かご》でお出かけだが、お屋敷と知れてはいても心配なものですから参りましたといってましてな。どうしましょう」  と玄関で取次いだ堀田が小吉へ訊いた。 「さあ」  そこに奥様がいるから、これは一寸返事に困る。 「勝様、どうぞ通して、あの方に御介抱をさせてやって下さいまし。江雪殿もその方が御満足でございますよ。えゝ、あたくしは、決して嫌味《いやみ》で申して居るのではございませぬ。本心からでございます」 「そうですか」  と小吉は 「奥様もお丈夫なおからだでは無し、さっきの騒ぎで、だいぶお顔色もよろしくありません。では、そういう事に致しますか」 「どうぞ、お頼み申します」  入って来た清明は隠居の有様にびっくりした。ぶる/\慄《ふる》えて、声を上げて強く泣きつくのを、奥様はじっと見て、そうーっと座をはずして行った。 「これ、静かにしねえか。中風だ、動かしてはいけないのだ」  と小吉に叱られて清明は 「あ、あい、あい——あ、あたし、どうしましょう、どうしたら宜しゅうござりましょう」 「こうなっては、どうも斯うもねえ、奥様はお出来なされたお方だ。わかっていらっしゃる。医者の云いつけに従ってお前、心をこめて介抱を申す事だ」 「あい」 「が、加持や祈祷はいけないよ。唯、じいーっと静かに/\」  暫くして小吉は殿様の方へやって行った。隠居が倒れたと知って、あれから一度もその座敷へ顔も出さない。臥そべっていた。 「殿様、あなたは世にも珍らしいお人だね」 「どうしてかねえ」 「親を慕わしいとは思われないか」 「さあ。思わぬ事はない」 「そうかねえ。さっきは本当に御隠居を斬るつもりだったのですか」 「いゝや、対手が斬るというから唯斬られまいとしただけだよ」 「それで刀を抜いたのですか。対手は実の父御《てゝご》だったよ」  殿様は一度眼をつぶって、今度は三白眼を薄目に開いてちらっと見ただけで黙って終った。  小吉はとう/\屋敷へ帰らずに、隠居の枕元で夜を明かした。清明もよく尽す。堀田もよく尽す。奥様は遠慮深そうに時々見舞った。小吉は何んだか、ひどく気の毒な気持がして、奥様が見える度に両手をついてお辞儀をした。  春の朝は花の香をふくんだ靄《もや》の中から明けて来て、堀田が縁の雨戸を繰《く》ると、如何にもほのぼのとした陽が射込んで来た。  隠居ははじめて口を利いた。低い小さな、聞き取れない程もつれた言葉つきであった。 「勝さん。わたしはおのしに恥かしい」 「まだ物をいってはいけませんよ、黙って黙って——」 「いやあ、今度の事は、奥《おく》が知っているから、あれからわしがどうして孫一郎を斬ろうとしたのかどうかきいていたゞき度い」 「知っている。そんな事を気にすることはない」 「有難う——が、勝さんいよ/\わしの死期も近づいて来たようだ。わしは柳島へ帰りたい、あすこで死にたい」 「え? あなたは御隠居をなさったとは云え、こゝの殿様の父上だ。あゝいう何にかにつけ不自由な、辺鄙《へんぴ》なところよりは、療養にはこの屋敷の方がいゝではありませんか」 「違う。おのしはね、お信さんといういゝ御新造を持たれ、お子もあのようによく出来る。だから自分の屋敷というものが一番いゝ、それより外のところは知らない。が、わしは違う。奥はよくつくして呉れる、実によく出来た女《おなご》じゃ。が、孫一郎は鬼だ。いつわしの寝首をかくか知れない奴だ。それもこれも元はわしに責がある。が、わしはもうその責を負う気力などはなくなっている。唯、世の中の誰にもかまわれずに、静かに死に度い、そうーっと死にたい。それには柳島が一番いゝところなのだ」 「わかった/\。御隠居、あなたの好きなようにする。もう物をいってはいけない」 「おのしにはずいぶんひどい目にも逢わされたが、それはいつもわしが悪いからだった。そして、それよりもっと/\世話になった。本当の子より、親身にわしを思ってくれたねえ。礼を申す——言葉にはとても尽せない。たゞこの上最後のわしの頼みは、わしを柳島で死なせてくれという事だ」 「確《しか》と承知した。いゝからもう黙っていなさい」 「頼む。中風という病は、瞬きをする先きの事の知れんものだ。わしを駕《かご》で柳島へ送って下さい」 「よし、よし」 「わしはわしの死場所の柳島で清明に介抱されて息を引取る。この前、おのし柳島へ来てくれた時、此事を云おうとして云いそびれてねえ」  それでも障子越しの春の朝日は、いくらか隠居の顔を明るく見せてくれた。瞼を溢れる涙が、眼尻をつたっては枕へ落ちていた。  小吉は奥のお居間で奥様《おまえさま》と相談した。 「玄斎の言葉では、残念ながらどっちにしても余り長い事はないという。どうでしょう、隠居は柳島で死にたいという。余っ程殿様が嫌やなのです。奥様はどうお考えなさいますか」  奥様も涙をこぼした。 「生涯を我儘三昧にお送りなされたお方でござりました。わたしは、これ迄もせめてもの、あの方のお心の幸福《しあわせ》のためにどのような事も決してお逆い申しませんでした。それが今になって考えると、あの方には、冷めたい仕打にお感じなされたかも知れませぬが、わたしは唯々あの方の幸福《しあわせ》ばかりをそう思っていたもので御座いますからねえ」 「有難い事です」  小吉も両手をついて泣いて終った。 「隠居も馬鹿ではない、わかって居ります。唯、口に出してお礼を申さぬだけの事。では、柳島へやる事に致しやんしょう」 「どうぞ、そうしてやって下さいまし。清明には、わたしからも改めてお頼み申しましょう。あの方に、最後まで思い切り、どのような我儘でもさせて下さるよう」 「それがいゝでしょう」  といって、小吉は眼を閉じてから 「あゝ、奥様《おまえさま》は偉いお方だ」  とひとり言をいった。  お昼ちょっと過ぎに玄斎が来て、先ず大丈夫だろうという事だから、すぐに駕の用意をして、隠居の臥《ね》ている座敷まで担ぎ込ませた。こゝで小吉が抱いて駕へのせ、自分が駕脇へついて入江町を出発した。隠居は顔をゆがめて笑い乍ら、時々、駕から手を出して 「清明」  といったり 「勝さん」  といったりして、手を握った。  この駕には二人の外に玄斎もついて来たし、東間陳助も堀田甚三郎も道具市の世話焼さん迄が一緒に来てくれた。  駕は少し先きへ行く。東間と堀田がおくれて歩き乍ら、堀田は何度も何度も首をふった。 「全くあの屋敷には、寸刻もいるのが嫌やになったよ」  という。 「尤《もつと》もだ。が、世にいくら悪人でも人非人と云われる者は少ないが、あの岡野孫一郎というは全く人面獣心だな」  東間は虫唾《むしず》が走るというような顔をした。  堀田はその東間へ顔を寄せて 「どうだろう、東間さん、代って貰えんか」 「何にを代るのだ」 「岡野の用人さ」 「と、と、飛んだ事を云うな。おのしは文字もあり、何事にまれ誤魔化《ごまか》しは甘《うま》し、先生が最適任とにらんであすこへやってある。おれが行っても役には立たんのだ」 「困ったなあ、こんな事ならいっそ韜晦《とうかい》して、また旅廻りでもやろうかな」 「馬鹿をいうな、先生に聞こえたら唯事では済まん。何あにもう少々の辛抱だ。おれが見当では、この隠居が」  と東間が駕を指さして 「死んでさ。御病人だから奥様《おまえさま》もそんなに生きられない。そうなると先生は岡野の事などは頼まれたって構われんよ。先生はな、あの隠居の息がある間に、岡野の家の潰れるのを見せたくないというお気持であゝして苦しんでいられる。え、おい、何処の馬鹿が、大阪くんだり迄行って、あれだけの骨折りで、木綿一反のお礼で有難うございますと、頭を下げて貰っている奴があるものか」 「そうだ。今日の事だってその一反が父子|刃《やいば》を抜き合うという騒ぎの元だからね」 「しかし、先生があゝされるだけの事はあって、御隠居というのはいゝところがあるなあ。酒と女でふやけて終って腑《ふ》抜けかと思ったら、義理の為めには、自分の伜も斬ろうという。まるでよいよいのようなからだで、柳島から入江町まで駕で乗込んで来たのは、やっぱり歴《れつき》とした侍だ」 「おれがこの目で見る前の事を奥様から伺ったが、駕が玄関へつくと同時に飛上って、いきなり殿様の居間へ行く、突立ったまゝで、そなたは先般の一件で勝さんへ木綿一反の礼をしたというが、真実か、性根を据えて答えよと大声《たいせい》で怒鳴りつけたそうだ」 「そうだってねえ」 「それへ、自分の知行所から借上げたのだし、往復の路用も出した。まして勝さんの一行は帰りは京から駕だ。ずいぶん無駄な金を使っている。あれだけで結構だといった。隠居は何んという事をいう、人の親切がわからぬ奴は禽獣《きんじゆう》に劣る。岡野の系譜に禽獣が加わっては末代の恥だ、斬捨てるといってさっと刀をぬいた」 「並の人間ならおやじの刀の下だ。詫びるか逃げるかどっちかだが、隠居の分際でとか何んとかいって、剣術の一手も知らない人が逆に親に斬りつけようとしたというから驚き入った次第だ」  この時、先きを歩いている小吉が振返った。  怖い目で 「黙っては歩けねえのか」 「はっ」  二人首を縮めた。少し行って、堀田がまた小さい声で、しゃべり出した。 「何んぼ何んでも木綿一反はひどい。それを隠居は余っ程恥かしかったんだね。酒や女で放埒《ほうらつ》をして世上にかき捨てる恥と、恥の性質《たち》が違うからねえ。斬ろうという。わたしは隠居を見直したよ」 「しかしあのぶよ/\のからだで心気が高《たか》ぶると中風が発するのは知れている。まことに気の毒な事をした——ほいッ、先生がまた振向いたぞ」  堀田も東間も、さっとうつ向いて黙って歩き出した。  丁度、法恩寺前を少しすぎて、小旗本屋敷の並んでいるところで、駕《かご》の中で隠居が何にかいっている。はじめはよくわからなかったが、気がついたので小吉が 「何んです」  と内へ首を突込んだ。そして、笑いながら大仰にのけ反って 「おい、駕や、ちょいと留めろ、病人が小便がしてえという」 「へえ」  小吉はまるで子供のように隠居を抱きかゝえて、往来で小便をさせた。往来の人がじろ/\見て行く。 「よし、さ、行こう」  駕が動いたが、みんな無言だった。  東間と堀田がまた少し遅れた。 「え、うれしいではないか先生はさ」  と堀田が囁《さゝや》いた。 「そうとも。今知ったか」  といって東間が 「だからこそ、この先生の為めなら命も要らないという奴がいくらもいる。先生は知らないが本所《ところ》の大名旗本の仲間部屋《ちゆうげんべや》の奴らが組んで、嫌やでも先生を押し担ぎ、この辺へ外土地から来て暴れる奴を片っ端やっつけよう、その代り部屋で出来る|ばくち《ヽヽヽ》の寺かすりは先生へそれとなく差上げようではないかという話が九分通り纏《まとま》っている。切見世などへ女を買いに来ては尻を出し、ずいぶん無法をいう奴も多いから、これもいゝ事だ」 「うむ。しかしだね、わたしは、今、ひょいと気がついたが、先生は御支配頭から他行留の身だ。こんなところ迄出て来てよかったのかね」 「ほい。そうだ。先生はうっかりしているのだよ」 「他行留を破ると、一間住居の座敷牢か、同支配の者のところへ御預けになる掟だよ」  堀田に云われて東間があわて出した。   庭作り  急いで小吉の側へ寄って、小さな声でそれを告げた。 「いゝよ」  と小吉は引返そうとはしなかった。  この夜更けてから屋敷へ帰った。お信がやっぱり他行留を破った事をひどく気にした。 「おれへの摂州行の礼が不届だと腹を立てて、殿様を斬ろうとして、それがために倒れた隠居を、望みの死場所までおれが送らずにはいられねえよ。こんど知らせがあっても、その時はもうどう馳《は》せつけても死目には逢えねえのだからねえ」 「それはわたくしでも、そう致す事で御座いましょうけれど、御上の掟をお破りなさるという事が——」 「これから気をつけましょう」  小吉はそういって頭をかゝえて笑った。  しかし、いゝ塩梅《あんばい》に、その一件はわからずに終って春はだん/\色が濃くなる。若葉の美しさは小さな勝の庭にも満ち溢れて、楓《かえで》や、錦木《にしきぎ》などのすうーっと軟かく延びた葉先が人の肌には感じられない程の微風にもなよ/\とゆらぐ有様はまことに風情があった。  世話焼さんをはじめ、なじみの人は、朝から晩まで、引っ切り無しに来ているし、殊に漆喰絵の村田長吉が毎日やって来て縁側の片隅の壁を一枚彩色の綺麗な山水にぬりつぶしたりしたが、小吉には何処へも出れないという事が、とても堪らなかった。  長吉は、この絵が出来ると 「修行に出て参ります。宿場などの旅籠、女部屋の二階の戸袋などに、名も知れぬ職人の拵《こさ》えましたずいぶんいゝ物もあり、まして、お寺や社にもあると思いますので、どんな物か、一つ/\にぶっつかって見る気でございます」  といって、本当に次の朝は、菅の一文字笠に、到って身軽な風態で、行先も定めずに出て行った。 「お糸の事をどうしても忘れる事が出来ないといっていたが、おれが、その中に探してやると投《ほ》ったらかして置く中に、やっぱり、ほとぼりがさめたのだねえ。こゝ迄来れあ、あの人、夢中になってる漆喰絵が真物《ほんもの》になるかも知れねえよ」  とお信を見て 「女なんぞは困るが、人間打込むというは尊いものだよ。はっ/\/\は」  何んでもないのに、急に笑い出して 「おれなんぞは仕様がないね」  と例によって寝ころがって暫く黙っていてから 「どうにも余り退屈だから、明日から、庭作りでもやろうか」 「え、お庭作り」 「あっちの木をこっちへやり、こっちの木をあっちへやり、いくらか眺めが変ったら、気も替ろうさ」  お信はにこ/\した。小吉が庭作りなどという事をやろうという。喜ぶというよりは、何にかしら、ほっとしたのである。  次の日から、小吉は朝まだ昏《くら》い中に起きて、剣術の稽古着一枚で、素《す》跣足《はだし》になって庭へ降りると、ほんの僅かよりない木を、本当にあっちへ移したりこっちへ移したり、土だらけになってやり出した。  これが二、三日つゞくと、おなじみの人達がみんな気がついた。先ず世話焼さんが、次の朝樺色の美しい蓮華つゝじの大株を素焼の水盤へ置いたものを、手車へのせて運んで来た。 「花のある間はお床の間へお置きなさいましてね。散ったら土へお下ろしなさるとよろしいそうでございますよ」 「いろ/\|つゝじ《ヽヽヽ》もあるがこ奴は滅法美しい。何んとも云えねえ色だねえ」 「持ってた者が、箱根などには沢山あるが江戸には珍しいと自慢をして居りました」  みんないろ/\な植木を持込んで来る。 「おれは、まるで植木職だわ」  小吉はそんな事をいっている中に、庭は足の踏みどころもない程に植木に埋まって終った。  縁へ腰かけて、両腕をうしろに支えて反りかえり 「どうだ、お信、いゝだろう」 「さようで御座いますねえ」 「が、実はこうなると正直いうとやっぱり素人には手に及《お》えない。おれは降参した。植木職は植木職で当人は改めてそれと知ってはいめえが代々の長い間に不思議な尊い物を身につけているものだった。俄か庭作りがこれを冒す事は出来ねえ。偉いものだ。こゝだと思って植込んでも一日見ていると飽きて来る。考えて見ると、おれが手をつけなかった、あの元の庭がやっぱりよかった」 「ほほゝゝ」 「植木職を呼んではじめからやり直しだ」 「ほほゝゝ。あなたのお弱音を信ははじめて承わりました」  五月に入ったら石榴《ざくろ》が咲いて、石灯籠の横にも、誰がいつの間に植えたのか蝦夷《えぞ》菊が小さな可愛い花をつけた。  もう梅雨が近づいて薄曇りの日が多かったが、その代り晴れたとなるとそのすが/\しい空の色の美しさは外の季節には見れない。きら/\した雲の峰が忽ちにして形を変え、舞い登るかと思えばすぐにまた銀の海のように平らになる。  小吉はよく縁側へ胡坐《あぐら》をかいてぼんやりとこれを見ていた。今日にもお信が子が生れる。世話焼さんをはじめ誰かしら引っきり無しにやって来るし産婆《とりあげ》さんも一日おきには来る。篠田玄斎も通りすがりだろうが時々外から大きな声で 「変りはないかな」  などといって行く。  小吉は気になって、何にをする気も出なかった。尤《もつと》も他行留で何処へも出れないのだが——。 「まだかねえ」  と出しぬけにお信にそんな事を云って、それからきっと 「男かねえ」  と訊く。流石《さすが》のお信もこれには弱った。  しかし遂々《とうとう》、その日は来た。五月四日。男の節句を明日にして、みんな手が揃って、お信は安らかに子をうんだ。 「男かえ、女かえ」  小吉が遠くから覗《のぞ》き込むような恰好をして、次の間からこうきいた。 「はい。女子様《おなごさま》でござります」  産婆《とりあげ》さんがいった。 「女子《おなご》?」  と小吉は首を縮めて 「はっ/\。こればかりは仕方がねえやねえ」  と自分で自分に云ってきかせるような顔つきをした。  母子共にすこやかである。  道具市の人達は当分来るのを遠慮して、唯東間陳助、世話焼だけが、一日《いち》ン日《ち》中詰めている。  お七夜だ。  不意に彦四郎がまた家来をつれてやって来た。その調子が麟太郎が生れた時と、まるで型で押したように少しも違わない。 「名前はわしが付けて来た」 「は」 「お順とせよ」 「お順?」 「明通記に上天心に順《したが》い下民望に従うとあり、順は従、随、循等と同じ。要は道理にしたがいて逆《さから》わずという事だ。女子はこれが第一。お順とせよ」 「はあ」 「お前はおかしな人間だ。麟太郎は一間住居の時に生れ、今度の子は他行留の間に生れた。小吉ッ」  と急に大声で 「とっくりと考えて見よ」  彦四郎の肩が少し持上った。  小吉は法華経の御曼陀羅《おまんだら》を奉じ妙見菩薩を安置した仏壇の前へ、兄の命名の奉書をのせてその前に長々と腹ン逼《ばい》になって、煙管《きせる》の雁首で背中をかき乍ら 「兄のいう通りだ。麟太郎は座敷牢、今度の子は他行留。はっ/\、兄はいつも、貴様は常に道理に逆《さから》っていると叱っていつか流水不逆なんぞと下手っ糞な字を書いてくれたが、やっぱりそのようだ」  にや/\笑って 「お信。お順とはいゝ名かねえ」  といった。お信はまた床の中にいる。 「はい。女子は道理に暗く、とかく情に溺れ易いもの。夫に順《したが》って逆《さから》わず、夫の唱えに随って参りますが一番|幸福《しあわせ》でござりましょう」 「ほい」  と大声で 「そうときいたらお順とは滅法いゝ名だ」 「兄上様はわたくしに申していられました。女の子だ、とても末々小吉の側へは置けぬ、今度こそ、わしが養育をする。その覚悟で居るようにと」 「ほう、麟太郎で懲性《こりしよう》もなくまたそんな事を云ったか。仕様のねえ兄だ」 「お心遣いは有難い事でござります。それにしても兄上様とんとお老けなされましてございますねえ」 「そうよ。もうすぐ死ぬだろう」 「まあ」  たぶん彦四郎の云いつけだろう、麟太郎はとう/\来なかったが、精一郎が祝儀を述べにやって来たのは、それからまた七日ばかり経ってからであった。家来を一人つれて上下《かみしも》を着けていた。 「実は少々建議の筋がございまして、御城へ十日程詰めて居りました」  という。 「しかし叔父上、わたしの建議は残念ながらとてもお取上げいたゞけそうではありません」 「何だその建議というのは」 「はい。もう世の中は剣槍《けんそう》だけではいけない。剣槍よりはむしろ銃砲火術、洋式調練、海軍操練、こうした事の方が先きだと信じましてね。それらを一つの学堂に集めて一斉に研究調練致すよう、学文《がくもん》とても同様、旧来のものだけに固執していては眼界が狭い。阿蘭陀は元より、フランス、イギリスなどをやらなくてはと御老中御若年寄方、一々お詰の間に推参して説きました」 「ほう、お前がか——偉えなあ」 「しかし、わたしの学文もとんと未熟です。ぎり/\の決着へ参りますとまるで真っ暗でしてね。御老中方を説得する事は出来ませんでした」 「はっ/\。身分も低し、お前のような若い者の言分が、すうーっと通るようなら、こんなに世の中に浪人が多く、貧乏人が多く、家禄をいたゞく御旗本さえ小普請《むやく》で、みんなふくれッ面でうようよしているものか」  精一郎は何んだか眠っていた叔父の不平の虫を突起して終ったのではないかと思って、はっとして、暫く黙っていた。 「それは、それと致しまして、今日はよろこばしい事を耳に致しました。叔父上の他行留が解けるそうです」  小吉は眼を丸くして 「そうか。誰からきいたえ」 「城中御広庭で父上に逢いました時に申されて居りました。叔父上、父上はなか/\あれで蔭へ廻って奔走したようです」 「そうか。すまねえ」 「今は申してもよろしいでしょうが夜陰に及んで三度程船河原の屋敷に御支配頭戸塚備前守をお訪ねしたようでした」 「へん、また賄賂《わいろ》かえ。精一郎、おれあね、他行留は別に苦にはならねえよ。兄上も余計な事をしてくれるわ」 「そうでしたかなあ」  精一郎はから/\笑って、やがてお信に、くれ/″\も大切にして下さるようにと、行儀正しく挨拶を述べて帰って行った。  この話はそのまゝ真実で、それから二日目に戸塚備前守から呼出しがあった。 「実はこの程詳しい話を知ったが、その方の摂州行は、物見遊山などなぐさみ事ではなく、余儀ない事だったと承知した。それにしても、如何に岡野孫一郎が家を救い、由緒ある御旗本の面目を保ったとは云え関所を越えた事は重々の不埒《ふらち》であるから、本日迄の他行留を不服に思うては相成らんぞ。しかし最早慎しみの態も神妙に存ずるから、今日より他行差支えない」 「有難く存じ奉る」  小吉はそれでも尤《もつと》もらしく平伏した。 「噂にきけば、よく市井の者共の世話面倒など見るそうだが、定めし不自由であったろう。申渡の砌《みぎり》、岡野の事を詳細に陳述すれば、何にかと法もあったに、何故黙って居ったか」 「は。微禄ながら御旗本が自儘の他行、罪は悉くわたくしにあり、重々申訳なしと存じましたので」 「いや、感じ入る節もある。将来何にかと力にも相成ろう。時折は屋敷へも参れ」  備前守はそういった。申渡しの時はずいぶん意地が悪そうで、脂ッこくて嫌やな奴だと思ったが今日はそれ程でもなかった。 「賄賂をとって偉そうなことをいってるよ。馬鹿にしてやがる」  小吉はそう思って、むか/\しながら、顔も見ずに引退って終った。  他行留なんか、何んでもないようなものだが、こう、はっきり免じられたとなると、やっぱり、気も心ものび/\してうれしかった。  小吉は鼻唄で、あの逢坂を下りて来た。唄といっても節にも何んにもなっていない下手っ糞である。   甲州神座山《こうしゆうじんざさん》  坂を下りて、お濠端へ出たら、市ケ谷田町の方からやって来た四人づれの女がちらりと目に入ったが、満々とした水の色を背景にした濠の柳の緑が何んとも云えず美しいので、小吉はそっちを見ていると 「あら、勝の先生」  女の声でびっくりしてそっちを向いた。 「おゝ、佐野槌の女将《おかみ》か」 「おかみかでは御座りませぬよ、とんとまあひどいお見限りで、あれ以来お顔もお見せ下さらず、先生、ひどう御座いますよ」 「剣術遣いの義理では出て行くが、おのれで吉原なんぞへ行けるものか。だが、おのしも達者で祝着《しゆうちやく》だ」 「あんな事をおっしゃってでいらっしゃる。本当に憎らしいお方でございますね」 「はっ/\。おれは正月早々から御支配からの他行留でな、たった今お屋敷へ呼出されてお許しが出てけえる道だが、おのし何処へ行って来たえ」 「はい、願懸けの筋がござりましてね。すぐそこの愛敬稲荷様へお詣りでございますよ」 「ほう、吉原からは大層な道程《みちのり》だ、信心なことだな」  といって、小吉ははじめて、女の一人/\の顔を見た。  おかみの外にまだ肩揚をした下女が一人。外の二人はいゝ年頃だが、小吉はその一人の方を見て、ちょっと首をかしげた。 「おのし、見た事がある」 「ほほゝゝ」  その女は急に唇を押さえて、こゞむようにして笑った。 「さようで御座りますか」  といった。鼻の高いすっとした顔かたちであった。 「おゝ知れたわ」  と小吉は少し反身《そりみ》で、手を打って 「お糸さんといったねえ——元は村田の長吉の許嫁《いいなずけ》、はっ/\、その後《のち》、摩利支天の神主が舎弟の女房でいた時も逢ったっけねえ」 「さようで御座いますよ」 「それから番場町の山崎直弥という御家人と一緒だったと、これは長吉からきいたっけが、大層変ったではないか」 「はい。この通り変りました。今は母方の御縁をいゝ事に、おかみさんへおすがり申し東両国《こりば》で矢場《やば》をやって居ります」 「矢場?」 「一と頃は御旗本の御新造《ごしん》さんも、こうなっては、とんと下《さが》ったもので御座います」 「そうかねえ。下ったかねえ。人間定命五十年という、やりてえ事をやって終るもいゝではないか」  そう云う小吉はもう歩き出していた。少しそよ風が出たと見え、濠端の柳が思い出したようにゆれた。  佐野槌のおかみは、お糸さんはあたしの伯母の縁つゞきですが連《つ》れ合《あい》の運が悪くて、三度も不縁になりましたが、もう諦めて、これから先きは女手一つでやって行くというので、いろ/\訊いて見ると、何処かで綺麗な矢取女を揃えて矢場をやりたいという。手蔓でだん/\探したら少々下卑てはいるが垢離場《こりば》に一軒、芝の神明に一軒、いゝ株が売りに出ていると知ったので、それを手に入れて、はじめました。もう一人の女は、神明の方にいつもいる者でございますよという。 「滅法な別嬪《べつぴん》じゃねえか」 「そうでございますともさあ。神明のおときと云って江戸中へ通っているのでございますから」 「そうかねえ」  と小吉は 「おい、それにしてもお糸さん、お前、天下を掌握するような偉え侍でなくては嫌やだといっていたが、思い切りよく趣向をけえた。偉いねえ」  笑いながらいった。 「さようで御座います。三人も亭主にして見て、ほと/\侍というものの世界に愛想が尽きました。何にもかも賄賂《わいろ》の世の中、お金のないものが腕で立身するなどとは、お月様をつかもうとしているようなものだとよく/\わかりましたら、侍がほんとに嫌やになりました。他愛もない夢をずいぶん長い間、本気になって見つゞけまして御座います」 「そうかねえ。そうなると可哀そうな事をしたのは村田の長吉、立派な侍になって、お前さんを新造《しんぞ》にしようと、一と頃は、ぐれた侍の仲にまで入ってむごい苦労をしてね」 「え?」 「いろ/\やったが矢っ張り駄目よ。夢は何処まで行っても夢だから。今は漆喰絵の修行にずうーっと旅へ出てるがね。房総からお終いには甲州路へも行くという。どうだ、お前、あ奴の女房になる気はねえか」 「いゝえ、もう懲々《こりごり》でございます。男は断ちました」 「そうか。——が、長吉が帰って来て、お前が今はこう/\と知ったら、どんな気持になるだろう。忘れたような顔はしているが、あれはきっと未練があるよ」 「いゝえ。あの人もあれで案外な片意地なところが御座います。もう、わたくしにも、ほと/\愛想が尽き、そのような事はないで御座りましょう」 「そ奴はおれにもわからねえが、もし未練だったらどうする」 「今更飛んでも御座りませぬ」  そうきいたら小吉は口をつぐんで終った。  女達といつ迄一緒に歩くのも嫌やだ。小吉は新坂下の辺りへ来て、佐野槌のおかみが、何処かその辺で休みましょうというのを振切って別れて終った。  屋敷へ帰ったら、お信が赤飯に小さな鯛をつけて祝膳が出来ていた。小吉は横に紅い小蒲団でねているお順の顔を覗《のぞ》き込んで 「章魚《たこ》見たようだね」  そんな事を云い乍ら胡坐《あぐら》をかいた。 「きょうは吉原の佐野槌のおかみに逢って汗をかいたわ。二階から銭座の小役人を投げ飛ばした騒動で、いろ/\迷惑をかけたろうが、松五郎たち頭手合がおれの名代で出て行ってはいるものの、こっちは、あれっきりだからねえ。平気な面《つら》は装っていたが、いや、実に弱った」 「さようで御座いましたか。およろしくない事をなされますと、いろ/\なお酬いが何時参るか知れないもので御座いますねえ」 「はっ/\。そうだねえ——が、もっと驚いたは、あの村田の長吉のお糸というが、佐野槌の遠縁で、垢離場《こりば》で矢場をやっているというが一緒でね。垢離場と云えばこゝからも長吉のいる花町とも目の鼻だ。よく今日まで出逢わなかったものだ」 「さようでござりますか、いつぞや屋敷へも参られたあのお人?」 「あ奴よ」 「これがまた何にか騒動の種になるのでは御座りませんでしょうか」 「別に騒動もねえだろう。おれも先っきそんな気はしたが」  しかしいゝ塩梅に何事もなく、涼風の立つ秋になって、小吉は、お順をもう章魚のようだとは云わなくなった。  爽やかな秋はあッという間に冬になり、ちら/\雪の降る日がつゞいたと思うと、またのどかな春が来る。歳月は水の流れるように来ては去り、また来ては去り、天保八年春、十一代将軍家斉は、職を世子家慶に譲って、西丸に隠居し、大御所と称した。  翌九年。麟太郎はこの間にたった二度、入江町に両親を見舞っただけであった。  小吉三十七歳。  麟太郎十六歳。  彦四郎すでに六十二歳。いよ/\痩《や》せて鶴の如く眼光のみが炯々《けい/\》としていた。  精一郎二十八歳。  麟太郎がはじめて来た時、小吉は撫でるようにして 「是非一度|遣《つか》うを見たいと思っている島田虎之助は修行から戻ったか」  ときいた。 「まだで御座います。お戻りなされば、先生はそなたを、あれに預けると申して居られました」 「そうか。この間きいたが、お前、東間の胴を払って気絶させたというは真実か」 「東間先生が、わざと、あのようなお真似をなされたのでございましょう」 「よし、よし」  二度目の時は 「阿蘭陀はやっているか」  と顔を見るとすぐきいた。 「は。唯今はグラマチカをやって居ります」 「何んだそのグラマチカてえのは」 「文法です」 「文法とは何んだ」  お信がそっと小吉の袖をひいた。 「あゝ、そうか、よし/\。文法をやっているか」 「はい」 「島田虎之助はまだ帰らないか」 「まだですが信濃路から先生のお許へおたよりがありました。近々におかえりのようです」 「そうか。帰ったら、おれが一度遣って見る」  麟太郎は、そういう小吉をにこりと上眼で見たが何んにも云わなかった。  麟太郎が帰ると 「おい」  とお信をよんで 「まるで他人のようにしやがる。が、あ奴、余っ程学文が進んだようだな」 「さようで御座います。でも他人のようにするどころか、門の外へ送って出たわたくしへ、父上は少しお顔の色がお悪い、どうぞ気をおつけ下さい、麟太郎が成人致します迄は必ずお患いなどのないように、母上、お願い仕りますとあの子に珍しく眼をうるませ呉々も申し残して参りました」 「はっ/\。奴め、滅法大人びて来やがった」  笑った小吉の眼も少しうるんだようであった。  村田の長吉が、旅から戻って参りましたといって、土産の品を持って松五郎頭と二人で訪ねて来た宵《よい》は晩春の煙るような雨であった。  長吉は小吉の顔を見るなり 「先生、平川右金吾さんにお目にかゝりました」  といった。 「ど、何処で逢った、どんな服装《なり》をしていた」  小吉は一気にいって息をのんで瞬きもせずに見詰めた。 「甲州の黒駒村、あすこに神座山檜峰の社というのがあります。社域の山林が三里四方、それに廿六石五斗いくらという大公儀の御朱印がございまして大層なものでござります。その拝殿に見たいものがあって参りましたところ、神主の武藤外記という人のところに、平川さんが厄介になっていられました」 「で?」 「御病気のようで、余程お悪いか、いやもう大層おやつれで、杖をついて近くの五里ッ原というところへ散策に出て来たところと、ぱったりお逢いしたので御座います」 「何にか云ったか」 「先生には飛んだ迷惑をかけてこの世でお目にかゝれぬおれだ。こゝでおれに逢ったとは必ず云ってはならぬ——いゝお天気の日でございましたが、平川さんは、あの黒駒村を抱くように高く高く聳《そび》えている神座山を指さされましてね。あの巨木の盛上るように茂り合った神々しさはどうだ、あんな不思議な美しい山は決して外にはない。おれはな、朝夕、あの山を仰いでこゝで命を果てる覚悟をしている。山には霧がかゝり靄《もや》がかゝり、一日中いろ/\な姿を見せてくれるばかりか、小鳥がおれのねている枕の前まで来てさえずって呉れると、そんな外事《よそごと》を云い乍らも泣いていられました」  小吉は長吉の腕をつかんでいた。 「それでどうした」 「でもやっぱり江戸が恋しい、先生がなつかしい。おれはよく先生の夢を見る、三晩も四晩もつづけて見る事もあるんだよ。おれはな、先生がお金を持ってそっと岡野の屋敷へ来ては、渡して下さった、あのお姿が忘れられないと」 「そうか」 「世話になっていられる武藤という神主は毎年伐出す神座山の杉木が莫大なので、申さば土地の豪族、公儀の代官も何にも手は出ませぬ。四町四方の宏大な屋敷を構え、その地内の竹藪では、毎日ばくちが出来るのです。あれから石和《いさわ》甲府へかけ、やくざ者の多いところでございますから、神主とは云え、その総元締のような恰好で、どうも様子では平川さんも誰か界隈《かいわい》のばくち打ちの用心棒でもしていたのを、病んでから、こゝへ引取られたようでございました」  話し乍らも度々軽い咳《せき》をした。真っ青で血の気もないから、わたしはひょっとすると癆咳《はいびよう》ではないだろうかと思いました、という。  小吉はそれから長い間口をきかずに眼を閉じていたが 「ちょいと世話焼さんのところへ行って来る。おう、お前らも来てくれ」  そういって、松頭と長吉をつれて出て行った。  夜更けて帰って来て 「お信、また心配をかけてすまねえが、おれはちょいと甲州へ行って来る」 「はい。さっき長吉さんのお話をうかゞって、あなたの御気性故多分そのような事になるだろうと、覚悟を致して居りました」 「他行留なんぞは屁でもない。唯、将軍家《だんな》へ御《おん》申訳はねえ次第だが、平川がそんな有様でいるときいて、黙って済まされねえのが、生れついてのおれの因果だ」 「はい」 「麟太郎はもう大人だ。おれがどのような事になろうとも、立派にお前に孝行はしてくれる——そ、それあ、あ奴に、これッぽっちの迷惑もかけたくはねえが、な、お信、おれは、そこ迄の覚悟をきめて甲州へ行くのだ」 「はい。後々の事は心配なされずに、どうぞお出でなされませ」 「甲府迄には小仏の難所《なんしよ》はあるが多寡の知れた卅六里、行きけえりに十日とはかゝるまい。お前《めえ》、その間だけ眼をつぶっていてくれろ」  その夜、雨の中を、小吉は赤合羽に饅頭笠、若党の拵えで、長吉を案内につれて江戸を出発していた。  府中の八幡宿で夜の明ける鐘をきいた。糠《ぬか》雨がまだ降っていて、野も山も模糊《もこ》としている。   垢離場《こりば》  平川右金吾は、本当に衰え果てていた。江戸できいて思ったより、もっと/\病気は悪いようである。  小吉は自分でも眼をうるませていながら、駕の中で右金吾がすゝり泣くと 「めそ/\するな」  と怒鳴りつけて、黒駒村の神主武藤外記の屋敷を出発した朝も、やっぱり煙るような雨であった。黒い鶺鴒《せきれい》があっちの樹こっちの樹へ移り、駕を追うように鳴きつゞけた。深い竹藪《たけやぶ》と竹藪の間から神座山が道へ迫まり、うっそうと茂った釈迦ヶ嶽、黒嶽、三峰。笹子の峠へつゞく山々が折重って眼にしみた。緑でも無く黒でもなく、底深い山の色は、しーんとして咳《せき》一つしても悪いような気がする。  神主の外記をはじめ親切な武藤屋敷の人達が、みんな門の外まで出て、小吉一行が、少し下りになった道をしずかに消えて行くのを見送った。小吉もふり返っては頭を下げた。このからだでは、右金吾がどんなにお世話になった事かと思うと、何度でも頭を下げずにはいられなかったのである。  北西《いぬい》へ向って二里余り。代官所のある石和《いさわ》へ出て、ここから甲州街道を江戸へ行く。小吉は竹藪に包まれた甲州五万石代官陣屋の手前の道を通りながら、思わずふゝンと笑った。 「縁のあるところだ」  と思い出すようににや/\して 「こゝの御代官の手付になる事になって、その招宴で同役を投げ殺し、それでおれが生涯はお終《しめ》えになったっけ。ははゝゝ」  出しぬけな声で、長吉もびっくりしたが、小吉はもうけろりとしている。いゝ塩梅《あんばい》に、どうやら雨はあがりそうだ。空が大層明るくなった。  勝沼宿まで来て早くも旅宿へ着いた。黒駒から四里とちょっとである。  小吉は長吉に手伝わせて、右金吾を双方から抱くようにして、旅宿の二階へ上った。 「疲れたか」 「いゝえ」  と右金吾は首をふった。 「そうか。江戸へけえって丈夫になり、東間と三人でまた面白い日を送ろう」 「はい——でも、わたしはもう——」 「馬鹿奴、しっかりしろ、病は気からとはその事だ」 「はい」  小吉は右金吾の様子を見ながら、四里で泊り五里で泊り、帰り道に十日もかゝってやっと江戸へ着いたその夜の事である。  もう寝て終っている。ずいぶん長い事お順を抱いて、あやしていて床へ入ったので、とっくに子之刻《じゆうじ》が過ぎていた。  頻りに門を叩く者がある。お信も眼をさましたが、小吉が 「碌《ろく》な事じゃあなさそうだ。ほったらかして置け」  といった。 「でも」 「いゝからお前はねていよ——今頃門を叩くなんざあ飛んだ野郎だ。お順がおどろくわ」  しかし小吉はきび/\した身ごなしで起き出して行った。  まだ門を叩いている。  いきなり怒鳴りつけた。 「こら、屋敷を違いやしねえか。こゝは勝小吉だぞ」  対手はやっとほっとした様子で 「へ、へえ、へえ、垢離場《こりば》の花槌から使《つけ》えにめえりやした。ど、どうぞお助け願います」 「花槌? そんなところを、おれは知らない。帰れ」 「おかみさんはお糸と申上げればきっと来て下さると云って居りやした」 「お糸だと? 自惚《うぬぼ》れた奴だ、が飛んだものに見込まれた。あ奴には恩も仇《あだ》もないが、佐野槌のおかみさんには迷惑をかけている」  と小吉はお信のところへ引きかえして来て 「困った事になった」 「そうで御座いますねえ」 「どうしたものだろう」  小吉はまた玄関の方へ行って 「何にがはじまったのだ」 「へえ、悪性《あくしよう》なやくざ者が、おかみさんに遊びを断られ、面《つら》へ泥をぬったと暴れ出し、刃物を振廻して、もう三人も手を負いました」 「馬鹿野郎、垢離場には無駄飯をくってごろ/\している野郎が箒《ほおき》ではく程いる筈《はず》だ。そ奴らはどうしたのだ」 「へえ、面目ございませんが歯が立ちません。旅がらすの暴れ者が七人です。そ奴らが、どうしてもおかみさんを殺すといって追い廻して居りますんで」  お信も起きて来た。お糸とは一度逢ったきりだが確かに知っている。 「あなた、行ってお上げなさいまし」 「嫌やだねえ」 「あなたの御留守中道具市の世話焼さんの親類の方もいゝ株があったので見世を一軒急がわしく出した筈で御座いますよ」 「そうか」  やっぱり小吉は出て行った。  門の潜りを出ると、如何にもあゝした遊び場所などで、ふだんは大きな事をいっているが、いざという時には物の役にも立たない男が二人、遠くの辻行灯にぼんやり見えていた。  垢離場《こりば》は如何にも騒がしかった。川向いの両国河岸から薬研堀|界隈《かいわい》は、川っぷちに辻行灯がぼんやりと二つ三つ影を流し、大名屋敷の灯もちら/\見えるが、こっちは、灯という灯はみんな消えて、何にか不気味なうめき声が何処かで聞こえる。  暗い中を、小吉はずばッと露路口を入って行った。途端に 「先生」  女の声で、胸元へしがみついて来た。 「きっとお出で下さると思ってました。あゝ、やっぱり先生は来て下さいました」 「おゝ、びっくりしたお糸さんか——先ず断って置くが、おれあね、佐野槌のおかみさんの義理で来たのだよ。暴れているのは、一体何処だ」  お糸は、一度、ごくりと唾をのんだ。 「ほら、御覧なさいまし。垢離場中が滅茶々々に壊されました。たった一軒だけ微かに灯の家がござります。あすこで七人がいま飲んで居ります」 「それじゃあもう騒ぎはすんだのだろう、おれあかえるよ」  途端にお糸が小吉の袖を力一ぱいぎッとつかんだ。 「よくわかりませんが、怪我人も七、八人は出ているので御座います。あのまゝ、あ奴らを帰したのでは、何処までも弱味をつけこまれ、この先き垢離場は成立たなくなります。どうぞみんなをお助け下さいまし」 「はっ/\、一と頃に比べお前さん、滅法弱っ気になったねえ。何にもお前一人で、垢離場を背負う事もないだろう」 「いゝえ、はじめ、わたしのところへ遊びに参り、矢が当らぬという事から因縁をつけ、いくらかのお銭《あし》にしようとしたのですが、わたしは、この花槌という矢場はお前さんらのような、堅気のふところにたかる虫を見たようなやくざ者の来るところではない、まじめに一日働いて、その疲れをお忘れなさろうというお方々に来ていたゞくためにやっているのだと斯う申したので御座いますよ」 「ほう、尤もだね」 「客を撰り好むとは生意気だと、矢取の女に悪《あ》くどくからみ、今にも手籠《てご》めにも仕兼ねない上に、第一、矢が当らない。弓も矢も曲げてあるといんねんをつけはじめました」 「何処の奴だ」 「話の様子では板橋の宿場界隈を荒している奴らのようでございます。そこへ方々の家から若い衆が出て来て喧嘩になりとう/\この始末です」 「だが、まだ暴れているなら、ともかく、今おとなしく酒を喰っているのなら、やがて帰って行くだろう。どうせふだん滅法な悪銭を稼《かせ》いでいる垢離場だ。たまには無法な奴も来るよ」 「はい、然様《さよう》でござりますか、わかりました。それでは先生はこのまゝお引返しなさいますか」  暗い中で小吉はお糸の烈しい息遣いを、はっきり感じた。 「あゝ、帰るよ」  とそういって 「だが、どんな奴らか、面だけでも拝んで行くか」  ぶら/\とぼんやり灯のもれている方へ歩き出した。  お糸は思わずにこりとした。このお方はやっぱり、わざととぼけて、あたしをからかっていらっしゃるのだ、場所《ところ》の者の困っているのを見す見すほったらかして置く筈はない。おからかいを面白がっていらっしゃるのです、とんとまあお人が悪い——そう思うとお糸は何んとなく心うれしくそんな気持で黙ってうしろからついて行った。  露路の突当りが竪川で、右手で直ぐ隅田川《おゝかわ》へ入っている。真っ紅な紙を張った置行灯を舟首《みよし》へおいた猪牙《ちよき》が二はいつゞいて竪川をすべるように上って行く。空は曇って星もない。  垢離場端れのやっぱり矢場の一軒。酒や肴を運ばせて、もうべろ/\に酔った七人組が、怖がって真《ま》っ蒼《さお》に縮んでいる矢取女の首ねっこなどへからみついて、まだ飲んでいる。しかも、長脇差《ながどす》を行灯の手前へ突きさした古風な破落戸《ごろつき》風景である。  小吉は、表からちらりと見ると、口元がきっとした。 「長脇差が目に入らなかったら、勘弁してけえしてやったのだが——おい、お糸さん、みんなへそういって灯をつけさせよ。みんな無法に怖がるから、江戸へ戸惑って来た山賊見たような奴らに嘗《な》められるのだ」  小吉はお糸の返事もきかず、ずばっと、その矢場へ入って行った。酔ってはいたが流石《さすが》に七人が一斉に、眼玉を光らせて、こっちを見た。  小吉は黙っていた。向うの七人も黙っている。女達は、俄かに破落戸の首へ巻きつけた腕を押しほごして、小吉の方へ逃げて来た。 「おい、おのれは此処の用心棒か」  一人相撲取をみたようにでぶ/\に肥った奴が、脳天から噴出《ふきだ》すような甲高《かんだか》い声でわめいた。此奴、唯一人が縞の袷に紺の腹掛をして、肩から斜めにお守袋でも下げているか、細い鎖が動いた途端にきら/\ッとした。 「返答ぶてッ」  もう一人が口を鳶《とび》のように尖らせて叫んだ。こ奴が妙に痩せていて、片膝を立て、空《から》っ脛《すね》を行灯の前に見せている。その太股《ふともゝ》の上の辺に、南無阿弥陀仏と刺青《いれずみ》をしたのが、かすかに見える。  二人の対照が余り妙だから、小吉は思わず噴出した。 「こ、こ、この野郎、笑いやがったな」  そういうと青ッぶくれが、一番端っこにいる豆粒見たような小男へ顎をしゃくった。  こ奴、そこに突きさしてある抜身の長脇差をつかむと、いきなり真っ正面から小吉へ斬《き》りかゝったものである。 「ほう」  小吉は笑顔で、体をかわして、前倒《のめ》って行くうしろ襟を引っつかむと、肩車にかけて、そこの土間へ嫌やッという程|叩《たゝ》きつけた。子供が毬を投げたようなものだった。  対手はそれッきりもうびくとも動かない。残った六人がこれを見ると、蜂の巣をついたようになって、無茶苦茶に斬りつけて来る。右から来たかと思うと左から来る。小吉は始終笑って、その一人ずつから長脇差を奪い取っては、矢場の敷居内の土間へ、一本々々、垣根のように並べて突立てては次の奴からまた奪った。  いつの間にか、軒を並べたそちこちの家に灯がつく。みんな怖々顔を出しては、こっちの様子を見ている。  事|茲《ここ》に到っては、黙っていても七人は逃げて行くに定っているのだが、特に小吉をむか/\させる事が一つあった。青ッぶくれの奇妙に甲高《かんだか》い声が、いつぞや平清の招宴の時の大館三十郎にそっくりだし、肥り方が金子上次助にこれも似ている。小吉も詰らぬ事を詰らぬ時にちらっと思い出したものである。  その青ッぶくれを投げつけて、動けないのを、ずる/\引きずって、川っぷちへ行くと埃《ごみ》でも捨てるように、どーんと隅田川へ投り込んだものである。  引っ返したら、外のものはもう影も形もなかったが、南無阿弥陀仏の刺青をした奴だけが、まだまご/\していた。小吉は、今度はこ奴をつかんで、やっぱり川へ投り込んで、それっきり、もうお糸とも口を利かず、とっとと屋敷へ帰って終った。  夜が明けてすぐお糸が垢離場の顔役達と連立って来たが、用はねえ追い返せ、といって小吉は起きもしない。  お信へは床の中であらましを話して 「あ奴ら真逆死にはしねえだろう」  と笑った。  その日の夕刻に吉原の佐野槌のおかみさんがやって来て 「お糸のために飛んだ御迷惑をおかけしまして」  と、何にかお礼の品を差出したが 「お糸さんの為めではないよ。あんな奴らがちょい/\来ては垢離場のみんなが困るからやったのだ。おかみさんに礼を云われるのは筋が違うよ」  と、少し不機嫌でその品物を突返し 「だが垢離場には、矢取女などへ紐《ひも》みたようにくっついてふだんはむごく大口を叩いて喰っている若い奴らも大勢居るときいていたが、あゝいう時は唯の一人も面《つら》を見せず、とんとみんな悧巧だねえ。が、それもいゝ、この世の馬鹿はおれが一人で沢山だからね。しかし無駄飯で人間を飼って置く程垢離場も気楽ではない筈だ。今度は一つ、あすこに巣喰って女を絞っている|やくざ《ヽヽヽ》な奴を、おれが一人ずつ、川へ投り込んでやろうかねえ」  とまじめな顔でいった。   足懸《あしがか》り  佐野槌のおかみは、お糸にもそう申して参りましたが、もう、句駄《くだ》らない破落戸《ごろつき》のいざこざなどには先生はおかまい遊ばすな、お糸もやっぱり年が若いので、物の分別がつきませぬ故、あのような事を致しますと、ひどく恐縮した。 「いや、句駄らない事に腹を立て、句駄らない事に首を突込むがおれが病《やめ》えでね。面目ない」 「ほほゝゝ、さあ、如何なものでござりましょう。先生を堪《たま》らなく好きな皆々が、いつも先生をそんな処にばかり引きずり込んでいるのでは御座りますまいか」 「こ奴はとばッちりでみんなが災難だねえ」  おかみが出した品は断じて取らない。仕方なさそうに帰って行って終って、その日はもう何事もなかった。  次の日も無事。それでも小吉は 「あ奴ら死ななかったのだねえ」  とお信へ気兼ねしたように、そんな事をいった。  が、三日目の朝、まだ薄暗い中に、精一郎がたった一人で出しぬけにやって来た。座敷の障子を開け放して 「どうだ他行留の間におれが拵《こさ》えた庭だ。よくなったろう」 「はあ」 「ところでこんな早くから用は何んだ」 「叔父上、これはわたくし一人の考えでございますが、この辺で家督を麟太郎どのにお譲りなされ叔父上は御隠居をなされては如何でございましょうか」 「何に、おれに隠居——はっ/\/\、おい、精一郎、おれが大川へ投込んだ板橋辺の破落戸は死んだのかえ」 「え? それは存じません」  と精一郎は不審そうに深く眉を寄せて 「叔父上、実はまた甲州行の尻が出ました」 「はっ/\。あれかえ。あれが出たかえ。あれはおのしにも内密にしたが、やっぱり悪い事は出来ないものだな」 「は」 「出たとすれば、今度は他行留位では済むまい。一間住居か、支配預か、それとも切腹か」 「御支配頭は勝家御取潰しのお考えだと漏れ聞きました」 「えーっ?」  小吉はびっくりして、顔色が変った。暫く堅く口を結んで黙っている。 「死んだ義理の御祖母様《おばゞさま》によく云われた。小吉は勝の家を潰しに来た男だとな。真《ほん》の親から譲られた四十俵なら別に惜しいとも思わねえが、これを潰してはお信に済まないねえ。困ったわ」  流石に頭を抱えた。 「叔父上は、精一郎の申上げる事をおきゝ下さいますか」 「何んだえ」  と、もういつもの顔になっていた。  精一郎はじいっと小吉の両眼を見ている。 「叔父上、勝家四十俵は惜しくなくとも、御家のお取潰しは、麟太郎どのの、世に出る足懸りを失う事になります」 「うむ、うむ」  小吉は精一郎へ大きく頭を下げるようにうなずいた。 「どうしたらいゝ」 「御隠居なさる外に道はないと思います。父上は唯お一人で、お心に秘めて御奔走の様子ですが、わたくしは、如何に父上の力を以てしても不可と見ています。御支配頭から表立って御呼出しの御沙汰のある前に、先《せん》を切って隠居の願書を差出せば、自然、事は消滅致しましょうかと思いますが」  小吉は小さく唸って、うつ向いた。 「麟太郎どのもすでに十六歳。文武共に秀でています。叔父上、隠居をなさっても、後顧更らに憂いなしでは御座りませぬか」  そういう精一郎の顔から、小吉は眼を流して 「お信、すまねえねえ」  とお信の方へいった。 「え?」  お信は一寸小吉の真意がわからない。 「聞いての通りだ。おれは隠居をするよ」 「然様《さよう》でございますか。ほほゝゝ」 「おかしいかえ」 「いゝえ、おかしい事は御座りませぬ。あなたが、お気儘《きまま》をなさるには却ってお宜しい事と、わたくしは心うれしゅう御座ります」 「すまねえ」  と小吉は、頭を下げて、今度は精一郎へ 「おれは知っての通り文字が無い。一切頼むよ」  といった。精一郎はうなずいた。  その間にお信のお茶を精一郎は静かに喫した。 「おれも一服いたゞこうかねえ」 「はい」  お茶を喫し、茶碗《ちやわん》を両手の内へ抱えるようにして撫《な》で乍ら 「おれは本当は左衛門太郎|惟寅《これとら》だが、人もおのれも幼名の小吉ばかりで通って来た。はっ/\、隠居をすると、また名前が要るねえ。いゝ名前をつけなくてはなあ」 「そういう事は、わたくしの父上にお頼み申しましょう」 「岡野の隠居の江雪などは滅法しゃれているが、兄上は無粋だから妙な名前にする事だろうね。はっ/\/\」  精一郎が帰るのを、お信と二人で玄関へ送って、居間へ戻ると、小吉は畳へ手をついた。 「お前には、ほんにすまねえよ」  小吉は瞼がうるんだ。おれがところのお信は偉いなあ、沁々そう思ったからである。  お信はにこ/\しながら 「あなたも、わたくしも長生きを致しまして、麟太郎の立派になるのを見届けてから死にましょう」 「そうだとも、青雲を踏みはずしたあ奴が、また雲へ乗るを見て死にてえな。おれは脚気が病《やめ》えだから、ひょっとして見れなくてもお前だけはきっと長生きをしろよ」  お信は小さく笑いつゞけるだけであった。  三日ばかり何事もなかったが、四日目にやっぱり彦四郎からの呼出しの使者が来た。小吉はそんな事も大体は精一郎から知らせがあったので、ちゃんと行儀のいゝ恰好で出て行った。  彦四郎は思いもしなかった上機嫌で、ちゃんと膳部《ぜんぶ》を整えて待っていた。 「今度は上乗の出来だったな。ほんの一日違いで、勝家お取潰しか、軽く行ってお前は支配預になるところだった」 「そうですか」 「そうだとも——。出しぬけの隠居願で、御支配筆頭松平伊勢守様も御奉行三上筑前守様もあべこべに肝をぬかれ、麟太郎の家督も万々|恙無《つつがな》く行ったわ。恐ろしい一日違いであった」 「は」 「蔭の作者は誰だ。おれが当てる。精一郎であろう」 「はあ」 「あれは出来た。小吉——」  といって、急に 「隠居名はわしが考えた。夢酔《むすい》とせよ」 「え? む、む、むすい」 「夢に酔うと書く。どういう意味か、おのれでよく/\考えて見よ。人生、夢は多い、が、それに酔うてばかりいると、お前がような人間になる」 「は」 「これだ」  彦四郎は膝の横に置いてあった紙片を出して小吉へやった。小吉は、むずかしい字だなあと思った。  彦四郎は何にかしら、不思議にほっとしたような面持で、杯を手にしながら 「麟太郎は近来めき/\腕を上げ、もう、何処へ出しても立派な剣客で通ると精一郎がいう。わしは武芸の事はわからないが、これからが本当の鍛錬《たんれん》だな」 「はあ」 「精一郎がいっていた。道場にはもう敵手《あいて》はいない。あの精一郎の代稽古をしている本目縫之助という若いのが、辛うじて対手が出来る位だというな。この間は本目との稽古で木剣が二度も折れたという——」 「さようで御座いますか」  そこへ精一郎が御城から下って挨拶に来た。彦四郎はすぐ 「あの話はどんな塩梅《あんばい》だ」  と真剣にきいた。  精一郎はいつもと変らぬ顔つきで 「はあ」  といってから 「御頭《おかしら》石川伊予守様が御廊下で出合|頭《がしら》に、わたくしの肩を叩かれて、うまく行ったなと仰せられました」  と静かに答えた。 「お前は何んと御挨拶を申したか」 「はいと申しました」 「馬鹿奴、何故《なにゆえ》ひとえに御厚志によるところでございます、かたじけのう存じますと云わぬ」 「はあ」 「はあではない。厚志によっても依らなくても、そう云わなくてはいかんのが今の世の中だ、年若《としわか》とは云い乍ら自分の住んでいる世の中が、今どんなものになっているか、それが見極められんようでは、出世は出来んぞ」 「はあ」 「それに何んだ。お前は吉報を得ながら、嬉《うれ》しそうな顔もしない。悲しみは深く包んでも喜びはおのれも大きに喜ぶと共に、人にもそれを幾層倍にもして現し示すものだ。これが人に愛される処世第一歩だ」 「は。以後心得ます。御《お》徒歩《かち》頭篠山十兵衛様も、御下城の際ふとお目留められて、石川様御同然の事を仰せられました」 「それにも、はい、と申しただけか」 「はあ」  彦四郎は如何にも困った奴だというような嫌やあな顔をして 「以後はきっと心得なくていかんな」  小吉には二人の話の内容は大体わかったが、わざとそれにはふれなかった。  自分が隠居と定まれば、麟太郎はとにかく支配筋へ顔出しをして廻らなくてはならぬ。そんなこんなの多少の準備もあるから、それから間もなく辞して帰りかけた。  精一郎が送って来る。丁度彦四郎の居間から真っすぐに見通せる屋敷の中庭に新しい材木が沢山積んであった。 「亡き父上《へいぞう》はむごく普請好きであったしまた大工達を指図している時が、一番楽しそうでもあったが、兄上もだいぶその気配《けはい》がある。また普請をはじめるのか」  小吉は縁の廊下を歩きながら指さしていった。精一郎はくす/\笑って 「叔父上の座敷|牢《ろう》の普請にかゝっていたのです」 「ほう」 「小吉の事だから意地張って、隠居願などはしまい。そうすれば勝家お取潰し或は支配預の気配になる。その際は馳走に事寄せて御支配方を招き、すでに座敷牢は出来《しゆつたい》して居りますと、見せつけて取潰し御支配預お取止めの嘆願をするお考えだったようです」 「お前がお蔭で今度は万事うまく行ったね。兄上も何にかと的《あて》がはずれたろう。はっ/\/\は」  自分の屋敷へ帰って玄関でまだ履物もぬがぬ中に笑い乍らお信へいった。 「兄がところでは、もうおれが入る座敷牢の普請にかゝっていたよ。生涯に二度とあんなところへ入れられて堪《たま》るものかよ」 「さようで御座いましたか」 「隠居になって困る事はないが、唯閉口はともかく一度は頭を丸めなくてはならねえ事だねえ。おれが坊主になっては、とんと見っともねえからねえ。途々《みちみち》考げえて来たのだが、当分は頭一ぺえ疥癬《ひぜん》が出て剃刀《かみそり》を当てるもならねえからと、頭巾《ずきん》をかぶって放題に誤魔《ごま》くらかしてやるつもりだ」 「ほほゝゝ」 「そんな事位の尻はもう頼んでもみんなかまいやしねえだろう——はっはっ、そんな事はどうでもいゝが、お信、麟太郎がけえって来るだろうから、その支度をしておいてやらなくてはならねえ。御支配の麻布百姓町の松平伊勢守、船河原の戸塚備前守、表二番町の中山信濃守、二合半《こなから》坂の丹羽、加賀屋敷の久貝、山王三軒家の菅谷、二番町の長井、神田橋の後藤。それから組頭のところが五屋敷、世話役が廿八屋敷。はっ/\、これあ麟太郎も大変だわ」  お信はすぐにやって来てもいゝように、上下《かみしも》をはじめ肌着までの支度をして待っていたが、次の日も次の日も麟太郎は帰って来ない。  三日目は朝の中にさらっと雨が降った。 「おかしいな」 「どうしたので御座りましょう」  何度もそんな事をいったが、とう/\辛抱しきれなくなって、お昼頃に小吉は、精一郎のところへ行った。  東間陳助が、道場の内から、小吉の姿を見たらしく、飛んで出て来た。 「麟太郎はどうしているえ」 「毎日早朝から御小普支配方へ御|挨拶《あいさつ》に御廻りでございます。こちらの先生が御介添で」 「え? 精一郎が」 「はあ」 「うーむ」  と肝をぬかれた恰好で 「わかった。ところで右金吾はその後どうだ」 「だん/\元気になります。先生の仰せの通り、われ/\男ばかりでは手が届きませんので、小女を一人雇入れました」 「よし。おのし真逆、おれが甲州行の尻が出て隠居になったなどと、あ奴には知らせまいな」 「はあ」 「あ奴また気にやむ。間違ってもさとられるなよ」  小吉は屋敷へ帰って来た。大きな声で笑い乍ら 「おうい、お信、麟太郎はけえって来ねえよ」   青柿  事実はすっかり隠居をして、小吉は近頃は多く道具市で呑《の》ん気《き》な日を送っている。みんな本当に親切だし、先生々々と下へも置かないし、毎日いくらかの金にはなるし、暑い時は、世話焼さんの方へ行って昼寝をして日をすごしたりしている。  丁度その日はひどく暑く、雲の峰がぴか/\して目《ま》ぶしくて見上げる事も出来ない。時々遠雷が聞こえたりして、市ではみんな 「ざあーっと一雨ほしいな」  そんな事をいった。  夕方、往来中を市から持って来た渋|団扇《うちわ》で、ばた/\尻を叩き乍ら屋敷へ戻って来ると、お信が、御支配から来た隠居|聴許《ききとどけ》、家督は麟太郎の旨の奉書を、笑い乍ら渡した。 「今日は何日だえ」  小吉はそうききっぱなしで、お信が答える間もなく素っ裸になって、井戸端で、例のよくやる水をざあ/\かぶって、すぱっと拭《ぬぐ》って縁側へ上ると、大きな胡坐《あぐら》をかいて 「あゝ、いゝ気持だ」  といってから 「おう、何日だったっけ」 「はい。七月廿五日でござります」 「おれが隠居騒ぎは晩春で、奉書の出たは夏の終りかあ。ふっ/\、さて/\役人というものはいゝものだ、はっ/\、天保九年七月廿七日勝小吉隠居すか」  お信はにっこりしただけで、小吉の前へ莨盆《たばこぼん》を出してやった。隠居この方、小吉はよく莨を吸う。一服吸って、とん/\と吸殻を落して 「おれも今日から天下晴れて隠居だ。怖い者あねえよ。今夜は暫く無沙汰をしたから柳島の隠居がところへ行って来るよ。ああ、そう/\、右金吾は大層いゝとよ。今日は市の方へわざ/\東間が知らせに来ていったよ」 「それはおよろしい事で御座いますねえ」  小吉は、日の暮れ方に出ていった。  柳島梅屋敷の界隈《かいわい》はあっちにも、こっちにも蛍がふわり/\と飛んでいた。  一度あのまゝ駄目かと思った岡野の隠居もあれからまたすっかり持直して、清明の肩につかまって、片ちんばのような恰好でよち/\薄闇の中の畑道を歩いて、今、家へ帰ろうとしているのにひょっこり逢った。隠居は少し痩せたが、その代り左の目が、|こめかみ《ヽヽヽヽ》の方へぐんと曲って、左の半身はまるで利かなくなったようだ。 「勝さん、月代《さかやき》が延びたね。普通は隠居をすれば剃るが、おのし、延ばしたねえ」 「そういうあなたは剃りは剃ったが、坊さんになって清明を口説くんだといって剃りましたっけね。あれではやっぱり、わたしと同じに剃らねえ事だ」 「はっ/\。剃れというなら剃っても、髪の毛などというものは直ぐに延びる。この通りさ。やかましい事をいう奴があったらすっと剃るがいゝよ。何にも逆らう事はないよ」  と隠居は自分の顔を、小吉の方へ突出すような恰好をした。  あるじの殿村南平は、吉田町の夜鷹宿《よたかやど》から何にやらの加持を頼まれて、も少しさっき出て行ったばかりで留守だったが、座敷へ上ると、隠居は清明に帯をとかせて肥った裸で、縁の板へ枕をしてごろりと横になり、糊のばり/\ついたような洗い立ての白い単衣をその上からふわりと掛けさせて 「勝さん、御免よ、おのしも裸になったらどうか」 「隠居というは気まゝなものだから、そうさせて貰おうかねえ」  小吉も帯をといて、胡坐《あぐら》になった。清明が蚊遣《かや》りを焚《た》いて、その煙を団扇《うちわ》で隠居の方へゆっくりゆっくりと送ってやる。隠居は 「勝さん、ほら、あれを御覧な、あすこに三本ある柿の木へもう青い実がついている。いつの間にか日は経つが、人間というはなか/\こっちの思う通りに都合良くは死なぬものだねえ。この清明も、わたしが碌な手当も遣わさないに実によく尽して呉れる。こうしてみんなに迷惑をかけるのだから、早く死ぬ方がいゝんだがねえ」 「正にその通りだが、別に急ぐ事はない、あの青柿の熟したのを喰べてからゆっくり死んでもいゝでしょう」 「そうかねえ」 「しかし清明も心からあなたを思い、おやじの殿村も、あゝして加持|祈祷《きとう》で稼いでは、貢いでいる。隠居、あなたが手当をしているなどとは飛んだ間違いですよ。廿や卅の金はそういつ迄もあるものではない。医者にも謝さなくてはならねえし——世の中はむごく冷めてえものだというが、あなたは珍しい温いところに居れる何万人の中の一人という幸福な人なのだからまあゆっくりしなさい」  隠居はうなずいたが、そんなこんなの隙に小吉は隠居に内緒で、そっと少しばかりの金を清明へ渡した。清明は要らないというような素振をしたが、やがて小吉は帰るという。  隠居はびっくりして 「泊って行っては呉れぬのか。実はねえ、おのしに内密の相談がある」  そういって隠居は清明へ 「ちょっと座をはずして居れ」  といった。清明はちらりと小吉を見てから、団扇を持って、外へ出て行った。 「何んです」 「勝さん、実はね、わたしは自殺しようかと思っている」 「え? な、な、何にを馬鹿をおっしゃる」 「いや本気だ。わたしは屋敷をはなれ、こういうところへ来て、この老境に入ってはじめて少し悧巧になった。みんなの心配はわかりすぎる程ようくわかるようになったのだ。このからだでいつ迄生きて見たところで、何んの楽しみもないのだから、いっそ死ねば、みんながぱっと明るくなるのではないだろうか」 「御隠居! 人間はね、今もいった通り温い人情の中に生きているという事だけでも無上の楽しみだよ。あなたの生涯で今が一番幸福かも知れない。自殺などと滅法な事だ」  小吉はきびしい調子であった。  隠居は暫く黙っていた。そしてまたぼそりという。 「いやあ、わたしは自分の幸福《しあわせ》のために、みんなを不幸にして長生きを求める——それ程物のわからぬ老人ではなくなっているつもりだよ勝さん」 「物がわかるという事は、みんなの親しみを捨てて自殺するという事か」 「そう云われれば困るが——実は考えぬいた末の道がたゞ一つそこにある事を見つけたのさ」 「お屋敷の奥様《おまえさま》は何んとおっしゃった。生涯を我儘一ぱいで通して来られたお方だ。最後の場所も、お望みのまゝに我儘を通させてやって下さいましと、泣いておっしゃったではないか。あれはあなたを最上の幸福《しあわせ》にしてやって下さいという事だよ。天寿を完うせずにそんな死方をされては、奥様《おまえさま》に済まないとは思いやんせんか」  隠居はぽたりと涙をこぼした。小吉はじっとそれを見ていたが、やがて 「岡野の隠居江雪も、これ程物のわからぬ奴とは思わなかった。いゝとも」  と立ち上って 「おれが死ぬのではない、死ぬのはあなただ。自殺もいゝだろう」  そういうと、身仕度をしながら大声で 「清明、隠居は近々《ちかぢか》自殺をするそうだよ。おれあ、知らねえよ」  と叫んで、そのまゝ外へ出て行った。  そこに清明が立っていた。小吉は肩へ手をおいて早口に 「すまねえなあ。隠居が事はお前や殿村にだけ心配はさせねえ、おれも出来るだけの事はするから、呉々も気をつけてやってくれ。お前らに心配をかけたくねえと自殺などとぬかしているからね。間違っても刃物は側へ置いてはならねえよ」 「はい」 「おれも隠居をしたのだから、もう何にも怖いものはねえ、いざという時は何んでもいって来るがいゝよ」 「はい。有難う存じます」 「くれ/″\も目ははなすな」  小吉が帰って行って、隠居はすや/\とねむっているような恰好をしていたが、狸寝入《たぬきねいり》だと清明は思った。  小吉は気持が昏《くら》い。ひょっとしたら隠居はやるかも知れない。途中でふと足を停めて、何度も引返そうとしたが、また思いついて入江町へ帰って来た。  お信がお帰りなさいましといっても返事もせず、ごろりとねころんで如何にも不安そうな顔をしている。お信は永年《ながねん》連れ添っていて小吉のこんな顔をこれ迄余り見た事はなかった。 「何にがございましたか」 「何んでもねえ」  出しぬけに門の外で声がした。 「先生、先生」  三、四度それを繰返してから 「先生、東間です」 「馬鹿奴、それから先きに云え。胆を冷やしたわ」  小吉は裸のまゝで暗い玄関へ出ていた。 「何んだ」 「男谷先生からのお言葉でございます」 「門は戸締りがしてねえのだ、開けてへえれ」 「あゝ、そうでしたか」  東間陳助が玄関へ立った。 「男谷先生の仰せられるには、思い立つは吉日と申しますから、麟太郎どのは、本日から島田虎之助先生の道場へ、塾生としてお引移りになりましたとお伝え申せとの事で」 「何、島田? あれは江戸へ帰っていたのか」 「はあ、浅草新堀に道場を開かれました。塾生は今のところ麟太郎どのお一人、煮炊、洗濯、道場の掃除までお一人でおやりにならなくてはなりません。余りにもお痛わしいので、わたくしが、あちらへお供をするよう先生へ嘆願申して居ります」 「馬鹿奴、流石《さすが》あ精一郎だ。いゝところへやって呉れた。え、おう東間、お前らね、日頃余り麟太郎を甘やかしている。おれもいつぞや稽古を覗いて眼に余っているのだ。島田は田舎っぺえだから、力一ぺえやって呉れるだろう」 「はあ」 「あ奴は滅法強いし、大層|荒《あれ》えというから、結構な事だ。剣術はな、並な稽古をしていたのでは、うまくなって精々、お前位のものだ。お前らまだ一人前の剣術|遣《つけ》えではねえんだよ」 「はあ」 「用はそれだけか」 「そうです。では御免下さい」  東間は帰ろうとした。途端に小吉は 「おい、待て」  といって 「お前、おれがところの麟太郎に胴を払われぶっ倒れて気絶をしたというが、道場は芝居をするところじゃあねえぞ、馬鹿奴、お前がような奴と一緒では、麟太郎も碌な人間になれねえところであった」 「い、い、いや先生、それはお間違いです。何処にいゝ年をしてわざと道場の真ん中に気絶をする者がありますか。あの時は、本当にこたえました。未だに肋《あばら》の痛みが、時々出ます」 「嘘をつくな。今度はおれが本当に打込んで、未だ痛くねえ方の肋骨を折ってやる」 「ご、ご、御冗談でしょう」  東間は頭を抱えて帰って行った。  東間が帰ってから、小吉はお信へ向ってぶつ/\いう。 「聞いての通りだ。麟太郎は、まるで精一郎だの兄上に引っ浚《さら》われたようなもので、おのが子で、おのが自儘《じまま》にならねえ。自儘どころか、島田が塾へ引移るというに、おやじやお袋の顔を見にけえしてもよこさねえ。また麟太郎も麟太郎だ、おい、あ奴はとんだ情無しもんだよ」  お信はにこっとして 「然様《さよう》でござりましょうか」 「え? 然様でござりましょうかって、お前、然《そ》うは思わねえか」 「はい、麟太郎は麟太郎で、あれでいゝのだと存じます」 「ふーむ」  小吉は黙って終った。暫く経ってからまた 「亀沢町だとすぐそこだから逢わずとも気にもならねえが、浅草と云やあ、妙にこう遠いところへ行っちまったような気がするじゃあねえか」  といったが、お信はやっぱり笑っただけで何んにも云わなかった。  次の朝、夜が明けたか明けないに、若党一人と家来に上黒銀たゝきの槍を持たせ上下《かみしも》姿で馬へのった精一郎がやって来た。これから登城する途中寄ったという。 「大層立派じゃあねえか」 「は。お蔭様で此度御書院|番方《ばんかた》より御《お》徒歩《かち》頭に昇進いたしました」 「えーッ? それじゃあ千石じゃあねえか」 「は。これを叔父上にお喜びいたゞきたい気持と共に、昨夜東間氏を以て申上げました通り麟太郎どのを島田虎之助の道場へ遣わしましたので、この事を申上げに早朝ながらお邪魔仕りました」 「ふーむ、お前、もう千石かねえ」  小吉は少しおどろいて、麟太郎の事を云い忘れていた。  精一郎は 「島田虎之助の剣は古今のものだと信じます。それに中々よく新しい時代を見て居りますので、ゆうべも、剣と共にこれからは大いに阿蘭陀をやらせますと云っていました。麟太郎どのにとってはわたくしなどに数倍もまさる良き師と思います」  といった。小吉はやっと少し落着いた。からだ中が、ぼうーっと熱くなっている。心の中で——何んでえ、千石に胆《きも》を潰《つぶ》すなんぞはおれも詰まらねえ男だ——そう思い乍ら 「滅法強いというから、おれも近々に遣《つか》って見る。どんな奴か、その時にわかる」 「別にお遣いなさらなくとも一見しただけで、叔父上には島田虎之助と申すものが確《しか》と御納得が参りましょう」   新堀端  日中は然程《さほど》でもないが、朝晩は涼しいと云うよりも寒い日がある。ゆうべはいゝ月で、小吉が小便に行って窓から庭を見たら、もう芝草にきら/\露が光っていた。霜を結ぶ夜の来るのも遠くはないだろう。  昼下りの刻限であった。小吉はたった一人で、ふところ手で雪駄履きでぶらり/\と浅草の新堀に沿って歩いていた。その影が狭い堀に長く映っている。片側にずらりと寺々の門や塀が並んで、此辺へ来ると何処からともなくぷーんと抹香の匂いがする。抹香橋《まつこうばし》と名のついた橋がある位である。堀を西側へ渡ると少し永雨だと、まるで沼のような湿っけ地で、あっちこっち歩み板を渡さなくては歩けないところだ。が、この日はお天気であった。しかし妙にこう静かである。  小吉はにや/\しながら門前町の厳念寺前からその抹香橋を渡って阿部川町へ行った。その曲り角から少し入ったところに小さな長屋を三軒打抜いて、継ぎはぎ見たいな造作をした島田虎之助の道場がある。  小吉は今日は不思議な風態をしている。小紋の短か羽織にしゃれた着物の着流し、しかも下は緋縮緬の長襦袢で素足である。  その上、刀はなくひょうし木を削ったおもちゃのような木刀を一本さしたきりである。門の外へ立って、足を停めて、暫く四辺を眺め廻して、ぷうーっと深い息をした。 「強い強いというだけで、どれ程の男か、大切な伜を預けてあるんだ。試して見なくちゃあねえ。むごく癇癪持でみんな叩き伏せられたというから、相応に荒えだろう」  そんな事を考えて門を入るとすぐ玄関で 「おい、虎さんいるかえ」  とのっけから人を嘗めた調子で声をかけた。若い侍が一人出て来て、ぴたっと坐ると丁寧に手をついて、じっと小吉の顔を見た。小吉はほっとした。妙に麟太郎が出て来なくてよかったような気がしたからである。 「静かだね。今日は稽古は休みかえ」 「はい」  若い侍は眼をぱち/\して、ぐっと唾をのんだ。 「誰方《どなた》様でござりましょう」 「おう、うっかりしたわ。おれは勝の隠居だよ、夢酔だよ」 「は?」 「ここに勝麟太郎という塾生がいるだろう、あ奴のおやじの隠居だよ。お前もやっぱり塾生かえ」 「は」 「伜がいろ/\世話になるねえ。頼むよ——が、とにかく虎さんに取次いでおくれな」  剣術をやる以上勝小吉の名前位は知っている。若い侍は少しあわてたように、奥へ入って行くと、それと一緒に虎之助が出て来た。木綿ずくめで、肩は少し上り、大きな眼のぴか/\する頬骨の高い如何にも一徹らしい顔つきであった。  虎之助はこの時二十四歳である。  両手をついた。腕は棒のように太く逞しかった。 「島田虎之助で御座います。御光来忝う存じます」  が虎之助も心の内では小吉の異様な風態に先ずびっくりした。 「飛んだ事だ」  と小吉はにこ/\顔だが、眼光は鋭くじっと虎之助に焼きついて瞬きもしない。 「伜が偉く世話になるを、男谷からも東間陳助からもよく/\聞かされてね、一度、おのしに親しく逢ってお礼を申したいとは思いつゝも、かねて聞いたことでもあろうが、あたしは身状が悪いものだから他行留やら何にやかや、行きたいところへも行けない始末でね。顔を出すも遂い遅れたよ。今日は日和もいゝ事だから、蟹が穴からはい出すように入江町からやって来たわ」 「はあ、ともかくどうぞまあお通り下さいまし」 「そうかえ」  小吉は虎之助について奥の座敷へ通った。座蒲団を上座に敷いて、虎之助は下座《しもざ》に坐り 「どうぞ」  とそっちへ手を差しのべた。その間にも、小吉が歩く度にちら/\する緋縮緬をひどく気にして、不愉快そうな目つきを、小吉はもうちゃんと見ている。虎之助は武士が絹の羽織を着たり、派手な恰好をしたり、刀の鞘の色から印籠の事まで、ふだんやかましく論じ立てる。男谷の道場でも、若い者が、間違ってでも華美な服装などをして来ようものなら、稽古で今にも息が絶えるようなひどい目を見せるばかりでなく、多勢の前で怒鳴り立て、中には道場の外へつまみ出された者もあるという。小吉はこれを知っている。 「おのしら、田舎から出て来た者は近頃の江戸の侍は遊惰《ゆうだ》でいけないと思うだろうね」 「そう思います」 「人間一人々々がみんな世の中の姿だよ。世の中が遊惰になれば、人の姿も遊惰になる。仕方がないね」  小吉がそう云った時、虎之助は苦虫を咬みつぶしたような顔つきで、今にも、何にか云おうとしたらしかった。  瞬間小吉は、がらっと調子をかえて 「あたしはね」  といって、にっこり笑った。 「今日ははじめて参るから、何にか心ばかりの土産を持ってと思ったが、おのしは何にが好きやらわからないので手ぶらで来たわ。おのし、酒はどうだ」 「飲みませぬ」 「じゃあ甘い物はどうだ」  虎之助の額に、じり/\と脂汗のようなものがにじみ出して来ている。  小吉は 「藻掻《もげ》えているな」  そう思った。島田もおれと逢ったら一度遣って見てえと思っていたのだ。ふっ/\、敗けたと思っていやがる。何にが敗けるものか、島田はおれより余っ程強いよ。が、この男は正直だ。麟太郎にはいゝ師匠のようだねえ——そんな気持が湧いて、胸の中が妙にこう温くなって来る。 「甘い物は大好物です」  虎之助は、はじめて心がそこへ戻って来た顔つきで指を揃えて額の汗を拭って微かに苦笑した。 「然様ならば、誠に御苦労だが浅草辺まで付合ってお呉れな」 「は、御折角ではございますがどうも」 「はっ/\、江戸一の強気者が、このあたしの風態は困るかえ」  虎之助は黙っていた。 「往来であたしが姿を見て、一人でも笑った奴があったら、謝るよ。今の江戸はこんな姿を笑わねえ江戸だよ。おのしも、剣術ばかりでなく、世の中の姿も、とくと見る事だね」 「は」 「とにかく一緒に来て呉れ」  虎之助は、何んという事なしに自分の云いたい事も、やりたい事も、一々この人に先んじられて終っている。内心はとてもこの人と一緒に町を歩く気にはなれなかったが、それでも断る事は出来なかった。  二人で出た。玄関で小吉が 「麟太郎奴はいないね」  といった。 「は。今日は向島牛の御前の弘福寺へ参禅《さんぜん》して居ります」 「参禅? あれは禅もやっていやんすのか」 「はあ、わたくしの考えで致させて居ります」 「おのしが弟子だ、勝手だよ。今にこンおやじが定めしいろ/\と遣込められる事だろうね。はっはっ/\は」  小吉は大声を上げて笑った。その大笑が、虎之助をさっと苦しい夢から救い出したような感じを与えた。この時に、虎之助は、はじめて腹の底から落着いた。勝負を終って笑いながら、互に汗を拭っている——丁度そんな気持だ。  浅草の奥山へ来ると、その辺の矢場は元より、往来で商いをしている香具師《やし》などがみんなお辞儀をする。小吉はその一人々々へ、野放図もない冗談を飛ばして歩いた。  若いいゝ女が来た。 「あら先生」 「ちょっと見ねえ間に烈しく使うと見えて大層尻が大きくなったじゃねえか」 「まあ」  女も手をふって打つような真似をしたが、これには虎之助も、思わず、そっぽを向いた。如何にも閉口した顔つきである。  小吉は女よりも、虎之助の弱っているのを面白がって 「これはな、島田虎之助とおっしゃる日本一の剣術遣いだ。どうだ可愛がって貰いたくはねえか」 「御冗談ばっかり」  女は駈出した。小吉は高笑いをして 「虎さん、あれはおれが能勢の妙見の世話をやいていた時に、よく酒屋をやってるおやじにつれられて来た子供だが、いつの間にかいゝ新造《しんぞ》になりやがったよ。堅気だがこの辺に居れば大勢そんな女がいるから色気が先きに立ってねえ」  という。虎之助は 「はあ」といってから、今日は道場にいろ/\用事がありますから、この辺で帰していたゞきたいといったが、 「まあいゝではないか。どうだ、おのし鮨飯《すしめし》を喰うか」 「それは大好物ですが、もう沢山です」 「ま、待て。世に島田虎之助とも云われる剣術遣いが、そうびく/\していては駄目だ。いゝからお出でな。面白いところで上等の鮨を上げるから」 「またにして頂きましょう」 「いゝからお出で」  虎之助は、とう/\吉原へ連れ込まれて終った。大門を入りかけると 「御免いたゞきます。こんなところは真っ平です」  虎之助は逃げかけた。小吉は、虎之助の右腕をぐいと鷲づかみにして嫌やがるのを面白がってぐん/\歩いた。 「田舎者はね、吉原と言えば女郎を買うところだとばかり思込んでいる。そんな事ではとんと世の中が暗いというものだ。伜がおのしに仕込まれる代りに、あたしがおのしに江戸を仕込んで差上げる。何にも修行だ。あたしに任せることよ」  小吉はとう/\仲の町のお亀鮨の二階へ虎之助を引上げて終った。  亭主が出て来て平蜘蛛のように小吉へ挨拶をした。 「虎さん、おのし、莨はのむか」 「は、のみますが、修行中故やめています」 「馬鹿な事だ。そんな肝っ玉の小さな事で、修行の出来る筈はない。世間ではおのしが事を豪傑だというがそんなちっちゃな事で、江戸の修行は出来ないよ」 「はあ」  虎之助は、さっき道場ではじめて、ちらっと見合った時のあの瞬間の戦慄するような勝小吉という人をふとまた思って、ぞっとした。対手は白っ呆けてはいるが、それだけに自分は背筋に汗が流れて来る。 「然様なら、今日は吸いましょう」  と少し低い声でいった。 「そうかい」  小吉はにこっとして 「おい亭主、上等の莨と莨入と煙管を買わせてくれ」  といった。亭主は心得て階下へ降りて行く。やがてやっぱり亭主が自分で鮨を運んで来る。虎之助は余程好きだと見えてこれは遠慮なくよく喰った。  此度は小吉が酒を飲めという。虎之助は少々位は飲めますがやっぱり修行中ですからと——ほんの正直だからまた下手な事をいう。これも遂々飲まされた。  中途で虎之助が、失礼ながらといって盃を小吉へさしたら、小吉は 「あたしは酒に当たる病《やめ》えで医者の篠田玄斎という奴に堅くとめられているので飲めない。修行中故飲まないというんではねえよ」  と受けようともしなかった。  日が暮れて来た。  それからそれと行灯へ美しく灯が入って、吉原は絵のようになる。 「この吉原をどう思うえ」  と出しぬけに小吉が訊いた。 「誠に別世界の感がします」  虎之助は少し酔って頬の辺りが紅くなっている。日焼けのした真っ黒い顔が妙に見える。 「別世界の隅々を、これからあたしが案内をして上げる。さ、出よう」  お亀鮨を出ると、小吉は尻を端折った。真っ紅な縮緬の襦袢の裾が膝の辺りまで出ているが、さっき小吉のいった通り、行逢うもの誰一人笑わない。  虎之助は、小首をふった。 「江戸というのはこういうところか」  自分の故郷の中津などで、こんな風態をしてものの小半刻も歩いたら、翌日から人付合《ひとづきあい》が出来なくなる。さて/\世の中は広い。本当に勝先生のいう通り、われらの修行もこれと同じだ——沁々そう思って小吉のうしろに黙って付いて歩いた。  土地《ところ》の火事で一と頃山之宿の仮宅で生業《しようばい》をやっていた佐野槌が、立派に仲之町に建って、万事に凝って一際目立っている。  仰げば水色の紙へ薄く描いたような秋の月が出ている。 「虎さん、お出で」  小吉は佐野槌へ入って行った。男衆がちらっと見たが、小吉の風態が風態である。 「まことに相済みませんでございます。相憎とお座敷が一ぱいでございまして」 「ほう、そうか」  といってから小吉は 「お前、新米だな。おれが面《つら》を知らねえね」 「へ、へえ、へえ」 「おかみさんにそう云うのだ。勝の隠居が来たが断ったと」 「へ」 「虎さん、外へ行こう」   仲之町  江戸町一丁目から西河岸へ曲ろうとした時に、ばた/\とあわたゞしい女の足音が追って来る。振向くと佐野槌のおかみだ。 「ま、まってお呉んなさいよ先生」 「お前がところで断られたのだ」 「新米なんですから先生を知らないんですよ。さ、とにかく引返して下さいましよ」 「だってお客が一ぺえだといったよ」 「まあ何んでもよござんすからさあ」  ものの一間も駈けた事のないおかみは、はあ/\今にも倒れそうな苦しい息づかいで、顔も蒼くなっている。 「おれはお客を案内しているんだ。無駄に行ったり来たりはしていられねえよ」 「何にもかも御承知に——。ほんに意地悪でございますねえ——ね、それから先生、垢離場のお糸とほらいつぞや市ヶ谷の逢坂下のお濠ッ端でお目にかゝった神明のおときが、もう間もなく家へ参る筈でございます。何んという仕合者でござんしょう。どうぞお顔を見せてやって下さいましよ」 「面倒な事だ。他《ほか》の家へ行くよ」 「まあ」  とおかみは、きつい目つきで 「本気でそのような事をおっしゃいますか先生。先生が他の家へお出でなされたら、佐野槌の看板はどうなります。顔の丸潰れはまだしも、明日から廓内で家の亭主野郎が口も利けなくなります」 「そんなわからぬ話があるか」 「よござんす、先生が飽く迄呆けていらっしゃるなら、佐野槌は今日限りで家を閉めますでございます」 「脅かすね。隠居はしても勝夢酔は侍だ、侍を脅かすは、お前さん、怖い女《ひと》だねえ」  そうこうしている中に女が三人、さっきの若い衆もやって来て、|ぺこ《ヽヽ》/\お辞儀をして、小吉を引っ担いででも行きそうにする。  小吉は仕方なく佐野槌へ引返したが若い衆のいった通り佐野槌はお客で一ぱいで、座敷が一つも空いてはいなかった。が、うまい事をいって、立派な座敷を三つもあけて、撰りぬきの女がずらりと並んだ。  流石の虎之助も胆《きも》をぬかれて、ぼんやりと見ているだけである。 「どうだ虎さん、吉原というは斯ういうところだ。いゝ修行場だと思うがどうだ」 「はあ」 「剣術遣いがねえ、修行中だから莨は吸わない、酒は飲まない、女なんぞは側へも寄せない。そんな事ではいけないよ。話にならねえよ」  しかし虎之助は、嫌やな顔で、返事もしなかった。  女達は馴れている。頻りに虎之助に酌をしている隙に、おかみは、眼に物を云わせて、小吉を廊下へ連れ出した。  おかみは低い声で 「ちょいと内所《ないしよ》へお顔をお見せ下さいましよ」 「面倒くせえよ」 「女達のくだらぬ話をおききなさるも御修行のお一つでござりましょう。たった今、あのお方にお云いなさったのを確と承わりましたよ」 「こ奴あ、取られたわ——おれは先きにけえるが、あの男は飛んだ木偶《でく》だから、女でもくっつけなくては血の通った本当の人間にはなれねえ、吉原中で一番綺麗な女をつれて来て、あ奴と一緒に寝せてくれ。ふったりしちゃあ大変だぞ、鬼がように強え奴だ。ましておれが面《つら》もつぶれるから、お前が腕を振うことだ」 「はい。でもねえ先生、先生がおかえりなさるは如何でしょう。内所は案外静かですから、女どもをお対手に浮世のはなしでも、聞いてやって下さいましよ」 「馬鹿を云え、浮世の事なら、おれが方で話してやるわ」 「あの女達が是非、先生にきいていたゞきたいと手を合せて頼むものでございますから」 「厄介だが、仕方がねえ、ところでとんと腹が減った、さっきお亀鮨へ上ったが、虎がおれの分まで忽ち平らげて終いやがった」 「はい/\」  おかみさんは階下へ降りて行く。小吉はまた座敷へ戻って 「虎さん、さ、酒を飲んだらどうだ。ここへ来たらみんな馬鹿か阿呆になる。それに成り切れる迄が修行なのよ。お負けに厳しい掟は、一旦、どの家にでも上った者は、夜の明ける迄はけえれないからまずそれ迄はゆっくり出鱈《でたら》放題をするがいゝよ」  虎之助は急にむきになって 「いや、それは困ります。わたしは早朝から稽古があります」  小吉は笑った。 「え、虎さん、おのしにこんな事をいうは、まことに釈迦に説法だが、剣術は人間だよ、生きているんだよ。人間が人間らしい生き方もしなかったらどうなるえ。剣術だけ、奥を極めるというは、面倒ではねえだろうかねえ」 「し、し、しかし」 「それあおのしは奥に達している。が、それが本当の奥かどうか。そこにまだ考げえなくてはならねえ事があるだろう」  虎之助は、また額に脂汗をかいた。そして、むっとした顔つきで、うつ向いた。 「この頃、あたしは東両国《ひがしりようごく》——俗に垢離場というあすこだ。矢場だの、女のいる美しい並び茶屋だの、床《とこ》見世だの因果物の小屋だの、あんな奴らに顔が売れていろんな尻を持って来やがる。それというのもこの佐野槌のおかみの縁のお糸という女からでね。そ奴が、今夜来ているというから、少々相談があるという訳だ。夜の明ける迄おのしも、先ず、諦めて女共を対手にしてお出でよ」  虎之助が 「か、か、勝さん」  といった時は、小吉はもう聞こえぬふりをしてさっさと出て行って終った。  佐野槌の内所はよく出来ている。四辺の騒がしさなどは、何処か遠いところのようにより聞こえない。  お糸が一人待っていた。僅かの間に、ずいぶん粋きになった。 「先生が、今夜ここにお出でなさるなんて、まあ何んといううれしい事で御座りましょう」 「そうかねえ、おれは別にうれしくはねえが、あれからあの破落戸共はやって来ねえか」 「たった一人参りました」 「何んだといって来たのだ」 「堅気になりたいから助けてくれというので御座います」 「それで」 「あの時とはまるで別の人のようにおとなしく勝先生のお噂をうかゞいました。みんな殺されても仕方のない事でしたといって詫びました」 「銭でもやったのか」 「ほほゝゝ。先生はそんな甘手の強請《ゆすり》に引っかかる奴があるかと思召しで御座いましょう。でもお叱りなさらないで下さいまし。お糸もさんざ浮世の苦労をしている中に、対手が嘘をついているのか、本当の事を申しているのか、わかるようになりました」 「大層偉くなったね」 「ところが」  とお糸がにこっと笑った。  今迄気がつかなかったが、お糸はいゝ鼻の形をしていて、ぱっちりとした眼が星のように涼しい女だった。 「たった三百文の無心なのでございます」 「強請は銭の高じゃあない、一文|強請《ゆす》っても強請は強請だ」 「それはそうでございます。その三百文を仲間へ渡し、一応手は切るがなか/\承知をせずに、後々までからみつくだろう、それについてお願いは、あなたの口添で、どうにか勝先生のお身内にしていたゞきたい、そうすればあ奴らももう手は出まいと——」 「馬鹿奴」  小吉は怒鳴りつけた。 「おれあ、ばくち打ち無頼者《やくざもん》の兄イ分じゃあないよ。そんな奴らにうよ/\寄りたかられて堪るか」 「断りました」 「当たり前だ」 「でも、どうしてもお身内になって足を洗うのだと申して帰りました。正直もののようでございます」 「知るもんか」 「仲間《なかま》はみんな上州のものばかりですが、あの男だけは信州高井郡中野村だとお序に申上げてくれと申しました」 「何、中野村?」 「はい」 「どんな男だったえ」 「小作りな割にいゝ顔をしてました」 「中野村はおれが兄の代官をしたところだ。おれも行った事がある、妙な縁の奴が出て来たものだ」 「さようで御座りますか」  行灯が瞬く。小吉は腕組みをしてそれから黙っている。お糸も黙っているがふと何にかのはずみに上目遣いに小吉を見る。こういう表情はどんな女でも然様《そう》なのだろう、不思議な位に色っぽかった。 「おかみや何にかみんなどうしたのだ」 「もうすぐ参りますで御座りましょう」  それっきりでまた二人が黙って終う。小吉は少し退屈そうな顔をして、例によってごろりと横になったが、じいーっと下からお糸を見上げて不意に 「お前に相談があるがねえ。きいて呉れるかえ」 「相談? ほほゝゝ、先生には似つかぬお言葉でござりますわねえ。どうぞ何んなりと、仰せつけ下さいまし」 「外の事でもないのだが——実は、あの村田の長吉の事だがねえ。あれあ可哀そうな男だ」  と云って、小吉は肱に力を入れて起き直った。  お糸も笑顔を引きしめてじっと小吉を見た。 「どうだろう、お前、長吉が女房になってやる気はないか」 「ほほゝゝ、先生、お糸はもう一生ひとり身で気儘に過す決心を致して居ります」 「あ奴は、口先ではお前の事などは、とっくに忘れたといっているが、どうして/\まだ/\深い未練がある。それを紛らそうと、漆喰絵の修行に打込んでいるが、一度思いをかけて許嫁になった程のお前が事だ。そんな事で忘られるもんではない。おれは長吉の顔を見るといつも胸が塞がる。どうだ、おれが頼む、どうぞ綟《より》をもどして呉れねえか」 「折角ながら嫌やで御座ります。第一、未だにわたくしの事を忘れずにいると申すが本当なれば、男らしくもない飛んだ未練な方でございます。いっそうに嫌やで御座います」 「そうか。それ程嫌やなら仕方はないが、な、お糸、女はいつ迄も若くはないのだ、花には盛りがある。お前、女たゞ一人の老後がどんなに淋しいものか、考えて見た事があるか」 「ござりませぬ。が、唯一人老いさらばえても、別にそれが淋しい事とは思いませぬ」 「そうか。それじゃあ仕方がねえなあ」  小吉はまた寝ころんだ。 「鮨も来ず、おかみも来ねえが、よんで来てくれ」 「はい。神明のおときさんと、何にか相談事がある、すぐ行くからお前、先生のお取持を申上げていてくれと、さっき申して居りました。追っつけ参りましょう」  それから少ししてお亀鮨が来た。こゝの鮨は握った玉子が黄金のように光っているとよくいうが、本当にうまい。 「お前も喰べねえか」 「はい」  とお糸はいかにもうれしそうな顔をして 「こうして居りますと、先生、何んだか、わたくしはいつも先生のお側に居る女子《おなご》のようでござりますねえ」 「そうかねえ」  鮨を喰べ終っても、まだ誰も来ない。 「おかみを呼んで来てくれ、二階の客の様子をききてえから」 「はい」  お糸が出て行ってすぐにおかみがやって来た。 「おい、一体どうなったのだ」 「ほほゝゝ。その一件で先生のおところへも参られませんでございました。たった今迄大荒れでございましてねえ。お帰りなさるとおっしゃって——階段を何度もお降りなさろうとなさる。お力は強し、お睨みなさるお顔は怖し、おとめ申す者達が、みんな引きずられて、ころ/\廊下を逼い廻り、次第によってはひょっとして殺されるのではないかと思いましたよ」   味噌汁  小吉は頭を叩いた。 「はっ/\、中津の田舎から出て来て、粋も洒落《しやれ》も解《わか》らねえ男を吉原は女を買うばかりのところじゃあないと、おれがだまして連れて来たのだから、そ奴あ面白かったろう」 「面白いどころでは御座いませんよ」  とおかみは大仰に顔をしかめて、 「でもやっとお鎮まりなされました」 「とう/\女と寝たかえ」 「はい」 「はっ/\/\/\。面白いねえ」 「でも、まだわかりませぬ。そっと廻《まわ》り女に覗かせましたら、折角あたしが無理を利かせて撰りに撰った華魁と背中合せでねていらっしゃるそうで御座います」 「いよ/\面白いねえ」 「先生は気軽ろく笑っていらっしゃいますけれど、あれでは華魁へこちらの顔が立たず、取持の者達は、もう命懸けでございます」 「いつもかけるは迷惑ばかり。おかみさんには申訳ねえ」  小吉はそれから一人で寝たが、夜中に、お糸が三度もその座敷へ忍び足で覗きに来た事はちゃんと知っている。  三度目は、襖の外で明神のおときが頻りに押込もうとしたのもちゃんと知っている。が結局は誰も入っては来なかった。 「馬鹿奴ら」  舌打をした。  夜が明けてすぐ虎之助が帰るといって仕度をしているとの知らせで小吉も仕度をして、そこへ来たおかみへ 「おい、佐野槌は化物が出るよ」  と笑った。 「え?」  顔をしかめるのへ耳打をした。 「お糸によく似ていたよ」  小吉と虎之助はやがて肩を並べて大門を出て来た。虎之助は相変らず肩肱を張っているが少してれ臭そうである。互に一と言も口を利かず、山谷堀から舟を出させて明けたばかりの隅田川を下って来た。  出しぬけに 「別世界だろう」  と小吉がいった。虎之助ははじめてにやっとして 「はあ」  といって、昨夜小吉から貰った莨入を出して、舟にある莨盆の埋め火の頭をつゝくようにして莨をつけて吸った。 「別世界さ」 「はあ」  新堀に近い御廐河岸の渡し場で 「では、またお目にかゝります」  そういって虎之助は舟から上った。  小吉は長々と肱枕で横になった。空は銀をいぶしたような色で晴れてはいたが川風は肌へしみるように冷めたかった。 「舟頭、竪川へ入れて三つ目までやってくれ」  そういって、さしていた拍子木の木刀をぬくと、埃《ごみ》でも捨てるように、ひょいと川の中へ投り込んだ。木刀は一度沈んだが、また浮んでこっくりをするような恰好で流れて行く。  道具市の世話焼さんの住居は、もう、ちゃあんと掃除が出来ていて表の往来へ、あっさりと水を打ってあった。  ぶらりと入って来た小吉を見るとすぐ 「如何でした」  といった。 「正直ないゝ男だったよ」 「そうですか」 「それはいゝがこの風態には、われから仕組んだ芝居だが、いやもう極まりが悪くて、おれは冷汗のかき通しよ。この緋縮緬が、足元にちら/\するはほんに弱った。がいゝ塩梅に、麟太郎には見つからなかった」 「さよで御座いますか」 「おい、世話焼さん、麟太郎はね、この節は禅の学問もしているとよ」 「へ?」 「向島の弘福寺。知っているだろう、おれが将軍家《だんな》が御鷹狩のお休息所《やすみどころ》。勿体なくも麟太郎奴、こゝで参禅をしてるとて道場には居なかったわ」 「それは良かった」 「はっ/\。本当だ。塾生はあ奴一人かと思ったら、外にも二人いたよ」 「さよで御座いますか。それでは麟太郎様の御苦労もいくらか軽い」 「おい、世話焼さん、お前さん、馬鹿だねえ。麟太郎は、みっちりと骨身にこたえる苦労をしなくてはいけないんだよ」 「と、と申しましてもねえ、まだお年若ですから——」 「おれがところのお信をはじめ、精一郎でも東間でも、お前でも、みんな甘やかすから生意気になる」  口先でそんな事はいってはいるが、にこ/\笑って 「早く、おれが着物とっけえなくては見っともない」 「はい、はい——おいう、婆さんや、早く先生のお召物《めしもの》をお出し」  世話焼さんは、台所で頻りに何にかこと/\やっていたおかみさんに声をかけて、間もなく、いつもの小吉の姿になる。  飯を炊《た》いて、熱い味噌汁でお膳が出た。 「すまないね」 「何にをおっしゃいます。お味噌汁は、家の婆さんの自慢でございます。先生、すみません、まずくてもどうぞ、お代りをしてやって下さいましよ。お味噌汁だけは誰方《どなた》にもほめられる、年をとってもう先きも余り長くはなし、これだけが楽しみで生きているような婆さんですから」  小吉は一口吸って 「いや、これあうめえ」  といった。 「有難うございます」  世話焼さんは頭を下げて 「余るお金があるというではなし、贅沢をしてうまい物を喰べるというではなし、物見遊山に参るではなし、年がら年中、わたしにがみ/\云われて次第に年をとって行く婆さんの自慢、褒めていたゞいてほんとにうれしい」  そういってから 「婆さんや、先生が、うめえと褒めて下さったよ」  と台所へ叫んだ。 「おや、まあ」  おかみさんの喜ぶ声がきこえて、小吉はまた 「本当にうめえ。その辺の料理茶屋へ行ったって、こんな汁で飯を出してはくれないよ」  といって、持ったお椀を静かに、額のところまで捧げた。  それから三日目の夕刻に小吉はやっぱり道具市からの戻り道で、ぱったり下谷車坂の井上伝兵衛に出逢った。 「ほう、先生、これは意外」  と小吉は立停って鄭重に礼をした。  伝兵衛はその頃、公儀|御《お》徒歩《かち》のお役を養子誠太郎に譲って隠居し、玄斎と号して、剣術の門人達も余り取立てず、もっぱら茶会などを催して風流に静かなその日をすごしていた。元々温厚な人で、今年は五十三である。痩せて小柄であった。 「茅屋へもお立寄り御茶一服召上って行って下さい」 「忝けないが、わたしは男谷先生のところへ参るお約束の刻限になっている。横堀の大島雲四郎殿のお茶会が思ったより長くなりましてな。時刻が手詰って終った」 「そうですか、精一郎がところへお越しですか」 「如何です。あなたもお見えになりませぬか」 「はあ、実は要用もあり、お差支なくばお供を致しましょう」 「あなたが御一緒は却って有難い。おはなしに花も咲きましょう」  精一郎は、道場の奥の座敷で、伝兵衛を待ち受けていた。伝兵衛は頻りに四辺を見渡して 「こゝへ来ると故真帆斎先生を思い出しますなあ。あの方は本当に古今の名人でしたな」  といった。  伝兵衛がこの日に横堀へ来るという事をきいて、それならばという精一郎の招きだから、極立った用事はない。精一郎は、大酒ではないが、何によりもお酒がお好きな伝兵衛のために、蔵元からのいゝお酒を用意してあったので、頻りに盃をすゝめた。  伝兵衛は酔って来る。 「どうも近頃の世の中は面白くないですな。公儀当路の諸役は、上は上、下は下なりに、唯々権謀術策に明けくれし、賄賂横領飽く事無く、真に国を憂え、庶民を案じ、御奉公の心などは少しもない。わたしは止むを得ない事情から、或る権門《けんもん》に出稽古をしているが、実に嫌やだ、その日常は眼を掩いたく、その心情は唾棄すべしでしてね」  小吉と精一郎がちらっと眼を見合せた。伝兵衛が権門といっているのは、町奉行鳥居耀蔵一門の事である。その奸佞は知らぬ者がないが、伯父が筆頭御儒者衆三千五百石の林大学頭、うしろ楯が浜松六万石の老中筆頭水野越前守忠邦では何人もどうにも手が出ないのである。いやその手を出そうというものよりも耀蔵は役者が一枚も二枚も上であった。 「といって、自分の力では何にも出来ない。その不甲斐なさに我れながら愛憎が尽きましてな、剣術を教えるも気がすゝまず、先ず卑怯と申せば卑怯だが、茶事などに逃避して老後を平穏に送ろう算段、いや、誠に面目ない、お笑い下さい」 「御心中は、わたし如きにもわかりますよ。ともかくもう一盞」  小吉は酌をした。  伝兵衛は酔って上機嫌で、やがて精一郎が駕で車坂へ送ってやった。小吉と二人門の外まで送った。  元の座敷へ戻って、精一郎は膳部を悉く下げさせて 「ところで叔父上。この間は島田が思い知らされたようですね」  と、から/\笑った。 「おれは後で、飛んだ悪い事をしたような気がしてね、恥かしいよ」 「いや、結構でしょう。しかし流石の島田も恐入っています。それにつけても麟太郎どのを、預け置きまするは如何でしょう、叔父上の御意見は」 「あれはいゝ。麟太郎はおれがような放埒の者の子だ、血が同じだ、間違ってもおれがような男になられては大変ではないか。虎之助は田舎っぺえだが、生真面目だ。あゝ云う男に叩込んで貰わなくては駄目だ、阿蘭陀の外に禅もやらせているとよ」 「それはわたしが申しつけました」 「そうか」 「叔父上はすでにお試しなさいました。さて島田の腕をどう御覧になりますか」  小吉は顎を撫でた。 「まあ駄目だねえ」 「え? わたくしは、あれは、わたくしより強い、三本の中、二本はとられると思っていますが」 「ふっ/\ふ。弟子を甘やかしてはいけねえよ。いや、ひょっとしたら、竹刀勝負なら、虎はお前に勝つかも知れないねえ。が、精一郎、お前もわかっている筈だ、お前の剣術と、虎が剣術とは、違うよ。あれはまだ/\本当の道を歩いてはいねえよ。例えば、おれが剣術のようなものだ」  精一郎は、じっと小吉を見詰めていた。 「竹刀や木刀で飛んだり跳ねたりで、打合うだけが剣術の稽古ではない。精一郎、も少し性根を入れてぶちのめしてやれ」 「はあ」 「だが、あの男はお前と違い麟太郎を本気でぶちのめすだろうから、いゝよ」 「さようで御座いますか。叔父上はそれを御承知でございますね」 「元より——。お前もそのつもりでやったのだろうが」 「はっ/\/\」  二人が顔を見合せて、一緒に大きく笑って終った。 「しかし島田は叔父上の服装には驚いて居りました。そして、それを見ても江戸の人は誰一人笑いもしなければ、不思議そうにもしない。これが江戸だと教えられて、大いに自得するところがありましたといっていました」 「まるで茶番の姿よ。虎も江戸が呑込めただけでもいゝ修行になったろう」 「そうでしょう」  更けて帰りに、自分の息が、はっと白くなった。空が何んとなく白ッちゃけて、薄い銀の板を張ったように見える。 「もう冬かあ」  その夜明けに近い頃である。とん/\とん/\、物凄い勢で、小吉の門を叩く者があった。それが余り激しいから小吉は思わず刀を引っ下げて出て行った。 「野中の一軒家ではないんだ。静かにしろ」  怒鳴りつけると 「せ、せ、先生、ご、ご、御隠居様が」 「おう、殿村南平だな。隠居がどうかしたか」 「い、い、いけません」 「死んだか」 「ま、まだお息はございました。——が」  小吉は跣足で飛出して行って、門を開け乍ら低い早口で 「おう、真逆、自殺じゃああるめえなあ」   我儘  殿村南平は、小吉の顔を見るなり、泣きついて、暫くぶる/\慄えるだけで声は出ない。  空高く星が宝石のように冴えていた。 「そうか」  と小吉もごくっと唾をのんで 「自殺をしたか」 「せ、せ、切腹をなさいました。ど、どうしてあんな悲しい事をなさったのでしょう」 「あ、あれは馬鹿だ」  小吉はそのまゝ内へ燕のように飛返って、お信へ何にかいってすぐに仕度して出て来ながら 「万事はおれが指図をする、それ迄は岡野が屋敷へは何にも云うな」 「はい」  お信の返事がきこえた。  もう小吉は駈けていた。殿村はたった今、こゝへ来たばかりで息も切れているが、小吉に遅れてはならないと転がるようについて行く。  北中之橋から横堀に沿って、御弓同心の組屋敷の前を駈け乍ら 「あの不自由なからだで良く腹が切れた」  ひとり言をいって、急に足をゆるめた。 「殿村よ、世話になったねえ」  泣いているのである。  道傍の枯芝にうっすらと霜らしい白いものが感じられる。  小吉が殿村の家へ着いた時は、隠居は冷たくなっていた。それへ祈祷姿の白い法衣を着た清明が押しかぶさるようにしがみついていたが、小吉の来たのを知ったら、また堪らなくなって声をあげて泣いた。  隠居はうつ伏して、脇差で胸を刺している。  小吉はその肩をつかんで 「御隠居、死にやんしたか」  と、たゞ、それだけいって、後は眼をつぶって黙って終った。  隠居は、殿村と清明が加持に頼まれて、一寸出た隙にやった。腹を浅く切って、その脇差へおっかぶさって死んだのである。くれ/″\も注意して、刃物は手近に置かないように、小吉に云われてはいたのだが、加持祈祷に行かなくては、この家のくらしが立たない、仕方ない事であった。  夜がほの/″\と明けて来て、おもては一ぱいの霜であった。初霜である。鈍い朝日の光にぼんやり見えている隠居の屍へ 「御隠居、死にやんしたか。最後まで我儘を通したねえ」  小吉がまた切羽詰った声でそういった。  殿村の家は戸を閉めて一切留守の態に拵え、頃合を計って殿村が、小吉に云いつけられて買物に出て行って、また人を頼んで割下水の外科篠田玄斎を呼びにやった。  待っているところへ、篠田玄斎がやって来た。 「岡野の隠居が、ちょっと怪我をしてね。死んだよ。がこんな事で死んだんでは、隠居とは云え岡野の千五百石に疵がつく。どうだ、わかるか」 「ふん、野暮では、勝夢酔先生と付合は出来ないよ。まご/\したら、また自慢の国重をずばりと眼の先きへ突立てられる事さ」 「その通りだ」 「安心おし、玄斎は本所《ところ》もんだよ」  それでも、すっかり繃帯をしてちゃんと衣服を整えて、脇差をさして何事もない風にして隠居の駕が入江町の屋敷へ戻って来たのは、もう|七つ下り《よじすぎ》であった。  しかもこの駕の廻りにいるのは、小吉と東間陳助の唯二人で、途中迄いつも小吉に叱られては今日までおとなしく用人をつとめている堀田甚三郎が出迎えた。 「どうだ、殿様の行方は知れたか」  堀田は頭をかいた。 「八方手を尽しましたが、未だに知れません」 「困ったねえ」  と小吉は大きく舌打をして 「型ばかりだが嫌やでも検視の御役が下《さが》る。当主がいなくてはどうにもならない」 「はっ/\は」  堀田は笑って 「こゝ迄来て終えば居ても居なくても同じ事でしょう」 「こ奴」  と小吉はこわい眼をした。が、急ににゃ/\ッと笑った。 「そうだ、居ても居なくてもいゝような人だ——が、気の毒は奥様《おまえさま》、おれは、あのお方にお逢いするのが辛い」 「本当ですな」  と堀田も首を下げて 「あのお方はまるで仏さまですからね、しかし見方によっては余り御自分というものが無さ過ぎる。御隠居の好むまゝ思うまゝにおさせ申して置くのが、御隠居のために一番|幸福《しあわせ》だとばかり思込んでいられたところに、わたしに云わせると不満がありますね」 「仏さまというものは慈悲だ。奥様は御隠居を慈《いつく》しんでやっていられた。あのお姿は尊いぞ」 「言葉をかえれば、あの御隠居に心から惚れていたからだとも見られますな」 「馬鹿奴、下司をぬかせっ」  小吉はそういってから 「それだけにお嘆きがお気の毒だ」  しかし屋敷へ駕がつくと玄関へ出迎えた奥様は驚く程しっかりとしていられた。  たゞ御急死とだけ申上げたが、これを申上げた堀田には、奥様はその時にはもう何にもかもお察しでいられることが感じられて、その事を、さっきも小吉へ話した。  御里方が御家柄とて流石は御立派なものだ、小吉はそう思った。お信もお順を抱いて、玄関式台の横の砂利に立って迎えていた。  誰も一と言も物を言わない。たゞ、黙って御隠居を駕ごと、奥の書院へ通し 「さあ、こゝでお静かにおやすみなさい」  駕から抱き下ろして小吉はひとりごとのようにいってからそして改めて、こゝへ床を敷いて仰向けにねせた。 「奥様《おまえさま》、御隠居のお顔をじっと見て上げて下さいまし。あなたなら、御隠居が、何にを云っているか、おわかりになる筈だ」  といった。奥様は 「最後まで、あなたの御親切をいたゞきました。江雪に代って、わたくしより改めて御礼を申上げます」 「何にをおっしゃる。しかし御隠居の我儘もこゝ迄来れば、恐入る外はありませんね」 「はい。自儘に死ねる境涯は本当に幸福でござります。それにしても、唯一人の子の孫一郎が、いま此際に行先が知れないとあっては、江雪もいさゝか心がかりかも知れませぬ。真実の父と子であり乍ら、互に血を流す程によく争いました。どう考えても、血のつながる父と子とは見えませんでしたが、そうした互の心が、こんな果敢ない姿になって顕れましたので御座いましょう」 「まことに申しようもないが、千五百石に疵はつけませぬから、御安心なさいまし」 「といってもお届け申せば、今夜にもお下りなさる御検視が——」 「わたしに考えがある。心配はない」  小吉は刻限をはかって、夜更けてから岡野江雪急死の旨を支配の松平伊勢守の組頭大塚三左衛門の牛込細工町の屋敷へ届出た。  大塚は男谷精一郎の門人だ。どうせ検視は明昼頃になる。それ迄にすべての仕度をして置けばいゝのである。  別間で堀田に何にか話していたが、やがて東間をつれて道具市場の世話焼さんへやって行った。 「おう、世話焼さん、お前、岡野の今の殿様を見た事があるね」 「ございますよ」 「何にをやってる奴でもいゝ、あれに似てるような男がこの辺にいねえか」 「藪から棒でございますね。が、いますよ」 「え」 「と申しますのはね。いつもみんなで然様《そう》言っているんですから考えて見る迄もなくお答が出来るんですよ。先生だってよっく御承知だ。当人は先生の身内だ/\といっていつも威張っているんですから」 「ほう、馬鹿な事では岡野孫一郎に似ているようだな。誰だ」 「入江町の切見世で女の世話を焼いている三次ですよ」  小吉は手を打った。 「うめえ奴がいたものだ。そうだ、あ奴そう云えば孫一郎に似ているな」 「似てるどころじゃあございませんよ。みんな瓜二つだ、岡野の殿様も大そう女が好きだと云いますが、あの三次もそれに勝っても敗けないという奴で、いつもきょとんとして、死人見たいな青い顔をして、がっくりと肩を落して、ぽそ/\と歩いている。だが女には類のない親切でしてね。切見世では人気がいゝんでございますとさ」 「鬢《びん》を奴《やつこ》にしていたな」 「それはそうですよ」  小吉は首をかしげたが 「よし、それ位は、何んとかなるだろう——世話焼さん、すまないが、三次を引っ張って来てくれねえか」 「おやすい御用」  といったら横から東間が 「あ奴、あれで文句をぬかす奴だ、わたしが行って来る」 「そうして呉れるか。それじゃあ、世話焼さん、今夜一寸、みんなの智慧を借りてえ事があるんだ。花町の松五郎頭をはじめ、おれが知っていてその辺にぶら/\しているような奴を皆んなここへ集めては呉れないか、お前さんにはとんだ迷惑だが」 「よろしゅう御座いますとも」 「たゞね、谷中の五助は元より仕立屋の弁治だの漆喰絵の長吉だの、ほんの堅気になっている奴はいけないよ。これらの心をゆさぶっては気の毒だ、みんな下地のある奴らだから、ひょいと誘い水をしたらどんな事になるかも知れないからね。それから緑町の縫箔屋の長太は是非来させてくれ、あ奴どうなったか、見たいからね」  それからあっという間にみんな集って終った。行灯を横に小吉はいつもの大座蒲団へ坐って 「岡野の隠居が御通夜をこゝでやっているような塩梅だな」  そんな事をいって笑った。岡野の屋敷との間は、東間が何度も/\行ったり来たりして、堀田とうまく連絡をとった。その序手には小吉の方へも寄って来るので、今、お順ちゃんが泣いていました、今はすや/\とおやすみです、そんな事迄手にとるようにわかった。  依然として孫一郎の消息はわからない。たゞ例の米屋の娘と一緒な事だけは確かで、ひょっとしたら公儀の掟も何にもあったものでない馬鹿だから、ふら/\伊豆辺りへ遊山湯治に行ったのではないだろうかというような噂をしている者もあった。 「あの殿様の事だ。とんだ怠け者だから徒歩で行く気遣いはない。|しらみ《ヽヽヽ》潰しに駕屋を調べて見てくれろ」  松五郎頭がこの役を仰せつかって、すでに八方へ組《くみ》の若い者を走らせている。  小吉は、前に出した莨盆から火をつけて、一服吸った。そしてじっと隅っこにいる切見世の三次を眺めた。 「おう三次、お前は明日の立役者だ。しっかりするんだぞ」 「へえ」  三次は膝へ頭をぶっつける程にぺこりとして 「大丈夫です」 「対手は御役人だぞ。しかもお前の芝居を、ものの二間とはなれないところから御覧《ごらん》なさる。寸刻の油断をしても見破られる。見破られたら岡野家千五百石に疵がつくばかりか、お前は元より打首。このおれも切腹だ」 「へ、へえ」  次の日、小吉の予定通りの刻限に、予定通りに大塚三左衛門と、相支配の戸塚備前守の組頭松本利右衛門がやって来た。組頭は御役料三百俵という役柄、ずーっと入って来たら、勝小吉が平伏して出迎えた。その次に東間、その次に堀田が控えている。大塚も松本も小吉の顔は知っている。 「どうぞこちらへ」  やがて小吉が案内したが、二人は立ったまゝで、隠居の遺骸へ一礼をして、顔を掩うた白布《しろぬの》を取って見ようともしなかった。  隠居を安置した横に三次の化けた孫一郎と、奥様が並んで少しこゞみ加減にしていた。三次はこち/\にからだを硬ばらせて真っ紅に眼を泣きはらしている。 「確と御見届け仕った。御愁傷に御座る」  大塚は型通りにそういって、そのまゝ、すぅーっと遺骸をはなれた。  奥様と三次が、一緒にぱっと平伏した。千五百石の旗本のこうした場合のお辞儀の姿勢もいやになる程稽古をさせられて来たのだが、そも/\三次などという男は生れて以来こんなお辞儀などをした事はない。知らず/\胸が畳へくっついて、尻の方がひょっこりと浮上った、と思ったら途端にぷッと一発小さく短い奴だが、もらして終った。  一同はっとする。その間髪を入れず、堀田が大塚へ東間が松本へ、黒いお盆へ載《の》ったお目録を頭より高く捧げて差出して 「お潔め料に御座ります」  といった。二人とも、今の三次の一件は気がついたか、つかないか、黙ってこれを受納して、小吉へちょっと目礼すると、そのまゝ振向かずに帰って行った。お潔め料は検視の仕来りである。  みんな玄関へ送って出る。が、三次はべったりと腰を落したまゝ、そこから身動きもしない。正に腰がぬけた。  検視役が門を出るか出ないに、東間が飛鳥のように、引返して、いきなり、ぱっと力任せに三次を蹴飛ばした。でーんと仰向けに倒れるのを、今度は胸倉をとって引き起こし、庭の方へ引きずって行った。  三次は、足が逆にねじれて、立つ事も逆らう事も出来ない。   町の師匠  小吉は、東間を遮って 「これ、殿様を、そんな目に逢わせてはいけないよ。はっ/\、おい、三次、お前、うめえところでやりやがったね」  笑っていた。 「この馬鹿が! いかに下司とは申しながら、場所もあろうに、あゝしたところで——叩っ斬ってやる」  東間は口を尖らせて真っ紅になっている。 「いや、あすこでうまく潔料《きよめりよう》を差出す気ッかけがついた。いゝ芝居だったではないか。先ずこれで何事もなく相済んだというものだ」 「といっても、余り——」 「切見世の女を対手にひょろ/\と日を送っている人間だ、人様の前で、千五百石の御旗本のきっちりと形の定っているお辞儀をしろというのが土台無理よ。それに、あゝ、こち/\に四角張ってからだをかゞめ、尻が浮くと屁も出るよ。元々好んで大役を引受けた訳ではなし、勘弁してやれ」  おまけに縫箔屋をはじめ、界隈の破落戸《ごろつき》見たような奴が、みんな侍姿で、しかつめらしく坐っていたが、どれもこれもしびれが切れて立つ事が出来ない。四苦八苦をしている図は、如何にも江雪の遺骸を安置したところらしくて、あの人があの世でにこ/\見ているだろうと思うと小吉は何んだかうれしかった。  三次は、平つくばってぼろ/\泣いている。 「いゝよ/\」  とそっちへ向いて 「お前は、夜も明けない中からわざ/\|おででこ《ヽヽヽヽ》芝居へ行って、奴頭《やつこあたま》を御旗本風に拵えて貰って来ただけでも大変な苦労だった。|かつら《ヽヽヽ》という訳にも行かない故、足毛《たしげ》を一本々々べた/\に堅糊でくっつけて、|びんつけ《ヽヽヽヽ》油をぬりまくり、眉を釣上る程に結ってある。頭から顔が時の経つにつれて、ぴり/\硬張って、その上、硫黄をいぶして、眼を泣き腫らすというのだから、お前は此度一番の貧乏籤よ。行先の知れない御旗本の偽者がおやじどの急死の御検視の前で、屁をやるなんぞは面白いよ。いゝんだ/\」 「す、す、すみません。先生、ど、どうぞ、あっしの首を落してお呉んなさい。この通りでございます」  三次は手を合せた。 「ところがまだ/\首は落されないよ。明日は友引で出せないから、明後日屋敷を出るお葬いはやっぱりお前が喪《も》主だからね」 「せ、せ、先生、どうぞ叩っ斬って下さい」 「うるせえッ」  小吉は本気で怒った顔をした。 「斬ってくれというならいつでも斬ってやるが、今も云う通り明後日までは斬れない」  そう云って、それっきり、奥様《おまえさま》と二人、奥の方へ行って終った。 「馬鹿野郎」  東間が後で平手でぱっと頬ッぺたを張ったが、三次はうつ伏して泣いているだけであった。  その夜になって、松五郎が眼をくる/\させてやって来た。 「先生は」  と玄関にいた東間へきいた。 「あちらだ」  遺骸のある次の間に、小吉は苦虫を咬みつぶしたように眉を八字に寄せて、腕組みをして坐っている。傍に堀田甚三郎もいるし、世話焼さんもいる。俄かに侍に化けた縫箔屋だの、切見世の奴だのが一人残らず損料借の紋付を着て、如何にも窮屈そうに弱り切って坐っている。縫箔屋が袴を無理に両側へひろげてその中で胡坐をかいていたのを見つかってさっき堀田に叱られた。 「見つからないな」  小吉は松五郎の顔を見るとすぐそういった。 「へえ、見つからねえどころか、先生、訳がわからない事になりやした」 「何?」 「殿様と一緒に間違いなしという米屋の娘ね、あれがちゃんと一人で行っている先が知れました」 「ほう」 「そこであっしが、あの娘を引出しましてね、実は斯う/\いう次第で御家の一大事だ、お前の出方によっては、おいらにも覚悟があるがどうだお前、殿様を知らねえかと訊きますとね。知らないという。知らないといってもそんな筈はねえだろうと、いやもう、脅したりおだてたりでききますとね、実は殿様はこの頃新しい女が出来ましてね、それに夢中で、わたしの事などは見向きもしなくなっている。何処か旅へでもお出かけなら、その方とご一緒ではないのでしょうかというんですよ。その上、ごた/\ごた/\殿様への恨みを並べ、この恨みはきっと晴してやるなどと——」 「別な女を探したか」 「探しましたとも——先生、そ奴がなか/\の曲者ですよ。薬研堀の裏店にいる粋な常磐津の師匠で柳橋などにもお座敷へ出る、日本橋界隈の大店の旦那衆に取入ってその店《たな》へも出入をしてやしてね。聞いて見ると腕っこき——芸の方じゃあござんせんよ男にかけてです。殿様どうやらこ奴に引っかかった」 「引っかけたところで鼻血も出ないから心配はないでしょう」  と横から口を入れた堀田へ 「米屋の娘のうしろには、姿をかくして例の大川丈助という蛇のような奴がまだ糸をひいている。おれは内心、殿様も母上が死んだら、表向き奥方として屋敷へ入れるの、やれ、化粧料に五百石やるのと口から出任せをいっているが、しかしあのまゝ満足していて呉れれあいゝと思っていたが、あの女を捨てたとなると、こ奴、ひょいとするとまたうるさくなるぞ」 「はっ/\、そうですなあ」  という堀田へ向いて、小吉は舌打をした。  堀田は小さな声で、ところで松五郎頭、その師匠のところへ行って見ましたか、という。 「行って見たらいない。三日前に、亀戸の天神へお参りに行くといって出ましたと、少々足りねえような飯炊婆《めしたきばゝ》がいうから、段々さぐって見ると、それがどうも殿様と、何処かで落合って行ったらしいんです」 「もういゝ、もういゝ」  小吉は手をふった。 「投ったらかして置け。どっちにしても隠居の葬いを出してからだ。切見世の三次を殿様で押通す」 「そうですね」  と堀田はにや/\して 「男というものは、新しい女が手に入ると並の人でも少しおかしくなる。ましてやあの殿様です、当《あて》にせぬ方が無事に参りましょう」 「何にをいってやがる。お前はこゝの用人だ。そんな女の出来たのを知らなかったのか」 「面目ありませんが、知りませんでした。公儀の掟も御旗本の定めもあったものではない、米屋の娘が来ないなと思うといつの間にかひょろ/\と出かけましてな。あの殿様の女出入を一々気にしたのでは、こちらの命が持ちません」 「不忠な家来《けれえ》だ」 「そうです。先生、この辺で東間さんとでも交代させて下さい。この葬式の後に、また先生さえ手こずった大川丈助でもねじ込んで、手切金だの何んだのという事になっては到底《とて》も堪らない」 「はっ/\。お前は、そういう事が好きではないか」 「飛んでもない」 「いや満更でも無さそうだよ。今度、丈助が来たら、お前と悪智慧比べをさせて見るがおれは楽しみだ」 「真っ平/\」  とぺこ/\頭を下げたり手をふったりするが、実は小吉のいうように、堀田甚三郎満更でもなさそうな顔をしていた。 「それはそれとして先生、御大身の御旗本などというものは、無類に薄情なものですな」 「そうだよ。今頃になって気がついたか」 「いやあどうも——隠居が亡くなったというに御本家岡野出羽守様をはじめ御親類方が誰方《どなた》お一人、お悔みに見えない。いくら生前、御迷惑をおかけ申したにせよ、ずいぶんひどいものだ。裏長屋に住んでいるその日ぐらしの者でもこんな事はないですよ」  小吉は黙っていた。瞼がうるんで来る。がふと気をかえて 「面倒でなくて、その方が却って助かる。隠居はな、唯人前だけを心にもねえお悔みをいうようなは大嫌えな人だった」  といった。  一日日をおいたがとう/\親類は誰も来ない。親類どころか殿様の行方は探してもわからない。亀戸の天神へは、松五郎頭が自分で行って調べて見たが、茶見世の女達も誰一人それらしい姿を見かけた者はいなかった。 「ひどいものだ」  堀田は沁々と何度も同じ事を云う。 「いやあの隠居の事だ。却ってさば/\しているだろう。今に、少し落着くと幽霊がおれのところへ出て、勝さん冥土というは案外いゝところだ、お出でよとか何んとか迎えに来るかも知れないよ」 「先生、行きますか」 「いや、おれはまだ娑婆《しやば》に未練がある。行かないね」 「御隠居が恨みましょう」 「そうだ、恨むね。薄情だなあと、眼を細くして笑う隠居の顔が見えるねえ。ほんとうにいゝ人だった、おれはいつも擲ったり、肥溜へ投り込んだりしたが——」 「しかし、お葬式の喪《も》主が世間を一人前では通らない切見世の男だったなどという事は痛わしいですなあ」 「まあ、そういうな」  お葬いの日は、夜の明け際に銀色をした大粒の雨がばら/\降ったが、すぐやんだので、雲は低く薄ぐもりでひどく寒かったが、みんな助かった。  喪主の三次は、仲間の奴らに、もう三日もこうして髷を堅糊でくっつけてあるので自分の顔が、自分のものか他人のものかわからなくなって、頬をつねっても痛くないような気だなどとぶつぶつ愚痴をいった。  が何分にも|おなら《ヽヽヽ》の一件がある。堀田に睨まれても小さくなり、東間に見られても小さくなる。まして小吉にじろりとでも見られたらすぐに真っ青になって慄え上った。  お昼少し前に、ちゃんと定っている千五百石の型通りの隠居の葬式が出た。 「奥様、これで江雪どのともお別れです。武家の葬いに女が出てはならぬ作法ですが、そんな馬鹿な話はない。あなた、みんなと一緒にお輿《こし》を玄関まで支えてやって下さいまし」 「はい。勝さん、到れり尽せりの行届いた御恩は一生忘れませんで御座いますよ」 「御恩も何にもない。わたしは隠居が、いつものように屈托なく、にこ/\笑って勝手放題をいって、そのまゝすうーっと極楽へ行けるようにしてやりたいだけでしてね」 「はい。有難う存じます」  奥様は、小吉へ向って、痩せた手で泣き乍らじっと合掌した。 「さ、参りましょうか」  小吉が大きな声で指図をした。  岡野の菩提寺は、深川万年町の増林寺である。これが図らずも男谷家の寺で、小吉の父平蔵がねむっているところだ。  葬列の指図は一切堀田に任せた。この男は実はこんな事には思ったより馴れてもいたし気も利いた。隠居の輿の前後に行列してみんな地面を摺《すり》足で静かに歩いてくのは、なか/\立派で何処から見ても千五百石の貫禄である。  津軽屋敷の表門の前を通って一つ目の通りから二ツ目橋を渡る時に、輿が竪川の水に映って、きら/\と光るように感じた。南へ真っすぐ|高ばし《ヽヽヽ》へ出て、霊巌寺の門前町から、仙台堀の正覚寺橋を渡ると直ぐ鼻っ先きが増林寺だ。  その霊巌寺前で何気なしにひょいと見ると、丁度牧野備前守|下屋敷《したやしき》前の辻行灯のところを、往来をもはゞからず、もつれるような恰好でこっちへやって来る男女の二人づれに気がついた。 「あ、殿様だ」  思わず口走った堀田が小吉を見る。小吉も流石にはっとした顔つきで堀田をちらッと見たと思ったら、そのまゝ葬列をはなれて、真一文字に飛んで行った。  如何にも岡野孫一郎。相変らず気のぬけた青い顔つきで、がったりと肩が落ち、小紋の羽織に同じ袷の重ね拵え、雪駄ばき。傍の女に倚りかゝりでもしたいような風態である。女は如何にも初顔だ。細っそりした丈の高いきりゝとした粋な姿である。  小吉はその前へずばっと立った。 「殿様生きてましたね」 「え?」  孫一郎は、深い編笠の小吉を窺き込むようにして 「あゝ、勝さんか、お葬いだね」 「そうです」 「誰方《どなた》?」 「殿様《とのさん》の知らない方だ。岡野江雪という人だ」 「えーっ?」 「あすこにいる喪主は岡野孫一郎どの」 「ふっ/\/\。脅かしていけないよ勝さん」  といった時に、小吉の腕はぐッと孫一郎をつかんで、女の方へ大きな眼をむいて 「女、おれは入江町の勝夢酔、文句はいつでもきくぞ」  吐きつけるように怒鳴ると、もう、子供を引きずるようにして橋の袂にある薄汚ない馬方《うまかた》蕎麦屋の縄暖簾の方へ連《つ》れて行った。 「お、お、お前」  と孫一郎は、振向き/\、女の方へ云いかけるが、女はもう逃げ出している。孫一郎は未練にじたばたするが身動きも出来ない。 「馬鹿奴!」  小吉はそれを、どーんと暖簾の内へ投げつけるように押込んだ。   馬方蕎麦屋  と同時に 「おーい」  と葬列の方へ 「三次、こっちへ来い」  と呼んだ。三次はすぐ東間がついて駈けて来る。葬列はそのまゝそこへ停りかけたが、堀田の指図でずる/\と流れるように、蕎麦屋の前へ寄って来た。  蕎麦屋の土間は薄暗く、ぼろ畳の上り端に腰かけた駕かき風の奴が二人、遊び人風の奴もいてこれは上って花まき蕎麦を肴に酒を飲んでいる。  そこへ葬式拵えの侍が、別の侍を引っ張り込み、後からまた葬列の喪主が飛込んで来たのだから、みんなびっくりして立上った。 「何んだ/\」  遊び人が、口をとんがらかして喧嘩の構えをした。 「入江町の勝夢酔だ。勘弁しろ」 「えゝ勝?」  遊び人は、小吉の顔を見て 「へえ」  というと、いきなりびっくりする程ぺたりとそこへ坐り直してお辞儀をして終った。 「ちょっと、急場で此処んところが入用だ。この風態ではお前ら如何にも嫌やであろうから、何処かで飲み直してくれ。この銭《ぜに》あおれが払うわ」 「へ、へえ、へえ」  三人、いやもう驚いて、きり/\舞いで出ようとするのへ 「おい、ちょいと待て——僅かだが、仏の供養をする」  小粒をぱっと、ぶっつけるように投げてやった。  孫一郎はぼんやりしている。 「さ、早く着物をおぬぎ。その男の喪服と着替えなさい」 「ほ、ほ、本当か勝さん」 「本当も嘘もない。御隠居は三日前に他界した」 「そ、それは」 「伜が病気の母御を一人おいて屋敷を空けて幾日も得態の知れねえ女とぶら/\している中に、父御が死んだのだよ。殿様、あなた何んだか妙だとは思わないか」 「い、いや、父上はかねて中風で、余命は知れていたから」  小吉は、ぐっと胸がつかえたようになった。手先が微かに慄え、眼をすえて、じっと孫一郎を見つめた。  胸がむか/\して口の中が一ぱいに虫唾が走って来る。からだがわく/\したが、ぐっと腹に力を入れると、土間へぺっと唾を吐いた。 「そうかねえ。云って置くが、この葬列には一人も御隠居の肉親はいないのですよ。いゝか、殿様、それだけは確《しか》と覚えておくがいゝよ」 「清明とかいう祈祷師の女はどうしましたか」  小吉は余っ程|堪《こら》えている。そっぽを向いて、返事もしたくなさそうだったが、蕎麦屋の表には葬式がとまっている。あの担がれている棺の中にいる隠居が、どんな気持で、この伜の為《す》る事を見ているだろうと思いつくと、どうにもたまらなくなって 「あれはね、遠慮をさせたよ」 「そうですか、隠居は心残りであろう」 「殿様、話は後でゆっくりするが、とにかく此処は急ぎだ。さ、早く着替えて喪主に立ちなさい」  どうせ借衣装だが、ひょろりとした切見世の三次と孫一郎はからだつきがそっくりなので、着替えてもおかしくない。 「先生、あっしはどう致しましょう」  孫一郎の着物を着て、鼻っ先に※[#「木+覇」]《つか》がしらがぶつかるような恰好に大小をさした三次が、がっくり落ちた肩をゆすぶってきいた。 「掘田にきいて葬列のいゝ加減なところへ入って随いて来い」 「へえ」  やがて葬列がまた粛々《しゆくしゆく》と動き出した。堀田は並んでいる東間へ 「あんな殿様へ千五百石は、まるで掃溜へ捨てるようなものだね」  とさゝやいた。 「世も末だよ。見ろよ、あの恰好を——時々うしろを振向くのは、さっきの女がまだその辺にいやしないかと気がかりなのだ。並の人間なら何にを置いても御隠居の死際をきくところだ。殿様はそんな事など何んとも思ってはしない。それより女が大切だという」 「これが血肉の父子だから、真に不思議だ。きっと前世は敵同士だったのだろう」 「違いない」  この葬式が終ると、堀田は、もう、どうしても岡野の用人は嫌やだといってきかないが、さて誰も代る者がいない。大川丈助が、何処か見えないところから、じっとこっちを狙っている様子がちょい/\感じられるし、第一、あの葬式の日に、上下姿でちゃんと本堂に待っていて、びくともせず、みんなに交って供養をした。川へ投げ込まれた事などは、けろりとしている面魂には、小吉も実はぞうーっとしたのである。またあ奴に入り込まれでもしたら、岡野家はいよ/\もう駄目である。 「おれが頼むのを、お前、きいては呉れないか」  小吉は、今日もやって来た堀田を睨みつけた。 「先生は直ぐにそうおっしゃるから困るのですよ。御隠居が亡くなられてから、殿様が唯の一度も御仏壇のお扉をお開けなさった事はない。それにあの常磐津の師匠とかいう奴がまた大変な代物です」  小吉はこれを制して 「まあ待て。今、おれが方々殿様の御新造を探している。馬鹿でも何んでも千五百石だから実はこれ迄も縁談がねえ訳じゃあなかったのだが、こっちが金が無くて嫁を迎える仕度も出来ないし、口をかけても先方《せんぽう》が少し聞合せると、あゝいう殿様とわかるから、すぐに破談になったものだ。だが今度は少し脈のある話が出ている。嫁を持たせたら、いくらかはあの放埒も癒るだろう。苦労だろうが、それ迄、お前、辛抱してくれ。おれはそうなったら用人は嫁の里方に任せる気でいる」 「そうですか、それは本当ですか先生」 「何んで嘘をつくものか」  そんな事で、一日々々が過ぎて行く。  隠居があんな死方をしてから小吉は何んだかこう妙にうら淋しくて、時々、ひょっこり梅屋敷の殿村へやって行って、唯ぼんやりと坐っていて、そのまゝ戻って来たりする。  世話焼さんと相談して、僅かだが金を工面して清明へ持って行ったが、清明は腹を立てて受取ろうともしなかった。 「御隠居に、あんな最期をおさせ申したのはわたくし共が到らなかったからでございます。わたくし共は何んとお申訳を申し上げていゝか」  清明はいつも本当に身も世もなく泣くのである。  年の暮が迫って来た。鎌のような夕月が、師走で無くては見られない不思議な色で空に懸る。殿村へ行った戻りに、黄昏の途で逢った山伏の、着ぶくれたいでたちが身に沁みるように感じられた。  こゝのところ引続いて碌《ろく》な事はなかったが、小吉にとって何にかしら、肩の重荷の下りるような気がしたのは、あれから急に孫一郎の縁談が纏りかけて来た事である。嫁の里方は麻布市兵衛町の伊藤権之助という、八百石だ。  表向の祝言は隠居の一周忌がすぎてからにしても、先ず内祝言だけして置いたら如何でしょうという先方の意嚮をきくと、孫一郎はいゝ気になって 「勝さん、死んだものの年忌などはどうでもいい。春早々にして下さい」  とむきになっていった。小吉は答えなかった。 「母上もあの通りの容体だ。いつお亡くなりかも知れない。そんな事でまた延々になったら、わたしはなかなか嫁を貰えない。え、今度は五百両という持参金で、諸道具も高相応というから至極結構ではないか。岡野というと嫁の来手がないなどと世間で悪口をいうそうだが、早くその者達の鼻をあかせてやりたい。それにだよ。知行所の百姓奴らも不届にも何んだかだと蔭口をいっていると耳にした。勝さん、是非、新春早々に頼む」  孫一郎は、にた/\して唇を引っ吊らせていった。  小吉は黙って立って終った。 「勝さん、勝さん」  孫一郎はあわてて立とうとしたが、足許がふらついた。 「おい、殿様、勝はね、心の内で、伜にまで見棄てられた岡野江雪というものの喪に|しか《ヽヽ》とついているのだ。忌明け迄は、祝事の世話は出来ない」  とっとと出て行った。 「何あんだ」  と孫一郎は、尻を落してがたりと坐って 「あれは剣術は強いが、若いものの気はわからない男だよ」  頬をふくらまして、そんなひとり言をいった。  小吉はぶり/\怒って屋敷へ帰って来ると東間陳助が、お信に茶をよばれ、玄関の方へ引下って薄暗いところにきっちり坐って待っていた。 「どうした?」 「はあ、実は麟太郎さんの事で——」 「何? 麟太郎の事、おい、こっちへ来い」  奥の火のある方へ東間を引立てるようにした。 「あ奴何にか失敗《しくじ》ったか」 「いゝえ、そんな事ではない。今日、亀沢町の道場で耳にしたのですがこの寒中に麟太郎さんは、日没と共に新堀の道場を出られて、王子へ行き、夜が明ける迄唯一人権現の社前にぬかずいて心の鍛練をしているという」 「うむ、王子権現?」 「そうです。如何に修行といっても、麟太郎さんはまだお年若だ、これを一夜も欠かさずにあんな遠く迄やるというのは無理だ。それにですね。道場の拭掃除、炊事、雑用を終えて向島弘福寺に参禅、それを終って帰るとまた朝と同じ事を繰返して夕方になる。それから王子だという。島田先生は碌に剣術の稽古はおつけなさらんそうです。ちと、ひどすぎる。第一、まだ年若ですからおからだが続かない。先生、亀沢町へお返しになって下さい」  お信は横からじいーっと瞳をこらして、小吉が何んというか、気がかりの様子であった。小吉は 「おい、東間、馬鹿をいうな」  とから/\大声で笑って 「虎へ預けた伜だ、煮て喰おうと焼いて喰おうとあれの勝手よ。え、並の修行では、あ奴うまく行っておれやお前位の剣術遣いになるが関の山だよ」 「しかし——」 「しかしも屁もねえわ。お前ら、いつも云う通り麟太郎をいつ迄子供扱いに甘やかすからいけねえ」 「そんな気丈をおっしゃるが、先生御自身は毎晩王子まで行き、あすこで天明を待たれる事は出来ますか」 「おれか。あゝ出来るよ」  お信は、何にかしら、ほっとした顔つきをした。  その夜はひどく寒い。 「やっぱりいらっしゃいますか」 「あゝ」 「左様だろうとお察し申して居りました」 「朝でなくてはけえられねえ。お前は風邪をひかねえようにお順をあたゝかにしてやり、直ぐにねるがいゝよ」  小吉はにこ/\顔で出て行った。外はもう雪でも降ったように真っ白い霜であった。  一歩々々に夜は更けて、冷めたさがひり/\と身に染みる程だが、小吉は何んだかうれしかった。千五百石でも、孫一郎がような馬鹿がいる。おれが麟太郎はどうだ、態あ見やがれ、そんなものが胸の中をわく/\させて、真っ暗な途で時々ひとりでににやっと笑った。  自分の雪駄の足音が耳につく。  王子権現の境内へ着いた時はもう本当の真夜中である。丘の森が三四丁も深々とつゞいて近くの石神井川の流れの音が微かに耳につく。何んとなくぞうーっとするようだ。北二町にある稲荷は元は岸の稲荷とよんで毎年十二月の晦日には、諸国の稲荷がここへ集って来るので、その数万の狐火が松明《たいまつ》を並べたように明るくなって、森の間を縫って川の方へ通って行くという。江戸の跳ねっ返りがみんなそう云って信心に通うところである。  小吉は 「何処にいやがるだろう」  ひとり言をいって、足音をぬすんであっちこっちをさ迷った。気づかれてはならないからだ。  社の近くであった。出しぬけに 「えッ、えッ、えッ!」  腹へしみ込むような物凄い気合が聞えた。 「あッ!」  小吉は思わず、地べたへしゃがむように腰を落した。 「やっぱり本当だった。やってやがるわ」  暗い中を、木の幹から幹へ手さぐりに、その声の方へ近寄って行く。息をのんでいる。 「えッ、えッ、えッ」  それを立てつゞけに五十回もやったら、今度はそれっきり、ことりとの物音もしなくなった。  小吉も闇に馴れて、気がつくと、麟太郎からものの十間も離れないところに自分がいた。  麟太郎は石畳の上へ、じっと坐っている。 「黙坐沈思という奴だな。向う脛が痛てえだろうに」  こっちもしゃがんだまゝ暫く身動きもしないでいる。どの位、刻が経ったか、麟太郎のすっと立上った気配がした。と同時に 「えッ、えッ、えッ」  空を切る木剣の素振りが、息をつく間もなく続いている。  夜っぴて同じ事が繰返された。夜に一ぱい張詰めている大空がずた/\に引裂れているのが小吉には見えるようである。一度毎に麟太郎の精気は冴えて、小吉はぐん/\と胸元をうしろへ押しつけられるような気持になった。  片割れ月は落ちて、満天に星のみが白く輝く。   栄枯  石畳へ坐って瞑目沈思している麟太郎はそのまゝ石になって終うのではないかと思う。が、立って素振りにかゝると忽ち火を噴く気魄が、一度が一度毎に強く激しくなって行った。  姿をかくして見ている小吉は、終いには、背中がぞく/\する程怖ろしくなった。しかし胸の中には何んということなしに不思議な温い喜びが溢れ満ちて来るのである。 「やりやがるわ」  にこっとして、ふと、気がついたら、いつの間にか東の空がほんの少し明るくなっている。  小吉はあわてて抜き足でそこを立去った。やがて凍りついたような師走の朝靄が地べた一面に逼って、森も林も人家もその靄の上に墨絵で描いたように美しく見える。  権現から飛鳥山の裾に沿って駒込の上富士前へぬけて行く。六石坂《ろつこくざか》の辺りには料理茶屋が点々とあった。その中に一番道っ端のほんの掛茶屋風の「たばこや」と染抜きの暖簾をかけた一軒は、夜が明けると共に、もう店を開けて紫色の台所の煙が、ゆら/\と立っていた。  麟太郎は、今、この前を走るような急ぎ足で通りかゝった。尻の切れかゝった藁草履に素足。稽古着一枚の姿である。 「おい、麟太郎ではないか」  茶屋の内から小吉が少し呆《とぼ》けて声をかけた。 「あ、父上」 「お前、こんなに早く何処へ行って来た」 「わたくしより父上はどちらへ」 「おれはゆうべ名主の滝に剣術遣いの寄合があってそこへ出たが、飲めない酒を無理強いされて帰れなくなり、泊りは泊ったものの嫌やだから、夜の明けねえ中に出て来たのだよ。こゝで朝飯をくって行く。お前もどうだ」 「いや結構です」 「結構といっても師走というに稽古着一枚は寒いだろう。熱い味噌汁でもすゝってそれからかえれ」 「寒くも何んともありません。新堀まで駈けつゞけますから」 「そう云わずにまあ、こっちへ入って腰をかけろ」 「道場の稽古が遅れます。そう致しては居られません」 「そうかあ」  小吉と麟太郎は、肩を並べて早足で、一本杉の下をどん/\江戸へ向っていた。  小吉は、寒いだろう、おれが羽織を着ろと何度もいった。が麟太郎は首をふって、脱ぎかける小吉の肱を押さえて、どん/\歩いた。 「毎夜こゝへ来るのか」 「そうです」 「一人か」 「はい。はじめは二、三人参りましたが、寒さと眠いのに敗けて、近所の百姓家へ頼んで泊めて貰い、夜を明かしては素知らぬ顔で帰って居りましたが、先生が、出しぬけにお前らはもう今夜から行かなくてもいゝとおっしゃりみんな参らなくなりました」 「お前も百姓家へ泊ったか」 「いゝえ、わたくしは、そんな事は嫌いですからやりません」  と麟太郎がいうと、小吉はさっと明るい顔になった。 「どうだ、修行は辛いか」 「辛くはありません。父上、業を積むというはまことに面白い物でございますね。わたくしは、はじめの頃は、権現の巨木の下に端座して居りますと何んとなく心が臆して風の音が咬みつくように凄まじく聞え、思わず身の毛がよだち、今にもあの大木が頭の上から倒れて来るように思いましたが、もう何んでもなくなりました。暗いところで、たった一人、じっとしているのは楽しいものです」 「そうかねえ。まあしっかりやれ。同門のように眠いからと百姓家へへえり込み、夜が明けて先生がところへ帰るなんぞは、どんなところにもよく居る奴だがそんな事のわからねえ島田先生ではねえんだぞ。気をおつけ」 「はい」  麟太郎は道を急ぐ。だん/\市中に入って来て小吉は、別れた。  入江町へ帰ると、お信はにこ/\しながら 「如何でございました」  ときいた。小吉は上機嫌を隠す事は出来なかった。 「手に及《お》えねえわ、あ奴は大した奴だ。こっちが汗をかいて終った」 「さようで御座いますか。それは結構でございました」 「おれが、いつ死んでも先ずお前は岡野が奥様《おまえさま》のような目には逢うめえ、安心よ」 「まあ」  この晩、小吉が道具市からの帰りに、すぐ前を東間陳助が、薄汚れた尻のぬけた法衣《ころも》を着た痩せた顎の出っ張った願人坊主のような風態の男と二人、ひそ/\話をしながら歩いているのを見た。  知らぬ顔でその横を通りすぎた。 「あ、先生」  東間のびっくりした声に、ふり向いて 「何んだ」  東間と一緒に、その坊主が手を膝まで下ろしてお辞儀をした。五十五、六だろう。頭の毛もぼさぼさだし、白髪交りの顎鬚もばら/\延びている。  東間は寄って来て、早口にいった。 「先生、この男を御存知でしょう」 「知らねえ」 「業平の南蔵院と門を並べて大きな祈祷所があって一と頃滅法な全盛を極めた喜仙院というものですが」 「知らねえよ」  東間は、今度はそれへ向って 「おい、喜仙院、先生は御存知がない」 「さようで御座いましょうか」 「何んだか、大層たよりねえ男だね」 「あの頃は飛ぶ鳥を落して居りました。わたくしの富籤の祈祷は江戸一よく当るというので夜も昼も人の切れ間のない程流行りましたから、定めし先生も御存じ下さっていられたと思って居りましたは、今にして考えますと、それもこれもおのれが思い上りでございましたよ」 「何あんだそんなひとり合点か。水野越前守様が御老中にお乗出しで厳しくなさる迄は、祈祷師と町医者は犬の糞程もあったんだ。一々先生が知るものか」  と東間がぽん/\いうのを、横から小吉が 「おい、東間、その辺で泥鰌《どじよう》でも喰わせてやる。一緒に来いよ」 「はあ、有難うございます」  といって、ぽんと坊主の肩を叩いて 「おい、お前、運のいゝ野郎だ」  と笑った。  緑町の竪川ふちの泥鰌や利根屋《とねや》の縄暖簾を小吉がくゞると、亭主が飛出して来て、鍵の手になっている一寸した奥の座敷へ案内した。小吉ははじめ土間にくっついた煤ぼけた畳の広間へ上ろうとしたのだが、折角、亭主がそういってくれるのを余りきつく断るのも妙だから云われるまゝにそっちへ通った。挨拶する亭主へ 「雑作をかけるねえ。おれあね、実ああっちでみんなと一緒に板膳でやる方がいゝんだが」 「へえ、でもあちらは時分刻《じぶんどき》で余り騒々しゅうございますから」  丸泥鰌の鍋を、喜仙院には別にとって、自分は東間と差向いで箸をとった。丸のまゝの泥鰌のかすかに歯ごたえのある味を小吉は大好きであった。 「おい、喜仙院とやら、お前、酒も飲むんだろう」 「はい、有難う存じます」 「遠慮はいらない。東間、とってやれ——おう、そう/\、段々思い出して来たよ。能勢の妙見の講日《こうび》に喜仙院という祈祷師が居るときいた事は確かにあったわ。が、見るとお前大層貧乏をしているようだが、富籤の祈祷などといういかさまは矢っ張り長つゞきはしねえものかねえ」  東間が横から云った。 「先生、実はこの男が出しぬけに、わたしを訪ねて参りましてね。顔を見たがわからない、誰だというと昔馴染の喜仙院だ、忘れるは薄情だよといって恨むが、そう云われてよく/\見てもわからない程だ。人間というものは恐ろしいものですな。全盛の時と、衰運の時では、こんなに骨肉の相が変るものですかな」 「そうかねえ、変るかねえ」  小吉は頬を撫でている。 「先生にこ奴を白状するとまた叱られるでしょうが、昔ちょい/\この喜仙院祈祷の片棒を担いで、場合によってはちょいと対手に凄んだりなんかしましてね、金儲けをした事があるんですよ。この男もそれを思い出して尋ね/\てやって来た訳だが、わたしは然様《そう》云ってやったんですよ。実は斯々の次第で今は勝先生の身内だ。先生へお頼み申して見なくては猫の子一匹だって自儘にはならないと。そう云いますとね、この男、勝先生ならわたしも知っているし、多分先生も御存知であろう、どうか連れて行って呉れという。馬鹿を云いやがれ、そんな薄みっともない姿をひょいと御新造様《ごしんさん》にでも見られて見ろ、おれが大眼玉だといったんですが、手を合せて拝むものだから右金吾とも相談をしましてね——」 「おれがところへやって来ても百にもなるか」  小吉はそう云い乍ら、喜仙院を見据えて 「お前、何にかに呪われている面《つら》だ。何にをやったのだ。呪が身《からだ》にこびりついている。先ず生ある中には、二度と浮ばれねえだろうな」 「はい。そうかも知れません」  喜仙院は眼をぱち/\して、丸煮の泥鰌を箸につかんだまゝやがてぽろッと大きな涙を落した。そして 「女で御座いますよ」  とぽつりといった。耳の下から肩へかけて太く青い筋の突っ張っているのが、気味が悪い位に眼につく。 「女? はっ/\、洒落《しやれ》てるではないか」  そういった小吉はふと、またあの頃の祈祷師喜仙院の噂を思い出した。  なか/\胆の太いしたゝか者で、のべつに、間男なんかもやるが、こ奴の祈祷がなか/\当る。行をして貰って富籤を買えば先ず百番に百番|脱《はず》れがないという噂であった。  がどういうものか、本所深川でも小吉の顔を売っているところへは、こ奴は余り出て来なかった。よく/\考えて見ると一、二度は逢った筈だが、碌に話した事もなかった。  喜仙院は涙を拭って坐り直した。 「勝先生、あなた様はまだお年も若し、御気力も旺盛でいられるし、本所深川《ところ》の人気を集めて前途のおありなさるお方ですから、失礼ながら老婆心でわたくしが一言申上げて置きたいと思います。是非どうか、わたくしの言葉を覚えて置いて下さいまし。きっと後々世の中の栄枯の姿を見渡してあゝそうかとお思い当りなさることが御座います」 「どういう事だ」 「今、先生に、お前には呪がついていると申されて、ぞっと肌に粟立つ程まことに怖ろしく感じました。本当なので御座います。立派やかな祈祷所を構え、何処へ祈祷に参るにも駕にのり、絹の法衣をまとい、黒髪を垂れ流して水晶の珠数をつまぐり、数人の女を召抱えて栄耀栄華を極めましたわたくしが、こんなに零落して、住むところもないという哀れな末路になりましたについては、表向きは水野越前守様の御弾圧によると共に、肝心な事はわたしの祈祷がまるで当らなくなったという事でございます。祈祷師の祈祷が当らなくなれば、世間様が見捨てるのは当たり前の事——ですがね。どうして、あれ程当った喜仙院の祈祷が当らなくなりましたか。そこに訳があるので御座います」 「面白そうではないか。まあ、ゆっくり酒をのみ乍ら話せ。おい、東間、小女へ酒をどし/\持って来るよう云いつけてやれ」 「は」  喜仙院は余っ程腹が減っていたか、よく食べるし、よく飲む。酔ったようである。鼻がしらににじみ出て来る汗を時々人さし指で撫下ろすように拭き乍ら、じっと眼を上目遣いにする。上白眼の一寸気味悪い眼つきをする。 「ある日一人の女が富籤の祈祷にやって来ました。それがこの世の人とも思われない程に美しい」 「はっ/\、お前、それを手籠めにしたのか」  と東間がいった。 「その通りだ」  喜仙院は暫く東間と小吉を半々に見ていた。 「覚えず煩悩に駆られて、護摩壇のうしろへ引込みそれを無理にも口説き落して、それから祈祷をしてやった」 「そんな祈祷が当るかえ」  とまた東間がいう。小吉は黙っていた。 「当った。まだわたくしの身に勢いというものがあったのだ。四、五日してその美女がまた祈祷に効験があって当籤をしたからと御礼に来た」 「お前、今度あどうした」  という東間を、小吉は 「黙ってきけ」  と叱りつけて 「また手籠めか」  喜仙院は 「いやあ」  といって 「元より前の事があるものですから、口説き掛けまして御座います」   気絶  東間は軽蔑の含み声で 「わかった、今度は断られて咬みつかれでもしたのだろう、態《ざま》を見ろ」  と面白そうに手を打った。 「黙ってきけ」  小吉は横を向いていう。 「東間さんのおっしゃる通り、目に角立てて、じいーっと睨みつけてね。こっちの腹へしみるような声でこういった——わたしが亭主のある身で不義をしたのは唯々亭主が近頃こっている富籤を取らせてやりたい、喜ばせてやりたい、そういう切《せつ》ない心があったからだ、それをまたぞろ不義を仕掛けるなどは、不届千万な坊主奴が——と、瞳をうるませて睨んだ蛇のような目つきの怖ろしかった事、それにその声が、前とは違ってまるでこの世の物ではなかったのですよ。それからというものは、いつも、この女の眼とその声がわたくしに付いていて離れない。難行苦行をする身が、じり/\じり/\この姿に追い廻されましてな。終いには往来を歩いていると向うから、女がやって来る、ひょいと見ると、あの女だ、女という女があの時の形相の物凄い女の顔になってこっちの五体がだん/\縮んで終うんです」 「当たり前だねえ」  と東間はしかめッ面で 「怖ろしい女の執念という奴だな」 「はい。それからはこっちはからだは衰える一方、祈祷もまるで当らなくなって終いました。もし勝先生」  と喜仙院は小吉へ向って 「生霊が祟るなどという事はないと思いますが、詰り自分の心に咎める所があれば、何んとなく気息が絶えて来る。それで鬼神と共に働くところの、人間の至誠というものが乏しくなって参るのではございますまいか。わたくしは、こう、衰え果て、貧の底に落ち、その日の食は元より、雨露を凌ぐところさえない乞食のようになって、はじめて、人間は平生踏み歩く処の筋道が大切だと悟りました」  小吉は 「有難う」  と、一寸頭を下げて 「お前の話でおれも大いに悟るところがあった」  といった。喜仙院は 「しかしわたくしはすでに気がついた時は遅かった。年も年なり、所詮は淋しく餓死を待つばかりです。たゞ、今にして先生へこの胸中を残らずお話しして死に得るのはせめてもの幸福《しあわせ》でありました」  とはじめて、にこっとした。  泥鰌屋を出た。外は冷めたい風が少し吹いていた。小吉は出しぬけに 「おい、喜仙院、お前、それだけの悟道を得ているのだ。も一度、はじめから祈祷の修行をやり直せ。東間がところに宿借りして、先ずあの平川右金吾の病気平癒を祈るのだ。それには苦行難行もしなくてはなるまいから、そんなからだではとても持たねえ。当分うめえ物をくらって養生をするのだ。銭はおれが工面をしてやる」 「せ、せ、先生」  喜仙院は取りすがった。 「お前は今至誠は鬼神をも動かすといったが、お前が踏出して再び元へ戻って行ったら、今度こそ本当の神通力だ。おれはその日を待ってやる」  小吉は今度は東間へ 「そのつもりで面倒を見てやれ」  喜仙院は、地べたへ膝がしらをついて、小吉へ手を合せた。  小吉が何んだか、いゝ事をしたようなものを抱いて屋敷へ帰ったら、お信から 「お留守中に、堀田さんが見えていました」  ときいたが 「あ奴、何にかというと用人をやめさせて呉れという。困った奴よ。また其の事だろう」  と、気にもかけぬようにしてねて終った。  次の朝、ぱら/\と霰交りの粉雪が降った。積るという程ではなかったが、白粉をまいたようなところが、ところ/″\に出来た。  その為めか小吉が他行留の間にいじり廻した庭が、ちょいと風情がある。縁の障子を開けて、どっかと坐って、莨を吸い乍ら 「お信どうだ、こうなると、おれが庭も満更じゃあねえね」 「さようで御座いますか」 「おや、気のねえ返事だねえ」  お信が笑いながら茶を出した。石灯籠の下の万両の紅い実が粉雪をかついで美しかった。  男谷精一郎と島田虎之助が、連立ってやって来たのは、小吉が茶一服を喫し終らない中であった。島田がこゝへ来たのははじめてである。  あの時は、あれ程島田をおもちゃにして遊んだ小吉も、今は流石にびっくりして、お信へは急《せ》わしく何にかと云いつけて、自分は羽織を着て玄関へ出て行った。 「これは/\」  島田は鄭重に頭を下げて 「その砌は有難うございました」  といった。 「いや、あの事は水に流して貰いたいよ。赤面汗顔。さあ、どうぞ上って下さい」  と、今度は精一郎へ 「おのしは非番かえ」 「は、そうです。実はゆうべ島田が道場へ泊りましてね。いろ/\相談の結果、参りました」  小吉はすでにぴーんと来た。 「あの腕白奴、物にはならないか」  虎之助黙って、眼をぱち/\したが、精一郎は 「いや、物にならないどころではない。まあ島田が申すところをきいて下さい」  と笑った。 「ほう」 「実は昨日」  と虎之助は、きっと膝を揃えた。お信が茶をもって来る。精一郎は静かにそれを喫し、今度は島田へ出たが、些か閉口の顔をした。 「がぶりと頂戴すれば宜しいのだ。作法も何にもない。ね、叔父上、それでいゝのですね」  と精一郎に云われて小吉は大声で笑って 「兄上がよく口癖にいう千利休の悟道の歌よ。茶の湯とは唯湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし。はっ/\/\、あれでいゝのよ。茶ばかりではない、剣術もな」 「はあ」  虎之助は一礼して 「麟太郎と唯二人きり、道場に出て手合を致しました。わたくしに多少の考えがあり、力任せに打ち、力任せに突き、さん/″\な目に逢わせましたところ、遂に麟太郎はあえぎ乍ら組みついて参ったのです」 「へーえ、小僧が」  小吉はぐうーっと首を前へ出して、またゝきもしない。 「わたくしは、これをまた力一ぱいに道場へ投げつけましたところ、麟太郎は、そのまゝ気絶を致しました」 「ふむ、だらしのねえ——」  小吉は少し頬をゆがめて呟いた。虎之助は 「わたくしは、面をとり抱きかゝえて活《かつ》を入れたのです」  といった。  小吉はからだをせり出した。そして虎之助の言葉が切れるか切れないに 「あ奴、何んと云った?」  それがまるで剣術の気合のような烈しいものであった。精一郎も虎之助も、その突込みに打たれて、些かの間、呼吸が詰った。 「はあ」  と間をおいて虎之助は 「正気づくと共に、麟太郎は、にっこり笑いました」 「笑ったか」 「そして、先生、わたくしの死相はどうでしたろうとたずねました」 「死相をきいたか」  三人はそれから少しの間、無言をつゞけた。  小吉はやっとほぐれて 「精一郎、あ奴はとんと強情だねえ」  といった。 「はっ/\は。叔父上はとっくに解っていられながらあんな事をおっしゃる。叔父上、島田もそう申すのです。この上、もうわれ/\が竹刀をとって教うべき何ものもない、麟太郎はすでに極意に突入している。わたくしにしても島田にしても、呼吸を吹返すと共に、わたくしの死相はどうでしたと、先ず第一にそれをたずねる程出来ているかどうか。自ら省みて甚だ疑わしい」 「それは買いかぶったよ、あ奴は唯の強情だよ。本当だよ」 「いゝえ、そんな事はない」 「禅も修行いたし、剣もこゝ迄来たら、もう、お前へけえすと云う訳かえ」 「そうではありません——わたくしも島田も麟太郎には、この上は専心、学問をさせようではないかと相談をきめたのです」 「学問ねえ」 「阿蘭陀です。間もなく日本は阿蘭陀の学問に風靡される。麟太郎に、その時に風雲に乗じて立つ用意をさせたい。叔父上、麟太郎を唯の剣術遣いにしては勿体ないと思います」 「ふーむ」 「日本国は空には、すでに唯ならぬ風が吹いている。是非、わたくし共の説くところに賛成して下さい」  おだやかだが精一郎の語気には強い信念があった。小吉は 「お前が——」  と云いかけて、急に 「おのしが——」  と改めて 「そう云うなら、文盲のおれに文句はないが、阿蘭陀は誰に教わるえ。新しいのを鼻先へぶら下げて、ずいぶん嫌味な奴もいるというではないか」 「それも島田と相談して見ました」  虎之助が、にこりともせずにいう。 「当時江戸市中蘭医蘭学の師は八十余人ありますが先ず湯島の箕作阮甫先生、津山侯松平三河守様の侍医です。近く大公儀の天文台訳員に補せられるやに聞及びます。宇田川榛斎先生の門より出でて、いよ/\深く猥りに人に許さないところがあって人物が面白いとききました」 「そうか。近頃の江戸はてめえを売込んで広めようという奴が多くてねえ。おのしら、おれが麟太郎を買いかぶったように、一ぺえ喰わされているのではないか」 「そんな事はありません」 「では麟太郎をそこへやるか」 「それをお願いに参った次第です」 「じゃあ、あ奴、家へけえって来るね。はっ/\は、あ奴、とう/\おのしらに持て余されたか」  精一郎も虎之助も、それは飛んだ思い違いである、われ/\は唯、麟太郎に、学問をさせたい一心で、こういう事を考えたのだと、むきになって弁解する。何あに、小吉にも、そんな事はとっくに合点がいった。が、口先きでは別な事を云っているのである。  その晩、麟太郎が入江町へ帰って来た。お信は少しの間でも、他人の飯を喰ったためか、何にかしら、滅法大人びて来たような気持がして、そっと肩の辺りを撫でて見たりした。 「おい、いつからその箕作てえのへ行くのだ」  小吉は腹んばいになっていた。軒にさら/\と微かな音がする。また小雪でも降っているのかも知れない。 「明朝から参ります」 「ほう」  と小吉は、頬をふくらませて、それを軽ろく叩き乍ら 「阿蘭陀もいゝが、どうにも寝言《ねごと》のようなものだねえ」 「そうでしょうか」 「堀田がいつか真似をしていたよ」  お信は、ちらっと麟太郎の着物の肩の辺りが破れているのに気がついた。が、そのまゝ黙って 「明朝というなら、もうおやすみなされ」  そう麟太郎へ云った。  麟太郎がねたら小吉は小さな声でお信へさゝやいた。 「もうお正月だ。年が明けてからと思っていたら、明日からとは驚いたね」 「着物も破れて居りますし——」 「おれが外着《そとぎ》を早えところ縫い直しておやりな」 「はい。それでは明日|市《いち》へ参りますに、あなたがお困りなさいましょう」 「いゝよ、明日はまた明日の風が吹く、何んとかなるよ」 「よろしゅうございますか」 「もう夜も深けえにすまねえが、お信、そうしてやってくれ」   江戸人  ひどい寒気《かんき》だ。四辺がしーんとした中で庭の手洗鉢へ張った氷がぴしッ/\と裂けるような微かな音がする。  お信が、行灯を寄せて、傍目もふらずに着物を縫直している襟足の青白さを、今夜はお信の代りにお順を自分で抱いてねている小吉が、やっぱり気になって眠れないか、時々、うす目を開いてはそっと見守った。  麟太郎の寝返りを打つのも感じられる。  縁の雨戸の細い隙間が静かに明るくなって銀鼠色の朝が明けて来る。 「とう/\夜明しかえ。すまねえねえ」  父が母へそういうのをきいて、麟太郎は床を出た。麟太郎は母を見て思わず眼を伏せた。拝みもしたい気持だ。  往来は雪か霜か、まだ真っ白であった。小吉は胡坐のまゝで、外の様子を気遣ったがお信は麟太郎を門の外まで送って出た。 「剣術の道場とは違いますからね。物腰は鄭重に、ねえ」 「はい。母上、では行って参ります」  行きかける麟太郎へお信は飛びつくようにして、着物のゆき丈を、も一度直してやった。  二、三丁行ってふり返った。お信はまだじっと見送っていた。麟太郎は、頭を下げて、そこから駈け出した。  箕作阮甫の屋敷は湯島の中坂下にある。遂い先頃までは侍医として津山侯鍛冶橋内の上屋敷のお長屋にいたが、お許しを得て小旗本屋敷を買って造作を新たにし、門内にはずうーっと玉砂利を敷き詰めて式台などもなか/\立派であった。  麟太郎はこの門を入る時に、母に云われた事を、ふと思い出した。剣術の道場とは違うのだと。  途中から腰を折るようにして玄関へ近づき、取次の者へ、蘭学志願の者である事をいって、先生への取次を頼んだ。その謙虚な物腰を、もし、父の小吉が何処かで見ていたら眼をうるませたかも知れない。  取次は、奥へ入ると、すぐに 「お逢い出来ない」  といって断って来た。しかし麟太郎は、三度も四度も押返して頼んだ。四度目には、むかっとした。が、麟太郎の眼の中に、あの襖の隙間から見た母が行灯を引寄せて、着物を仕立直している寒そうな、痛わしいうしろ姿が閃めいて、すぐ気が静まった。そしていっそう鄭重に 「お願いで御座います。も一度申上げていたゞけませんか」  取次が渋々引込んで行ったと思うと、奥の方で何にか大声で怒鳴りつけるのが聞こえた。と同時に荒々しい足音がして、出しぬけにそこへぬうーっと突立った人物がある。四十歳位で額の広い眉の長い眼のつぶらな、がっちりと肩幅が広く何んとなく逞ましい人であった。  麟太郎は、はゝーあんこれが箕作先生だなと思った。  阮甫は一応津山の城下に生れたという事になっている。しかし、島田は何処できいたものか、あれは本当は奥州水沢の人間で、酒の上で人を殺し、逃げて岡山に隠れ一と頃は岡山侯に仕えたが、後ち京へ上って医学を研鑽《けんさん》し、その後また津山侯に奉公した一風変った人だといっていた。  そう云えば、眉の間にも眼の光にも、そうしたところが無いではないと、麟太郎はも一度阮甫を仰いで、じっと見詰めた。 「おれが箕作だ。お前は何処の人間だ」  少し甲高い声でいった。 「お取次を以て申上げました通り、幕府家人勝麟太郎でござります」 「江戸人だな」 「は」 「おれは江戸人は嫌いだ」  麟太郎の頭上へ吐きつけるようにいった。 「蘭学の研鑽など浮薄な江戸人のよく出来得る事ではない。一生を費して尚お足りん難事だ」 「凡そ物事を学びますに、易々たる気持はございません。命をかけてやります」 「命をかける? ふゝン」  阮甫は鼻先きであざけり笑った。 「江戸人は二た言目には、よくそんな事を云うが、一体この江戸にそんな人間がいるのか」 「何んと仰せられますか」  麟太郎の瞳が矢のように阮甫の真正面から射りつけた。その鋭さに、阮甫は一寸眼を伏せた。 「だが——お前、少しは蘭学をやったか」 「これから始めるのです」 「わッはっ/\/\」  阮甫は突拍子もない、しかし虚ろな大声で笑った。 「どうせ貫けん事だ。中道に挫折する、始めざるに如くはない」 「いや、わたくしは」 「わたくしは別だというのか。それが、おれの嫌いな江戸人の自惚れだ」  麟太郎は、すっと立った。顔色一つ変えず、にやっとして 「失礼ながらそうした江戸人以上に先生御自分が自惚れていらっしゃいます。先生に出来る蘭学が江戸人に出来ぬという法がありましょうか——では、これで御免蒙ります。はっ/\/\」  麟太郎はもう後をも見ずに、早足で玄関を離れて行った。砂利を踏む足音が少し荒々しかった。  阮甫は顔が真っ紅になっていた。一介の青年に天下の箕作が恥かしめられたような気持で、ぶるぶる五体が慄えた。 「ば、馬、馬鹿めッ」  式台を蹴って奥へ入ったが、今の麟太郎の最後の如何にも嘲笑に満ちたあの声がいつ迄もいつ迄も耳について離れない。  麟太郎は中坂を下り切ったお化け稲荷の前まで来て、はじめて瞼が一ぱいに熱くなった。着物の袖を突っ張って、うるんだ眼でじっと見た。そこに昨夜のあの母の姿があり/\と浮んで来る。  阮甫というはあんな男か。あれに入門出来なかった事は少しも惜しくない。が、両親がどんなに落胆するだろうと思うと本当に堪らなかった。  しょんぼりとして入江町に帰って来る。小吉も、市へ行くのを止して、からだは延々と寝ころんではいるが、内心は首を長くして待っていたのである。 「どうした」 「駄目でした」 「何」 「江戸人は最後まで学問を遂げられないからならぬといって断られました」 「何?」 「いゝんです。何あに他に良師を求めて、麟太郎は今にあの箕作阮甫を見返してやる」  小吉は暫く黙っていた。二、三度、唾をのんだ。 「はっ/\は。馬鹿め、見返してやるの仕返しのと、土地《ところ》のならず者がような吝ン坊な気持でどうするんだ。麟太郎。もっと大きな奴になれ、もっと大きな奴に——」 「は?」 「箕作阮甫だけが蘭学ではねえだろう」  その真夜中——といってももう朝に近く、東間陳助がまた門の戸を叩いた。今夜は道場の泊りであちらにいると、急使で、車坂の井上伝兵衛先生が、何にやら不慮の死を遂げられたとの知らせで、男谷先生もこれから出向かれますが、何んなら御同道をとの事ですという。 「不慮の死とはどういう死方だ」 「往来で暗殺されました」 「下手人は」 「まだわからんそうです」  門の内と外で、こんな会話をしている間に、お信は小吉の外出の用意をしていた。  小吉と精一郎が車坂の井上道場へ馳せつけた時は、もう夜が明けて伝兵衛の養子誠太郎をはじめ、門人達も大勢詰めかけて上を下への騒ぎであった。  井上は駿河台小栗坂の千二百石の旗本村越豊之助方の茶会に招かれて酒に酔っての帰途、昌平橋を渡った御成街道で、不意にうしろから肩先へ斬りつけられ、伝兵衛が刀に手をかけて振向くところを、重ねて脇腹をやられて遂に倒れた。  しかし温厚だが気丈な伝兵衛は刀を杖によろめき乍ら、近くの自身番へ行ったが 「おれは車坂の井上伝兵衛である。狼藉に逢ってこの始末」  といってこゝで絶命して終ったという。  小吉は、伝兵衛の顔を掩うた白い布を静かにとって 「井上さん、変った姿になられたねえ」  といって泣いた。精一郎は、お城があるから戻ったが、小吉はそのまゝ東間も残してこの道場に三日泊った。 「おい、東間、お前、あ奴《やつ》を知っているか」 「どれですか」 「ほら、今、仏壇の前に坐って泣いている。あ奴が一番泣くし、一番まめ/\しく働くよ」 「あゝ、あの人ですか、わたしは知りませんが、御町奉行鳥居甲斐守様お気に入りの御家来で、井上先生の御門人との事です」 「ふっ/\、臭せえ野郎だ」 「え?」 「いや、何んでもねえがねえ。名前をきいて置け」  それから間もなく、本庄茂平次どのと申されるそうですと、東間が小吉へ報告した。 「嫌やな目つきだねえ」 「そうです。目つきも然様《そう》ですが、あの猫撫声は、ぞうーっと毛肌が立ちます」 「あゝいう人は怖いもんだよ」  葬式が終って入江町へ帰って来た。精一郎も一緒で途中で別れた。 「おや、麟太郎はいねえね」 「はい」  とお信は、玄関で潔めの塩を小吉に打ちかけながら 「お留守中ではございましたがあの次の日から、蘭学の永井青崖先生のお許《もと》へ通って居ります」 「ほう」 「赤坂溜池黒田美濃守様御中屋敷のお長屋に居られます由で」 「流石ああ奴だ。早えところ取りついたが、誰方《どなた》の手引だえ」 「誰方のお力もお借りせず、自分一人でお願い申したようで御座います」 「はっ/\。やりやがったね。お信、これあやっぱりひょっとすると、あ奴は鷹《たか》だよ」 「え?」 「永井青崖先生というは、おれも聞いた事がある。五十二万石の美濃守様がこの人に滅法な腰の入れ方で、入用な蘭書はどんな高値《こうじき》な物もどん/\長崎の蘭館からお買入れの上、お遣わしになるそうだ。ほんに麟太郎奴、いゝ先生をつかめえたわ」  その夜、思いもかけず、珍らしくも彦四郎がほんの目と鼻の間を駕でやって来た。精一郎が付添って来た。彦四郎は、近頃、五つも六つも年をとった程に老けて、顔色も悪かったし、手足もいくらか慄えている。  精一郎が腕を担ぐようにして彦四郎がやっと駕から出たのを見て、小吉も飛出して行って、片方の腕を担いで屋敷へ入れた。  座敷へ坐ると直ぐ彦四郎は 「お信よ、濃茶《こいちや》を一服所望だ」  といった。 「はい」  すぐお信が茶を立てる。これを喫し終ると 「実はな、今夜は心からの祝儀に来た。わしは、麟太郎が専心蘭学をはじめたときいて、うれしくて、じっとしては居れんのだ。近来からだがとみに衰えて御城の勤めも休ませていたゞき、諸家方へ文字の御師範も確くお断り申している始末だが、ます/\気短かでな、じっとしては居れなかった」  彦四郎は、ふところから袱紗に包んだ金を出して、お信の前へそっと押した。 「麟太郎の学費の足しだ」 「有難う存じますでござります」  お信が平伏すると 「小吉」  と、妙に大きく息を切って 「これからはな、精一郎もよく然様《そう》言うがもう剣術遣いなどはいらん世の中になるぞ。第一、往古よりして、如何な大きな戦さも鉄砲隊の数の多少が、悉く勝敗を決しているのだ。わしはな、遠からず世の中に大きな変革が来る、その時に政事に当る者も、それ自身も一番|厄介《やつかい》になるのは、剣術遣いとその亜流だと思っている。その剣術遣いのお前は、今更どうにもならん。唯、麟太郎だけは、そういう場合に世の中に無くてはならん人物にして置きたいのだ。それには学問だ、しかも新しい学問だ。小吉、わしはうれしいぞ」  どういう訳か彦四郎の頬にぽたりと涙が伝った。 「わしは、もう余命いくばくもあるまい。寝ていて往事をいろ/\考えて見る。よく/\考えるとお前もいゝ人間だ、しかも一かどの人物だ、はっ/\/\、お信や」  と、にこ/\笑って 「人間年はとるものだ。今になってやっとこんな事に気がついてな。この小吉の血をついで、深く学問をした人物、それがどんなに素晴らしいか。ふッ/\/\。時にまだ麟太郎は戻らんのか」 「はあ」  と精一郎が 「あれは永井先生の戻りには、欠かさず道場へ立寄りますから」 「まだ剣術もやっているか」 「は。剣術は技ではない心だ、だから、毎日欠かしてはならんと、わたくしが教えて居ります」 「はっ/\/\。それもいゝだろう」  彦四郎はまた涙をこぼした。   騒乱の世に  よかった、よかった、彦四郎は同じことを幾度も繰返して、また駕で帰って行った。小吉は何んだか、狐につままれたような気持がした。後で頂戴した袱紗を開けて見たら小判五両であった。 「妙だねえお信」 「はい、でも兄上様にあんなに喜んでいたゞいて、こんなうれしい事は御座いませぬ」 「兄上も、とんと涙もろくなったねえ」 「はい」  彦四郎が、厠から出て、俄かに中風を発し、廊下で打倒れてそのまゝからだが不随だという急使が来たのは、次の早朝であった。  小吉は色をかえて飛んで行った。  父の平蔵が深々とした立派な夜具に埋もれて寝ていたあのよく庭の見える座敷に、彦四郎が、まるで平蔵の時を写したような豊かな拵えで小女二人を枕元に置いて臥ていたのへ、小吉が 「如何なされました」  といったが、彦四郎は唯、にっこりと笑ってじっと小吉の顔を見ただけであった。その笑顔がゆうべ麟太郎が蘭学に専心するときいて喜びを述べに来たあの時の顔と少しも変らなかった。  やがて新しい年が明けて、岡野の孫一郎が頻りに縁談を騒ぎ立てるが、小吉は余り対手にならない。東間と堀田が、薬研堀の町の師匠のところへ乗込んで行って、きっぱりと手を切らせたのも、米屋の娘の方の片をつけたのも、当の孫一郎は知らないから、夜になると 「米屋の娘が来ないねえ」  と堀田へぶつ/\云った。 「左様でございますな。明日にも行って参りましょうか」 「いや、明日と云わず今夜行ってくれ」  堀田はそのまゝ出て行く。が、行くところは定って東間陳助の家であった。  平川右金吾もだいぶいゝし、喜仙院もこゝにいるし、夜更ける迄いつも話がはずむ。 「しかし、米屋の娘の一件で大川丈助が、一も二もなく承知をしてあれ以来堅く守ってびくともさせないのは、あ奴の事だから一寸、薄気味が悪いな」  と東間がいう。 「いや、あ奴もすっかり勝先生に兜をぬいで終ったのだよ。自分の慾というものが無いのだからあゝいう奴らには先生のような人が一番怖い。それが近頃は丈助もはっきりしたのだ。丈助は狡い奴だからその辺を素早く呑込んだのですよ」  と堀田はすっかり安心している。 「これで岡野家も、後は嫁入の段取りだが、今度は用人は嫁の里から入れると先生がおっしゃる。他人事だが、わたしは今からその用人が気の毒でならんよ」  と堀田は言葉をつゞけてから 「おう、そう/\、東間さん勝先生を喜ばせる事があるよ」  といった。  堀田の語るところによると、不思議な事で堀田は麟太郎の蘭学の先生永井青崖と知り合である。自分からもよく頼む気で勝先生に申すと頭から叱られるから窃かに行って逢ったところ、いやもう坊ちゃまの慧敏は、眼光紙背に徹するという訳で、一を教えれば十を知るとはあの事だといって青崖先生も驚嘆していたという。 「青崖という人はねえ、自ら謙遜で些かも学殖を誇らない人だ。が、背景が何しろ大きいし、先ず日本一だ。坊ちゃまは箕作に断られて却って幸福《しあわせ》をした。大成する人物には常に幸運の星が随《つ》いて廻るものだ。あの人は偉くなるよ」  東間も大きくうなずいて、堪らないうれしそうな顔をした。  岡野家は毎晩そんな訳で孫一郎は、じり/\してその辺の物を庭へ投げつけたり、堀田へがみがみ怒鳴りつけたりするが、こっちでは唯にや/\笑っている。その中に、今度は奥様《おまえさま》に当り出す。 「母上がいつも青い顔をしていられるから、女共が屋敷へ寄りつかなくなるのだ。出て行きなされ。父が柳島であんな最期を遂げるようになったのも元はと云えば、やっぱり母上が悪いからだ。母上、あなたは、岡野家の悪鬼だ」  どしんと奥様《おまえさま》の胸をついた。そうでなくてもお弱い奥様である。座敷へのけ反ると、そのまゝ起きなさらない。  これを堀田が見た。流石に、かっとした。いきなり、孫一郎へ飛びつくと 「何にをなさる、殿様」  と叱りつけるように叫んだ。 「何? 主人に向って、こ奴め」  孫一郎が打ってかゝった。丁度小正月の宵であった。  堀田はその片腕を押さえて、肩へかつぐと、どーんと座敷の真ん中へ、力一ぱいで叩きつけた。  孫一郎は、ぐうーっと不思議な声を出してそのまゝ、眼をむいて手足を突っ張って動かなくなって終った。  投げつけたはいゝが驚いたのは堀田である。奥様が倒れている。殿様が倒れている。行灯の灯で、その有様は気味悪い。  夢中になって、庭木戸から跣足で小吉の屋敷へのめり込んで行った。土のような顔色である。 「おゝ、びっくりさせやがる、何あんだこ奴《やつ》」  小吉は、炬燵へ膝を入れ、お信と向い合いでお順をあやしているところであった。 「先生、大変なのですよ」  堀田は早口でいった。 「ふン、お前また殿様と口論でもしたか」 「こ、こ、口論どころではないんです。早く来ていたゞかなくては奥様も殿様も死にます」  小吉が来た時は、すでに奥様は息を吹返して孫一郎を膝に抱きかゝえ頻りに介抱していられた。小吉の顔を見ると洪水が堰《せき》を切ったようにわッと泣いた。 「用人に投飛ばされて気を失うなんぞは、誠に困った千五百石だ。奥様、殿様は、もう五体の骨がとろ/\に溶けていやんすね」  と云い乍ら、奥様の膝から孫一郎を引きとって、ぐッと活を入れる。孫一郎はうーんと呼吸を吹返した。 「殿様、侍は恥を知らなくちゃあなりませんね。いや、人の道を知らなくては、神も仏も許しませんよ」  孫一郎は、たゞ、きょとんとして、少し青みがかった瞳で小吉を見詰めていた。その顔がやっぱり死んだ江雪に似たところがある。  小吉が屋敷へ帰る時に堀田をつれて来た。 「馬鹿奴、殿様を投げたら用人を首にするとでも思いやがったのか。主人を投げるなどは不届千万、その科《とが》でお前、まだ当分、あすこの用人だ」  そう云われて、堀田は首を縮めた。  天保十一年六月廿八日。  朝から雲が低く江戸中が釜の中にいるように蒸暑かった。霧のような靄のようなものが一ぱいに立罩めて、亀沢町の角、松平左衛門の下屋敷の塀から往来へ延びて出ている夾竹桃の花が、すぐ側へ行ってもぼんやりと霞むように見えている。  |八つ刻《ひるにじ》、燕斎男谷彦四郎は、この暑さの中で死んで行った。行年六十四歳。前夜、小吉の顔を見て、またいつものようににこっと笑ったのが最後であった。  小吉三十九歳。麟太郎十八歳。男谷精一郎三十一歳。  秋になって夜毎に月が明るい。  昼は晴れた日がつゞいて、青空の美しさが、いつも輝やくようであった。  麟太郎は、今日も黒田邸内の永井青崖の屋敷の一室に机の前にきっちり坐って、頻りに蘭学を習っている。黒田家中の門人拾人が、一生懸命だ。みんな麟太郎よりは年上で、中には子供の二人三人あるような年配の人もいる。障子を開けた縁側から涼しいというよりはもう少し冷めたい位の爽やかな綺麗な風が流れて来る。  誰か客が来て、先生の御新造様《ごしんさん》が静かに応対しているような声がした。その御新造が正面に坐っている先生へ 「都甲《つこう》先生がお見えでございます」  といった。青崖は、おゝと云って立ちかけたが、立つ迄もなくそこへ無遠慮につか/\入って来た者がある。すっとした何んとなく鶴のような感じの老人で、もう六十はとっくに越しただろう。真っ白い油気のない総髪を無造作にうしろに垂らしていた。大きな声で 「おゝやってるな。みんな顔が生々している。学問程楽しいものはないからね」  といって、青崖の傍へどっかと坐った。青崖はにこ/\して、丁寧に応対しているし他の門人達もすでに知っているらしく一斉に目礼した。麟太郎だけは、初めて見る人で、心の中で傍若無人だなあと思って、顔を見上げていた。  老人もじろりと麟太郎を見返した。青崖は、すかさず、御家人勝麟太郎と申します、甚だ執心《しゆうしん》の者ですから今後よろしくというような事をいった。  老人はふと、首をふった。 「おい、お前さん、ちょいとこっちへお出で。不思議な人相だよ」 「はっ/\/\! 勝さん、見せておやりなさい。この人は人相を見るのが病気だ」  しかし、麟太郎は、黙って、老人を見詰めているだけで動こうともしなかった。老人はつかつかと傍へ行った。 「おれは馬医者だ。だが馬の面ばかり見ていても面白くねえから、近頃は人間の面も見るが、人間は馬よりは余っ程詰らねえ面だよ——ほう、お前さん、若けえが出来てるね。剣術は余っ程やったね」 「未熟でございます」 「師匠は誰だえ」 「島田虎之助先生でございます」  麟太郎は、この老人がぐん/\ぐん/\自分の胸へ迫って来る不思議な圧力というようなものを感じて、気持の中で、逆らう事が出来なくなって来ている。 「お前さんは妙だね。左の眼の瞳が重なっているよ、その上、その光り方が唯じゃあねえ」  といって、ごくりと息をして 「青崖先生、この人はね、他日その志を得ば必ず天下を乱さん、然らずして自ら騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずるという世に二つとはない相貌だ。大そうな者が弟子入をしたよ」 「そうですかなあ」  と青崖は別に真面目にもきいていなかったが 「勝君、そのつもりで一生懸命おやりなさい」  といった。老人はまた麟太郎へ 「どうだ、お前さん、以前にも誰かに同じ事を云われたろう」 「いゝえ別に」  麟太郎は、そう云った。しかし確かに云われた事がある。父小吉の友人にもう死んだがやっぱり本所《ところ》の売卜者で関川讃岐といういつも酒に酔っている相撲取のような大きなからだの人があった。これが麟太郎の顔を見る度に、今、老人の云ったのと同じ事をしかも文句まで全く同じにくどくどとしゃべったのを覚えている。 「自ら騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずべし」  あの尻上りの関川の言葉がまだ耳の底にこびりついているのである。 「おれはね、麻布の狸穴にいるよ。遊びにお出で」  老人はそういって、御新造に案内されてはじめて奥へ入って行った。  麟太郎は、後で、机を並べている人達へ、あれは誰方《どなた》様ですかと訊いた。年かさの一人が笑いながら 「とう/\勝さんも、あの先生の肴にされたな。あれは元公儀の御馬役を勤めたお方で、都甲市郎左衛門とおっしゃる。蘭学は大先輩でね。深さの底が知れないと、こちらの先生もいつもおっしゃるんだ。馬脾風《ばひふう》、石淋などという馬の病気は何千何万両を投じた名馬でも忽ちにして悶死した。それをあの都甲先生が蘭書によって馬医の学を研究し、これを訳もなく癒して終われるので、一時は、公儀の御役ばかりでなく諸侯に招かれて飛ぶ鳥を落したものだよ」  という。  もう一人が 「それがいつの世にもある奴で同役の小輩どもが嫉妬して、挙って先生の邪魔をする。第一どうして蘭書によってそれを研究したかというと、公儀御文庫の御蔵書おむしぼしの時に盗み読みをしたという事がわかって、馬鹿々々しいが、お許しもなく、左様な事をしたのは怪しからんという事でね、これが問題になると、先生は、怪しからんかね、へえ、そうかねといって直ぐにお役を退いて、狸穴へ閉籠って終ったのさ。滅多に人には逢わない。諸藩からの招きがあるが行かない。尤も御馬役の時に数え切れん程にうんとお金を貯えたという事でね。我儘にもう好きな事をして思う儘の日を送っていられる様子だよ。尤も蘭書の翻訳は一日も欠かされんそうだが——」  こんな話をしているところへ、都甲老人が、お酒に酔って真っ紅な顔をしてふら/\とまた出て来た。 「おい、勝といったね。きっと狸穴へ遊びにお出で——ところでえーっと。お前さん、だいぶ怒りっぽいようだね、さっきの目つきがそれだった。え、腹を立ててはいけねえよ。いゝか、え、風が右から吹いたら左へなびく、左から吹いたら右へなびく、唯根だけはぴったりと大地へ据えて、ぴくりとも動かねえ事だよ。いゝかえ、対手に何にか云われて腹を立てる事はそれでもう対手に負けた事だよ。どんな事でも、ふむ/\、そうか/\と云って居れるようになれあ、人間一人前だよ。くどくいうが、お前さんは、騒乱の世に逢わば国家の大事に任ずる人だ。富士の山を御覧な。嵐が来、雲が来て、全山を掩いかくして、これが行きすぎれば山は元の美しい姿のままで、小揺ぎもしていない。勝さん、頼むよ」  御新造が、出て来て小脇をとり 「さ、先生、あちらへ/\」 「有難う。御造作をかけますねえ。が、おれはこの勝という青年が妙に気にかゝってね。おれはもう六十を越えた、この青年の騒乱の世に任ずる男ぶりを見ずに死ななくてはならんかと思うと、急に、年をとったのが口惜しくなりました」  都甲老人はまたへた/\と麟太郎の前へ倒れるように坐って 「頼むよ」  といって、しっかりと麟太郎の手をとった。 この作品は昭和三十九年六月新潮文庫版が刊行された。